19 可能性はあるのです
鬱々とした気持ちを抱えたまま長期休暇を迎え、家族と一緒に領地に移った。
メルからも「行く」と連絡があった。今の状況であの暢気な笑顔を見たら腹が立ちそうな気もするけれど、「待ってる」と返事をした。
王子は青鹿毛に跨って現れた。
会うのは1年と数か月ぶりだけど、メルはさらに背が高くなって、顔立ちからもだいぶ幼さが抜けたようだった。
だけど、家族とともに出迎えた私を見てヘラっと笑ったのは相変わらずで、私は意外にもホッとしてしまった。
ランディの手綱を握っているためこちらに駆けて来られないメルのもとに私から近づいた。
「いらっしゃい。遠いところをよく来てくれたわね、ランディ」
私がランディの首を撫でると、メルは不満そうな声を出した。
「何でランディが先なんだよ」
「だって、ランディに会うのは本当に久しぶりなんだもの」
改めてメルを見るとその顔にも不満が表れていて、思わずクスクスと笑ってしまった。
「いらっしゃい、メル。会えて嬉しいわ。来てくれてありがとう」
「ロッティが望むならいつでも来るぞ。僕はロッティの婚約者だからな」
「学業優先で良いわ」
メルは自らランディを厩舎に引いて行き、水や餌をあげたりブラシをかけたりした。
センティアの寮に入ったためなかなかランディに会えなくなったので一緒に来ることにしたそうだ。
その代わりというのはおかしいが、メルについて来たのは3人の騎士だけで侍従の姿がなかった。乗馬が得意でないので置いてきたらしい。
それは気の毒にと思ったけれど、もしかしたら侍従本人は安堵しているのだろうか。
そんなわけで、再びベッキーとコリンがメルのお世話をすることになったのだが、寮生活では身の回りのことを自分でしているため、「3年前よりさらに楽ですね」というのがコリンの感想だった。
メルのエルウェズ語がずいぶん上達したので、ベッキーや他の使用人とも会話に困らなくなった。
私たち家族も、メルがいても普段どおりエルウェズ語で話した。
メルが言い間違えたり発音がおかしかったりすると、その都度お父様が細かく直した。私たちには向けない厳しい顔つきで、嫌がらせのつもりでやっているようだけど、メルは「義父上はやっぱり親切だな」と感謝していた。
メルはセンティア校で出された課題をこなしつつ、3年前と同じように私との乗馬や散歩を楽しんでいた。
しかし、私は両親とノアの領地視察に何度か同行させてもらうことになっていた。
「明日は私もお父様たちと出かけるから、メルはアリスたちとお留守番していて」
メルにそう伝えると、彼はきっぱり言った。
「僕もロッティと一緒に行くぞ」
「遊びに行くわけじゃないのよ」
「わかってる。ロッティと同じものを見たいんだ。婚約者だし」
メルの表情は真面目そのもので、私は困惑した。
私が隣国の王子と婚約したことはもちろん領地でも知れ渡っているので、メルが私と一緒に来ればすぐに正体に気づかれるはず。騒ぎにならないだろうか。
傍にいたノアを窺うと、兄はサラッと答えた。
「別に良いんじゃないか。うちの領民たちは割と王族に慣れているし、貴族の令嬢たちほどには羽目も外さないだろ」
ノアの頭に浮かんだのは1年前の歓迎パーティーでメルが騒がれたことではなく、自分自身がいつも囲まれて辟易していることかもしれない。
それにしても、確かに私たちのお祖母様は元王女だからコーウェン領民にとって王族は決して遠い存在ではないと思うけど、前領主夫人と隣国の王子を同じように考えていいのだろうか。
私の疑問を読んだように、ノアが続けた。
「ロッティと結婚すればメルがコーウェン公爵を継ぐこともありえるんだから、顔を売っておくのも悪くない」
「メルがコーウェン公爵なんて、縁起でもないこと言わないでよ」
そんなことになるのは、ノアとメイに何かあった場合だ。
お父様はひとりっ子で兄弟がおらず、お姉様と結婚したお義兄様はマクニール侯爵を継ぐ方なので、メルもしくはアリスの結婚相手にお鉢が回ってくる。
「もちろん私は今の立場を誰に譲るつもりもないが、そういう可能性がまったくないとは言えない。それに、今のところ、メルはタズルナの王位を継ぐよりコーウェン公爵になる可能性のほうが高い」
ノアが未だ婚約者さえいないのに対し、タズルナの王太子殿下にはすでにお子がいて、その分メルの王位継承順位が下がったためだ。
ノアと私の会話を聞きながら首を傾げていたメルが口を開いた。
「その時は僕じゃなくてロッティが継げば良いんじゃないか? もちろん僕も一緒にエルウェズに住んで、ロッティを助けるよ」
私は、おそらくノアも、ちょっと驚いてメルの顔を見つめたけれど、メルは特に気負った様子もなかった。
「ロッティが公爵か。それもありだな。前例はあるし、陛下は認めてくださりそうだ。他は煩いかもしれないが、まあ、隣国の王子が継いでも反発はあるだろうし……」
ノアがブツブツと呟いた。
前例といっても、男性で爵位を継げる人がいないような場合のごく稀なものだ。けれど、私を官吏にと仰った陛下ならお許しくださるに違いない。
現在の社交界において、「女公爵」はお母様を揶揄する言葉だ。
お母様がお父様とともに公爵の役割を担っていることを面白く思っていない方々が少なからずいるのだ。
私が本物の「女公爵」になっても、同じような方はたくさんいるだろう。そんな中で、お母様のように毅然と立ち、ノアのように冷静沈着に行動していかなければならない。
でも私が公爵になるとしたら、頼れる兄はいないのだ。
やはり、ノアがコーウェン公爵になる将来のほうが想像しやすい。
「ま、あくまで可能性がなくもないって話よね」
私の言葉にノアが頷いた。
結局、その翌日はメルも一緒に視察に向かった。
牛をたくさん飼育している牧場と、家具などを作っている木工所。
視察先でメルが王子として特別扱いされることはなかった。
正体に気づかれなかったわけではなく、お父様がきちんとメルを紹介しなかったことで、隣国の王子はお忍びで婚約者に会いに来ているのだから気づいていない振りをすべき、と判断されたのだと思う。
そもそも、メルはどこに行っても私の手をしっかり握っていたのだ。気づかれないはずがない。
そんなメルを見てもお父様が何も言わないのは、自分もお母様と手を繋いでいるからだろうか。
婚約者である領主の娘との仲が良好で、エルウェズ語を解し、熱心な様子で見学する王子は好感を持たれたらしい。
木工所では帰り際、メルと私にお土産としてお揃いの小物入れをくれた。幾何学模様の繊細な彫刻が美しく、メルもとても喜んでいた。
私はセアラ様の件が心にかかりながらも、ここしばらく穏やかに過ごせているのはメルのおかげだと思い、密かに感謝していた。
そんなこともあってか、メルの帰国日が近づくにつれふたりで散歩する距離が長くなっていった。
「まだ帰りたくないな」
いつもの小川のせせらぎが聞こえる森の散歩道を並んで歩きながら、メルがポツリと溢した。
「メルがコーウェン領を気に入ってくれて嬉しいわ」
「ロッティと一緒にいたいって意味だって、わかってるだろ」
わかってる。私も、できればもう少しメルに傍にいてほしい。
そう思ったらいつになく感傷的な気分になってしまい、慌てて明るい声を出した。
「まったく、メルは本当に私が好きね」
だけど、メルが焦った様子で口にしたのは、予想外の言葉だった。
「な、何言ってるんだ。僕は別にロッティのことなんて好きじゃないぞ」
私の心がスッと冷えた。
私への好意を散々態度で示しておいて、今さらすべて否定するのか。皆がそう思っているのに、私の勘違いだと言うつもりなのか。
足を止めて、メルを見上げて尋ねた。
「だったら、どうして私とあんなに婚約したがっていたのよ?」
「そ、それは、ロッティも王子妃になりたいだろうと思って、色々世話になったから、お礼みたいな……」
私の中の何かが割れる音が聞こえた。
「いらないわ」
「え?」
繋いでいた手を思いきり振り払った。メルの顔色が変わったけれど、構わず冷えた声で言った。
「私がそんなお情けの婚約をほしがるわけないでしょう。むしろ王子妃なんて、できればなりたくなかったわ」
「あの、ロッティ、違……」
「帰ってください。今すぐタズルナに帰って、私のことはすべて忘れて、王子妃になりたい別の方と婚約し直したらよろしいですわ」
メルの顔がさらに強張った。私はメルに背を向けて歩き出した。
メルも動き出すまでは、少し間があった。
「ロッティ、待って」
手を掴まれて、また振り払い、足を早める。
「ロッティ、聞いて」
「聞きたくありません」
苛立ちに任せて道を外れ、木々の間を進んだ。メルも追って来た。
川音が徐々に大きくなり、やがてふいに視界が開けたところで再び伸びてきたメルの手を払い、振り返って睨みつけた。
「ついて来ないで」
次の瞬間、足元がズルリと滑って私の体が大きく傾いだ。
メルが目を見開いて私の名前を叫ぶのが聞こえ、すぐに私自身が川に落ちる大きな水音に掻き消された。
全身で水の冷たさを感じながら、冷静になった。この川は小川で、それほど深くはないはず。
でも手足を動かそうとしてもドレスが絡みついて思うように動かせず、立ち上がることも水面上に顔を出すこともできなかった。
ふいに耳の奥で、メルにぶつけた「私のことはすべて忘れて」という言葉がこだました。
私はこんなところで死ぬのだろうか。最後にあんなことをメルに言ったままで。
メルは傷ついた顔をして、それでも私を追って来てくれたのに。
メルを想ううちに、別の声が聞こえてきた。「僕のことは忘れて」と。まだ幼い、でも懐かしい声だ。
同時に、私にそれを言った相手の姿が鮮やかに蘇った。
池の中で泣いていた男の子。気弱で、話すことが苦手で、でもはにかんだ笑顔がとても可愛いかった。
私に懐いて毎日のように会いに来てくれて、それなのに分かれの日、彼は泣きながら言った。「僕のことは忘れて」と。
ああ、思い出したわ、メル。




