小国の姫君は王子と結婚したくない
《フォーア》大陸の小国――《アルゼン》に、美しい姫君がいた。
まだ幼いながらも、聡明で心優しい姫は民に愛されていた。
そんな姫に婚約の話が持ちかけられたのは、十歳になった時の事だ。
隣国であり、大国でもある国の王子に見初められたのだ。
王子もまたとても心優しい青年であり、二人の婚約に表立って反対の声を上げるものなどいない。
そう思われたが――
「男と結婚なんてしてたまるかーっ!」
まさかの本人が反対の声を上げていた。
しかし、そんな声を誰かに聞かせるわけにもいかない。
姫君は、王子に婚約を諦めさせるために無理難題を押し付ける事にしたのだった。
***
「オリエ様、オリエ様ー!」
一人のメイドが、慌ただしくその名を呼ぶ。
手あたり次第に声をかけるが、返事はない。
それもそうだ――メイドのいるのは一つの村くらいあるのではないかというくらい広い庭園だった。
それでもよく手入れされた草花がある辺り、そこがどういう場所なのかがよく分かる。
広い庭園の中を、一人で走り回るのは一苦労だろう。
草花に囲まれた少女――オリエはむくりと身体を起こして答えた。
「こっちこっち」
「あ、オリエ様っ」
たったっ、とメイドが駆け足で寄ってくる。
オリエはふわぁ、と小さく欠伸をして目をこすった。
ドレス姿で寝ていたからか、オリエの服にはあちこち花びらが付着してしまっている。
ただ、そんな姿すら可憐とも言えるのがオリエという少女だった。
しかし、花びらだけでなく土汚れまでも付いてしまっている。
「ああ、ドレスをこんなに汚されて……」
「別に汚れてなんてないよ?」
「土が付いてます!」
「払えば平気よ」
「またそんな事……オリエ様は庶民とは違うんですから――って、そんな事話している場合じゃないですっ!」
「どうしたの、そんなに急いで」
オリエはそう言って立ち上がる。
その姿は可愛らしい人形のようで、まだ十歳という年齢ながら大人と会話するのにも何ら遜色はない。
翡翠色の髪はよく宝石に例えられ、それと同じ色の瞳もまた大変珍しいものであった。
オリエ・メーデス――小国と呼ばれる《レナス王国》の姫君だ。
才色兼備という言葉がよく似合う彼女は、慌てふためくメイドの姿を見てくすりと笑う。
「少しは落ち着いて。ここは風が気持ちいいから」
「そうなんですか――って、それどころではないです! オリエ様、今日は何の日かお忘れですか!?」
「何の日……ゴミの日?」
「そんな庶民的なお話しではないですって! 王子がお見えになる日ですよ!」
「……やはりゴミの日」
ぼそりと聞こえないよう小さい声で呟くオリエ。
メイドはいそいそとオリエの手を引く。
「さあ、早くお部屋に戻って準備をしましょう!」
「嫌、わたしはここにいたいの」
「な、こんな時にそんな……」
(オリエ様がこんな風な我儘を言うなんて……王子に会うのが恥ずかしいのかしら)
メイドはそう解釈した。
オリエはまだ幼いが、我儘を言うような子ではない。
むしろ、人が嫌がりそうな事でも率先して引き受けるような、そんな存在だった。
巷では女神だとか天使だとか、そんな呼び名すら上がってくるほどに。
ただ、屋敷に住まうメイド達も含め、それを認めてしまうほどにオリエという少女は完成されていたのだった。
そんなオリエが、隣国の王子に会うのを嫌がっている――そんな理由は一つしかない。
相手はオリエの婚約者で、しかも大国の王子だ。
小国の姫君であるオリエが逆らえばどうなるか――という事も以前までなら考えられたが、実際には違う。
王子はとても心優しい人物だったのだ。
だからこそオリエが嫌がる理由があるとすれば、そんな王子に会うのが恥ずかしいというくらいしか考えられない。
「オリエ様、最初は恥ずかしいかもしれないですが、男女の付き合いというのは慣れなのです」
「知った風な事を言うのね」
「……メイド長が言っていました」
メイド長が、と付け加えると何でも説得力が増してくる。
オリエは嫌がってはいるが、渋々頷いて、
「分かった、戻るわ」
「は、はいっ」
どのみち避けられない事だからだ。
オリエは恥ずかしがって嫌がっているのではない。
本気で、オリエは王子と会うのを嫌がっている。
そんなオリエの気持ちを知る者はない。
いてはならない。
なぜなら、彼女がオリエ・メーデスだからだ。
***
生まれた頃のオリエは、初めは触られるのを嫌がった。
それは男に限らない事が、数日もしないうちに変化した。
女性に限り、オリエはおよそセクハラとも言える事を赤子の頃からするようになっていた。
それも若い子ばかりだが、幼いオリエがそのような凶行に走ったところで、じゃれているに過ぎないと思われるに留まる。
それをオリエが理解したからこそ、今も若い子ばかり選んで近くに置くようにしている。
ただ、選ばれるのは身寄りがなかったり、お金に困って働かなければならなくなったりした子をわざわざ選んでオリエは近くに置いていた。
そんな少女達だからこそ、オリエは幼いながらもとても慈悲深く、誰よりも心優しい姫君であると疑わない。
オリエの本性を知る者は、この世にいないのだから。
「ふぅ」
着替えを終えたオリエは一人、トイレにいた。
トイレというのはある意味不可侵領域であり、オリエが一番安全に一人でいられる場でもあった。
「ちっ、王子と結婚なんかするわけにはいかない……」
そんな個室に響くのは、可愛らしい少女の声。
演技ではなく、それはオリエ本人から発せられているものだ。
オリエ・メーデス、民衆に愛された姫君は、過去の記憶を持っていた。
過去とは自身の生まれた頃からの記憶ではなく、生まれる前の記憶だ。
およそ何の変哲もない凡人で、いやどちらかと言えば屑野郎と言える部類。
お金も好きだし女の子も好き。
そんなどこにでもいるような、男だったのだ。
そう、問題なのは男であったという事。
オリエが何よりも女の子が好きなのはそこにある。
生前そこまで触れ合う事ができなかった子達に、触れる事ができる。
お金には困っていないオリエの欲求の中でも常に満たされないのは女の子達とのふれあいである。
そこでオリエは、ただひたすらに善人を演じた。
根底には女の子と触れ合いたいという欲求しかないにも拘わらず、演じる事自体は想像以上に上手くいっていた。
このままいけば、オリエのための「きゃっきゃうふふ」な花園を作り出す事も不可能ではない。
――そんな時に現れたのが、大国の王子であるラルフ・ガイナールだった。
「余計な事をしてくれる……!」
オリエのハーレムはこれからだと言うのに、ラルフはオリエとの婚約話を受け入れたという。
隣国であるとはいえ、国力に圧倒的に違いがあるにも拘わらず、なぜこうなってしまったのか――それは、オリエの考えていた極力善人を演じるが災いしていた。
オリエの話は当然、隣国にも届いてしまう。
オリエと、オリエには姉のアリナがいる。
アリナもまたとても美しく聡明で、次期王となるのはアリナとされていた。
オリエはその補佐をするという立場だが、オリエとしてはむしろそれくらいの立場の方が丁度いい。
そのはずだったのに、結婚ともなってしまえば国を移動する事になってしまう。
暮らす環境がリセットされるばかりか、今のようにある程度自由な暮らしもできなくなってしまうかもしれない。
そもそも――王子とはただ一度パーティで出会っただけの相手だった。
姉のアリナ曰く、ラルフは数ある婚約話は全て断ってきており、オリエの話もいっているとの事だったが、断られるものばかりと思っていた。
それは当日の出来事だ。
「君がオリエかい?」
月夜に照らされた金色の髪が、夜風に揺れる。
大国の王子というくらいだからもっと派手かと思ったが、装飾はやや質素なのもので、イケメンではあるが長身でも筋肉質でもない。
そんなラルフが、パーティ会場から抜け出したオリエに声をかけてきた。
「王子……このような場所でなにか?」
「ラルフで構わないよ。僕も普通に接させもらうからね」
「そう、なら普通に話すね」
オリエがそう答えると、きょとんとした表情になり、くすりとラルフは笑った。
特段おかしな事を言ったつもりはないが、相手は隣国の王子だ。
オリエも立場というものは理解している。
邪険にはせず、それでいて近づきすぎない――つまらない女を演じてさっさと婚約話を断ってもらおうと思っていた。
「パーティは嫌いなのか?」
「嫌いというか、こういう静かなところが好きなの」
もちろん、本当ならお酒でも飲みながら女の子とイチャイチャしたい。
それが本音ではあるが、オリエは立場上それはできない。
後で寝室に若いメイドでも呼んで合法的におさわりをするつもりではあった。
「そうか。僕もこういうところは好きだよ」
「そう」
「ああ、あまり来られるような立場ではないけどね」
それは嫌味でもなく、そういう立場の人間だと言っているだけだ。
実際嫌味っぽい言い方ではないが、イケメンのそういうところを見ると、オリエは少しいらつく。
何とも理不尽な性格である。
「それなら王子なんてやめて、旅にでも出たら?」
これは完全な嫌味だ。
オリエはこんな事を言う性格ではない――世間一般ではそう知られている。
これにはラルフも驚いた表情で、オリエを見た。
オリエも、「しまった」と心の中で呟く。
自然と出てしまった嫌味によって、ラルフの機嫌を損ねてしまうかもしれない。
オリエはあくまで友好的な関係のまま婚約話を終わらせるつもりだった。
だが、ラルフは少しの静寂のあと、
「ふっ――あははははっ!」
先ほどまでの印象とは違い、大声で笑い始める。
今度はオリエが面食らってしまう。
「いや、すまない。聞いていた話ではとてもおしとやかで、誰にでも優しい姫君と聞いていたが……まさか王子をやめろと言われるとは」
「あ、その……ごめん――」
「謝らなくていいさ。本当に、君の言うとおりさ」
「え?」
「嫌ならやめればいい。けれど、そんな事を口にできるほど王族というのは簡単じゃない」
ラルフは楽しそうに話す。
何が面白かったのかオリエには分からなかったが、ラルフは何かを決意したような表情になると、
「君みたいな子は初めてだ」
「え、え?」
スッとオリエの手を取り、ラルフは膝をつく。
オリエは訳もわからずその状況に呆然とする。
その後は特に何もなく別れたのだが、ラルフは去り際に「また会おう」と言い残したのだった。
そして、婚約話を受け入れたラルフが再びこの小国に、オリエにやってきた今に至る。
あのやり取りから導きだされた結論は、
「まさか王子が隠れMだったとは……!」
オリエはそう判断した。
年端もいかない少女に軽くとはいえ嫌味を言われ、あんな風に喜ぶなんて間違いない。
きっと結婚したあとは罵ってほしい、とかそういう変態的なプレイを要求してくるのだろう、とオリエは想像した。
女の子とならいざ知らず、男とそんな事をしたいとは思わない。
オリエはグッと拳を握りしめ、王子への対抗策を講じる事にしたのだ。
「ふふっ、待っていろ……変態王子め」
別段何もしていない王子に対して、オリエはそんな謂れのない濡れ衣を着せながら、そう呟くのだった。
***
ラルフがオリエの下へとやってきたのは、ひとしきり挨拶を済ませた後だった。
本来ならば王と王妃――つまり、オリエの両親と姉のアリナに婚約者であるオリエで迎え入れるのが通説だが、オリエは別室で待機していた。
ラルフの目的は改めてオリエとの婚約について話す事。
国の事を考えれば辺りがラルフと結婚するのが正解であり、むしろこちら側にデメリットはない。
オリエの性格も考えれば、二人の相性は抜群だと言える。
ただ、それは表向きの話だ。
元来自分本位な性格のオリエだっため、自分一人なら逃げ出す事も最悪考えられる。
だが、オリエを愛してくれる姉のアリナがいる。
アリナはオリエにとっても大事な存在であり、一番気兼ねなくイチャイチャできる存在だ。
それを見捨てる事はできなかった。
「オリエ、話は聞いているかな」
「婚約の事?」
「ああ、僕はそれを受け入れたが、実際のところ君の気持ちを聞きたいと思ってね」
気持ちを聞きたいなどと言いつつも、周囲の反応から断れないのは目に見えている。
オリエも理由なしに断る事はできないと思っていた。
だからこそ、オリエはこの数日間――王国騎士団のところへとある人物を派遣していた。
そこから得た情報をもってオリエは、
「すごく嬉しい話だけれど、わたしは受け入れられない」
「なっ――理由を聞いても?」
かなり驚いた表情だったが、ラルフはすぐに冷静さを取り戻した。
「男と結婚などするか、バカ!」とでも叩きつけてやりたいところだが、オリエも努めて冷静に話す。
「わたしがラルフ様と結婚するとなると、そちらの国にいけないと行けないから」
「家族と別れるのがつらいのか? 確かにその気持ちは理解できるが……会おうと思えばいつだって会えるさ」
ラルフならそういう風に言ってくるだろう。
ここで食い下がるという事はやはり若くして自身よりも年下が好みなロリコン野郎か、と思いつつもオリエはその理由を口にした。
「この国の危機を放っておく事はできないから」
オリエの言葉にまた、ラルフが驚く。
オリエの作戦は、国にかかわる大きな問題をそのまま自身の悩みとする事だった。
その危機というのも、オリエが事前に調べたものだ。
「北の砦にはドラゴンが住み着いているの」
そう、これは事実だ。
地上最強と名高いドラゴンが、何故だか北部の砦に住み着いている。
オリエが確認する限りでは、王国騎士団にとってもっとも警戒すべき問題であった。
そして同時に、誰にも解決できないような問題である、そうオリエは考えていた。
ドラゴンに勝てる人間など存在はしない。
ドラゴンがいる限りは国の事が心配だからここは離れられない――心優しいオリエという評価に対して至極真っ当な理由付けをしたとオリエは心の中でほくそえむ。
そして、そのドラゴンはすでに住み着いてから二年以上は経過しているのだ。
一度住み着いたドラゴンは早々にいなくなる事はない――それが世間一般の常識だ。
この短期間でいなくなるとも考えにくい。
「だから――」
「そのドラゴンさえいなくなれば、君の心配はなくなるという事かな?」
「え? あ、うん」
唐突にラルフにそう言われて、オリエは頷いてしまった。
肯定するのは間違いではないのだが、ここでラルフが話に割り込んでくるのは予想外だった。
「なら、その心配の種は僕が取り除いて見せよう」
「どうやって?」
「そのドラゴンに会ってくる」
「……は?」
ラルフがそう宣言したのを聞いて、オリエは思わず聞き返してしまう。
心優しい王子にして、オリエからは隠れMという評価を受けているラルフは、ドラゴンに会いに行くなどという頭のおかしい事を言い始めた。
ドラゴンに会うなど、そもそも遭遇すればその場で死ぬかもしれない。
さすがのオリエもラルフを止めようと思ったが、ラルフは「心配ない」と一言答えるとオリエの制止も聞かずに出て行ってしまった。
ラルフがオリエの話を聞いてドラゴンの討伐に行き、そして死んだ――そんな事になれば外交問題になりかねない。
オリエは咄嗟にある人物を呼んだ。
「……カグラ!」
「はっ、ここに」
黒装束に身を包んだ少女が姿を現した。
少女の名はカグラ――オリエが拾った東方の島国出身の少女で、《忍者》と呼ばれる特異な才能を持つ少女だった。
何かと便利な技術を持つ上に、黒装束の中身は美少女だ。
オリエが最も信頼を置く切り札であり、オリエの身を守る存在でもある。
そんなカグラを呼び寄せたのは、ラルフがドラゴンに殺されるという最悪の事態を避けるためだ。
「王子を止めてきて。ドラゴンのところに到着する前に」
「それは、如何様な方法でもよいので?」
「うん、どんな方法でもいいよ」
「承知っ」
シュッとその場からカグラが姿を消す。
どんな方法で止めるのか分からないが、カグラがオリエの依頼した任務で失敗した事はない。
ラルフが変な事をする前に――怪我をする前に止めてしまう事の方が重要だった。
「やれやれ……面倒な事にはなったか、一先ずはこれで大丈夫か」
オリエは確信していた――とにかくドラゴンを理由に一緒になれないとプッシュしておこう。
そして、ドラゴンがいる隙に別の理由を考えておくのだ。
もっとも、理想を言えばドラゴンが住み着いた砦から移動しない事だが。
――そんな風に思っていたオリエだったが、一週間後にラルフがドラゴンと帰還してくるとは思ってもいなかったのだ。
***
「ど、どういう事なの!?」
「はっ、ラルフ殿は見事ドラゴンと戦い――何と勝利して仲間にしたのです」
「そういう事聞いているじゃなくてね! カグラはラルフを止めに行ったんだよね!?」
「私も不意打ちにてラルフ殿を気絶させるつもりでしたが……見事にかわされました。あのお方、相当にお強いです」
「な、ななな……」
オリエにとってそれは予想外すぎる事だった。
ドラゴンと戦って負けて死ぬ――それは避けてもらおうとカグラを送り出した。
それなのに、気がつけば『信じて送り出した従者が王子と仲良くなった挙句、その王子がドラゴンまで手玉にした』という状態なのだ。
そんなラルフは仲間にしたドラゴンに乗ってオリエの下を訪れる。
「こやつがお前の妃か」
「そうなる予定だよ」
(ま、マジで仲間にしてんじゃねーか! 化物か!?)
オリエが開いた口が塞がらない。
それでも、努めて冷静にオリエはラルフを迎え入れた。
ドラゴン問題でラルフを止められなくても、オリエは諦めるわけにはいかなかったからだ。
「ほ、本当にドラゴンを倒す――というか、仲間にまでしてしまうなんて……」
「これで君の心配はなくなったかな?」
「……いえ、まだあります」
「なに?」
オリエには秘策があった。
万が一――億が一にもドラゴンの件が通じなかった場合、別の理由を用意しておいたのだ。
それも数パターン。
用意しておいてよかったと心から思う。
「南の塔に魔女が住み着いていて――」
「それは僕の魔法の師だな。引っ越すように頼んでみるよ」
「東の洞窟に危険な毒の霧が充満していて――」
「僕は浄化魔法を使える。それくらい、一日で何とかして見せるさ」
オリエの用意した策を悉く打ち破り、遂に崖に追い詰められてしまった状態のオリエ。
まさかこんな事態になるとは、オリエも予想していなかった。
「オリエ、どんな悩みでも僕は解決してみせるよ」
「あ、あはは……」
(頼むからこの状況を解決してくれ……!)
今日もオリエは、ラルフと結婚しないために無駄な理由を考え続ける。
短編用に残しておいたものをポロリと。