10 素直になれば穏やかに過ごせます
領主館近くの森をメルと並んで歩いた。
コーウェン領はエルウェズの都やタズルナの都よりも高地で夏でも過ごしやすい場所だけど、この森の中はさらに涼しく、耳に心地良い小川のせせらぎも聞こえて、私たち家族にとっては定番の散歩コースだ。
メルは先ほどまでのことなど忘れたように、初めて経験した長旅や昨日の夕食、我が家の馬たちなどについて取り留めなく語った。
浮かれて興奮しているのが声で伝わってきた。
チラリと顔を窺えば、やはり顔が赤らんでいる。
「それで、メルは何を見たいの?」
ちょっと意地悪な気分で尋ねると、メルはキョトンとした。
「エルウェズがどんなところか見たかったのでしょう」
メルは拗ねた顔になった。
「わかってるだろ。ロッティの顔を見に来たんだよ」
「あら、そのわりには昨日から全然私を見なかったわね」
「……ロッティ、怒ってるの?」
「怒ってなんかいないわよ。また同じことをしたら許さないけど」
「絶対にしない。アリスとはもう話さない」
「アリスは私の大事な妹なのよ。そんな極端なことしないで普通に仲良くしてちょうだい」
「ああ、普通に」
私は小さく溜息を吐いた。多分このあたりの機微はメイのほうがよくわかっている。
「それから、相手の都合も確認せずに訪ねるのはやめなさい。あなたが考えているよりも王子を迎えるのは大変なことなのよ」
「そうなのか。次に来る時は連絡する」
また来るつもりなの、と思ったが、とりあえず流すことにした。
「国王陛下の許可もいただいてね」
「うん」
再びメルを見ると、メルも私を見た。
彼の目線の高さは、私より少しだけ上になっていた。
メルが次に見たいと言ったのは私の部屋だった。
ちょっと迷ったけれど、私も昨年はメルの部屋に何度か入ったので、見せてあげることにした。
領地に滞在する期間は短いので、都のお屋敷の部屋に比べると置いてあるものが少なくてだいぶ簡素だ。
それでもメルは部屋に1歩踏み入れた瞬間から物珍しそうにキョロキョロし、ソファの上のクッションや壁に架けてある絵やタペストリー、棚に飾った人形などに次々と触れていった。
さらにメルは勉強机の前で足を止めた。
ごちゃごちゃだったメルの机とは違い、きちんと整理していると自負できる。
「そういえば、勉強道具を持って来なかったんだ。本か何か貸して」
王子に課題も出せず、突然休暇を取ることになったのであろう家庭教師に同情する。
「貸してもメルは読めないと思うけど」
「ロッティのほうが難しいことやってるかもしれないけど、僕だって読むくらいできるさ」
「それなら、どうぞ」
私は机の上に置いていた歴史の本を手渡した。
メルはそれをペラペラと繰った。
「何だ、これ。何が書いてあるか全然わかんない」
「ほらね。メルはエルウェズ語は読めないでしょ」
「エルウェズ語? もしかしてエルウェズってタズルナと言葉が違うの?」
「そこからなの?」
「だって、ロッティたちはタズルナ語を話してるじゃないか」
メルが来てしまったから私たちもタズルナ語を話しているだけで、家族だけならもちろんエルウェズ語を使う。
「エルウェズの貴族はタズルナ語を学ぶのが当たり前なの。誰もがスラスラ話せるわけではないけれど」
私たちはお父様とカイル殿下が親しいことなどもあって、幼い頃からお父様やお祖父様にしっかり教わってきたから、タズルナに行っても言葉にはほとんど困らなかったのだ。
「どうりで、ここの使用人と話が通じないはずだ。馬車の中でノアがよく意味のわからない言葉を呟いてたし。あ、でも、コリンは僕の言うことわかってたぞ」
「コリンは男爵家の生まれで、もとはノアの乳兄弟だから、子どもの頃はノアと一緒にお勉強もしていたのよ」
「へえ」
「だから、勉強したいならノアにセンティア校の教科書でも借りたら良いわ」
「ノアは言葉が違うのにセンティアで首席だったのか」
「そうよ。なかなか優秀な兄でしょ」
メルは呆然とした様子で頷いてから、パッと私に顔を向けた。
「決めた。僕もエルウェズ語を勉強する。ロッティ、教えて」
「その決意自体は良いのだけど、ノアに教わったら?」
「ロッティが良い」
「わかったわ」
ノアも嫌がりそうだし、仕方ない。どちらにしても、10日ほどしかないのだ。
そんなわけで、私はメルにエルウェズ語を教えはじめた。
まずは「おはよう」、「こんにちは」、「ありがとう」といったところから。
昼食の時には、アリスとメイにエルウェズ語で話してもらった。
話題は、今日はお父様たちはどこで昼食をとっているかや、午後は何をしようかといったことだったけど、メルは目を丸くして聞いていた。
昼食後、メルは悔しそうな顔で言った。
「これ以上、メイに負けてたまるか」
メイに負けている自覚があったのね。
エルウェズ語に関してはメイと競っても仕方ないと思うけど、やる気があるのは良いことだ。
午後はメルに請われるまま、時にはアリスとメイも巻き込んでエルウェズ語の簡単な会話を教えていった。
夕方、お父様たちが帰宅した時には、私たちと一緒にメルも出迎えて、覚えたてのエルウェズ語を披露した。
「お帰りなさい。僕はタズルナから来たメルです。美味しいお菓子屋はどこにありますか」
ただ覚えたことを並べただけで意味のある会話にはならなかったけど、お父様とお母様に褒められて本人はとても満足そうだった。
夕食後の居間は普段ならタズルナ語で会話する時間になるのだが、今夜はメルのためのエルウェズ語会話の時間になった。
こういう時のお父様はとても面倒見の良い先生で、メルの発音を直したり、同じ意味になる別の言い方を教えたりしてくれた。
冷静に考えれば、一家団欒の中に隣国の王子が混じっているという可笑しな状況なのに、あまり違和感を感じないのが不思議だった。
翌朝、私は早起きして厩舎に向かった。メルと乗馬をする約束をしたのだ。
私がしっかり乗馬服とブーツを身につけ、ひとりで馬の背に乗ってみせたので、メルは驚き、それからちょっとがっかりしていた。
今年こそ私と相乗りするつもりだったらしい。
それでも、私と馬首を並べることはメルも楽しんでいた。
私は都にいる時に乗馬をするのは屋敷の敷地内だけだったが、領地でならもう少し遠くまで行けた。
メルも王宮の城壁の外で馬に乗ったことはなかったそうで、遠くまで景色を見渡せる場所ではずいぶん気持ち良さそうな顔をしていた。
乗馬と散歩とエルウェズ語会話の習得。これがエルウェズ滞在中のメルの生活の中心になった。
国王陛下の予告どおり、メルがコーウェン領を訪れて10日目にタズルナから迎えが来た。
帰り支度を整えたメルは、寂しそうに言った。
「じゃあ、帰るね」
「気をつけて。……メル、来てくれてありがとう。会えて嬉しかったわ」
正直に伝えると、メルの顔が輝いた。
「また来るね」
「ええ」
「手紙書くから」
「返事はエルウェズ語で良いかしら?」
「う、ん。帰国したら読み書きも勉強する」
玄関前に居並んだ私たちにエルウェズ語でお礼を言ってから、メルは馬車に乗り込んだ。
初めての見送る側で、初めての穏やかな分かれだった。
最後に走り出した馬車の窓を開けて、メルが手を振りながら叫ばなければ。
「ロッティ、学園に入っても浮気するなよ」
私たちは浮気の心配をするような関係じゃないでしょ。
馬車が門を出て行ってからチラリとお父様のほうを窺えば、お父様もじっとりとした目でこちらを見ていた。
「ねえ、ロッティ、結局メルは何しに来たの?」
「エルウェズの見物ですわ、お父様」




