25 約束は守りましょう
夕方、視察から帰った両親とノアにも、「足を滑らせて川に落ち、メルと騎士たちに助けられた」と報告した。
「メル、ロッティを助けてくれてどうもありがとう」
お母様だけでなく、お父様もメルに深く頭を下げた。
だけど、メルは肩身の狭そうな表情で俯いた。
「いえ。本当はロッティが落ちる前に防がないといけなかったのに、申し訳ありません」
それを聞いたお父様は、いつもメルに向けるムッツリ顔に戻ってしまった。
「それもそうだね」
「もう、セディ。メル殿下、本当に感謝するわ。これからもロッティをよろしくね」
「はい」
メルは浮かない顔のまま頷いた。
夕食後、ふたりになった時にメルが言った。
「どうして僕のせいで落ちたって言わなかったの?」
そんな風に思っていたのか。
「あれは完全に私の不注意で、メルのせいではないでしょ」
「僕のせいだ」
「違うわ」
私がきっぱり言っても、メルは納得しない様子だった。
「メル、そんな顔でいるなら、明日のデートはなしにするわよ」
「嫌だ」
「だったら、婚約者を救った王子らしい顔で笑って」
メルは少し考えてから、ニヤッと笑った。まったく王子らしくないけど、まあ、良しとしよう。
メルと「おやすみ」を言って分かれてから、ノアの部屋に向かった。
家族にもメルとの出会いを思い出したことは話したけれど、同時に思い出してまだ誰にも打ち明けていないことを聞いてもらうために。
9歳の私も、鬱々としていた。
原因は、同年代の男の子たちの私とアリスに対する態度のあからさまな違い、だっだ。
私はお母様譲りの容姿を卑下するつもりはなかったし、何でもない顔でアリスを庇っていたけれど、まったく平気だったわけではなかった。
ちょうどその頃、大好きな人と婚約して幸せいっぱいの顔をしていたお姉様を祝福しつつ、私だけを見て私だけを大切にしてくれる人なんて現れないのではないかと不安になるくらいには傷ついていた。
そんな状態だったから、いつものようにアリスと一緒にいるよりも、ひとりで過ごす時間が多かった。
そしてそれは生まれて初めて訪れた異国の地でも変わらず、私はひとりタズルナの王宮のお庭をぶらぶらと歩いていた。
目の前で男の子が池に落ちたのは、そんな時だった。
水に浸かったまま声を出さずに泣いている彼に、私は手を差し出さずにはいられなかった。
そうして私は彼ーーメルに懐かれた。
メルには早々に家族を紹介したし、アリスもメルとは普通に話せたけれど、それでもメルが朝早くから会いに来るのは私だった。
メルは私の取り留めのない話を本当に楽しそうに聞いてくれた。
メルは話すことは苦手だったけど、喜怒哀楽の感情はすぐ顔に出るのでわかりやすかった。正確には、あの頃のメルには「怒」が欠けていて、代わりに強い「怖」があった。
同じ歳頃の男の子たちがメルを揶揄って面白がっていたらしいのも、それが理由だろう。
そして、分かれの日にメルは泣きながら「強く大きくなってロッティに『結婚してください』って言う」とまで宣言してくれた。
それは本当に嬉しかったのに、「僕のことは忘れて」がまるで魔法の言葉のように私に作用してしまった。
「なるほど。つまり、ロッティの傷ついた自尊心を癒してくれたのがメルだった、と」
私の話を聞いてそう纏めたノアに、少し考えてから頷いた。
「まあ、そういうこと」
「そして、ロッティが本当に忘れたかったのは鬱々としていた情けない自分自身で、気持ちが浮上するきっかけをくれた、いわば恩人のメルのことまで一緒に忘れてしまったわけか」
「……多分」
ノアの冷静な言葉で聞くと、自分がますます嫌な人間に思えた。利用して、期待させて、全部忘れてしまうなんて。
しかも、メルが喜んで聞いてくれるからと、私は様々なことを偉そうな顔で無責任に喋ったのだと思う。何を話したのかは、ほとんど覚えていない。
「ああ、もう。できることなら8年前の私を叱ってやりたいわ。少し違えばメルは品行方正で理想的な王子になっていたかもしれないのに」
ノアがブハッと吹き出したので、睨みつけた。
「何よ?」
「いや、そんなメルも見てみたかったが、ロッティは今のメルが好きなんだろ? さらに言えば、ロッティにとってメルが王子であることは重要でなかった。たまたま『ロッティの王子』が本物の王子だっただけで」
私はその問いには無言を貫いたが、ノアはわかっているという顔で笑った。
私がいつメルとの出会いを忘れてしまったのかは思い出せないけれど、少なくともエルウェズに帰国する道中、ノアに「将来、メルが私に求婚してくれるんだって」と話し、「それは父上が荒れそうだな」と言われた記憶は戻った。
「別に良いんじゃないか。責任は取るんだし」
「責任を感じてメルと結婚するわけじゃないわ」
もしも私が最初に出会った時のメルを忘れずに彼と再会していたとしても、あのメルにはきっとがっかりしたと思う。でも、やはり辿り着くのはここだったという確信があった。
つまり、そういうことだ。
「それはともかく、何でこの話を私にするんだ?」
「お母様はきっと忙しいもの」
「違う。母上や私でなく、メルに話せよ。喜ぶと思うぞ」
私は顔を顰めた。
「だって、こんなことをメルに話すのは格好悪いでしょう」
「目の前で川に落ちて助けてもらっておいて、今さらだろ」
「……そうかもしれないけど」
「まったく、メルもあれだが、ロッティも素直じゃないな。メルの気持ちを信じるのは構わないが、たまにはしっかり愛情表現してやったらどうだ?」
「ノアに言われてもね」
私はノアにお礼を言って、自分の部屋に戻った。
翌日、私は約束どおりメルとともに街へ出た。もちろんメルの護衛や私のメイドたちもついて来たので、ふたりきりではない。
一応、私たちの服装はお忍びの体だったけど、領民は私の顔を知っているので、手を繋いでいるのが隣国の王子であることはここでもすぐに気づかれたようだった。
それでも、遠巻きにしてくれているので有難い。メルのニヤニヤ笑いもこの距離なら普通の笑顔に見えている、と思いたい。
まず私はメルを本屋に連れて行った。
店主に来店理由を話すと、「これではありませんか?」と一冊の本を手渡された。
私が読んだものと装丁が違うような気がしたけれど、頁をめくってみるとまさにあの王子と騎士の物語だった。
「どう、読めそう?」
隣から覗き込んでいるメルに尋ねた。
「思ってたより難しそうだけど、何とか」
「わからなかったら辞書を引くか、先生に教えていただきなさい」
「うん。絶対に最後まで読む」
メイドに支払いを頼み、店主にお礼を言って店を出た。
メルは本を片手に、自然な笑みを浮かべていた。うん、王子らしくなった。
「他に行きたいところはある?」
「ええと、義父上がこのあたりに美味しいお菓子屋があるって言ってたんだけど」
「お父様が?」
いつもぞんざいに扱っているメルにもそういうことをしてしまうのは、まったくお父様らしい。
私が素直じゃないのも、きっとお父様に似たのだろう。
メルがタズルナに帰国する日、朝食前にふたりで森を散歩した。
あれ以来、散歩中メルが痛いくらいに私の手を握るようになったけれど、それについて文句は言えなかった。
「メル、今年は色々とありがとう。実は、ちょっと気になることがあってメルが来るまで気持ちが沈んでいて、それであの時もあんな風になってしまって……」
「もしかして、友達のことまだ解決してないの? ええと、セアラ、だっけ?」
私が手紙に書いたことを覚えていたのかと、ちょっと驚いた。
「やっぱり僕がその人の屋敷に乗り込もうか? それとも、今から領地に行ってみる?」
「そういうのは駄目だと言ったでしょう。いくら王子でも、許されないこともあるのよ」
「うん。というか、ロッティの言ってたように、王族だから許されないことのほうが多いのかも。僕は大した力もない第三王子だし」
メルはいつになく神妙な顔で私を見つめた。
「だけど、ロッティのためなら何でもするから、僕と結婚してください」
私も真っ直ぐにメルを見上げた。私だけの王子を。
「はい」
たちまちメルの表情が崩れて、ヘラっとした笑顔になった。まあ、そのほうがメルらしいけどね。
領地から都に戻ってしばらく、我が家にふたりの女性を迎えた。
タズルナの王家から派遣された私の王子妃教育のための家庭教師、王宮での作法やしきたりなどを教えてくださるマードック先生と、タズルナの地理や歴史などを教えてくださるサイモン先生だ。
マードック先生はお母様と同じくらいのお歳で、伯爵の未亡人だった。普段はニコニコしていらっしゃるのに、いざ講義となるとかなり怖い。
一方のサイモン先生はお母様より一回りほど歳下で独身の子爵令嬢。この方は見た目どおりに厳しい講義をなさるけど、話してみると意外に気さくだった。
毎日おふたりの講義に必死に取り組みながら、空いた時間には家族の肖像画を描いた。タズルナに嫁ぐ時に持って行くものと、置いて行くものを。
案の定、マードック先生はあまり良い顔をなさらなかったけど、「殿下も私の絵を観ることを楽しみにしてくださっているんです」と微笑むと、何も言われなかった。
嘘でもないけれど少しだけ気が引けたので、私は初めて小さな自画像を描いて手紙と一緒にメルに送った。
メルからは喜んでいる様子が目に浮かぶような返事が届いた。
あの物語は少しずつ読み進めているらしい。私も久しぶりに読んでみようか。




