腕の中のモズ
「お入りなさい」
医者に呼ばれ診察室に入ってきたのは若い女性だった。彼女は白のブラウスの上に綿生地のカーディガンを羽織り、ひざ下まである長いサテンのスカートをはいていた。表情にはありありと不安の影をちらつかせながら、何かを探すように診察室の四隅や左の壁にかけられた風景画へとせわしなく視線を向け、医者から勧められてようやく丸椅子へと座った。
「で、いかがなさいました」
医者が尋ねる。
「ちょっと申し上げにくいことなんですが」
女性は伏し目がちに答えながら、右のカーディガン袖を肘上までまくってみせた。医者は女性の右手首を自分の胸へと寄せ、分厚いレンズの眼鏡を上にずらしてじっと観察する。透き通るような白い前腕の内側の表面に、小さなお手玉のように丸みを帯びた鳥の影が映っていた。医者がその影を上からそっと指で押すと、鳥の影は翼を広げ、医者の指圧を逃れるように二の腕の方へと移動した。
「ははあ」
医者は眼鏡をもとの位置に戻しながら感嘆の息を漏らした。
「これはモズですな」
医者の言葉と同時に、後ろに立っていた看護師が手に持っていたカルテの上にペンを走らせる。
「なんとも珍しい」
「腕の中に鳥が住み着いていることがですか?」
医者は首を横に振った。
「いえいえ。そのような症状で来院される方は多いですよ。今みたいな寒い時期には特にね。性格の悪い鳥が寒さに耐えかねて、人のよさそうな人間の腕の中に住み着くんです。私も何度かこういった患者様を応対してきましたよ。しかしですね、これほど小さなモズは初めて見ました」
医者はそういうと再び女性の腕をつかみ、「ちょいと失礼」と言って、影の部分に耳をあてた。肌の向こうから、キチチチというモズ特有の鳴き声が聞こえてくる。「やっぱりモズだ」と医者が顔をほころばせて女性の顔を見たが、女性の顔は羞恥で真っ赤になっていた。老輩とはいえ、男慣れしていない彼女にとっては、異性にこうして二の腕を触られることは辱め以外の何物でもなかった。
「どうしたらいいんでしょう?」
女性は火照った顔に両手で風を送りながら尋ねた。
「薬を処方しましょう。昔は手術で摘出しなくちゃいけなかったんですがね、今では薬でどうにかできるようになりました。まさに医学の進歩の賜物ですな。鳥にだけ効く抗体を食後に服用すれば、二日三日でこやつも死んでしまうでしょう」
「殺してしまうんですか?」
医者の残酷な言葉に女性は声を荒げた。医者は女性の声に不愉快そうに眉をひそめる。
「当たり前です。このままだと、春が来てもこやつはあなたの腕から出ていきませんよ」
「しかし………もっとうまい方法があるでしょう? それではあまりにこのモズがかわいそうです。一緒にいたせいで、愛着も湧いてきていますし」
「しかしですな……」
「この鳥に罪はありません。それなのに、どうしてそんなことが言えるんですか?」
「そのようなあなたのやさしさに、こやつはつけこんだのですよ!」
医者は思わず大きな声で怒鳴った。しかし、すぐさま「しまった」と我に返る。女性は突然の怒鳴り声にすっかり怯え、しくしくと泣き出してしまったからだ。後ろにいる看護師からの突き刺すような視線を感じた、医者は態度を一変させ、猫なで声で女性に語り掛ける。
「失礼失礼。つい、かっとなってしまいました。そうですね、そこまで言うのなら、鳥を殺さないで済む方法を試してみましょう。だから泣かないでください。こっちまで泣きそうになってしまう」
「どうやってです?」
医者は少しだけ、目をつぶり、治療方法について考えを巡らせた。そして、三分ほどじっくり考えた後、おもむろにこう切り出した。
「殺さずに逃がすためには、モズにあなたの体内が危険な場所だと教えてやればいいのです。モズにとって、何が一番怖いか。それはカラスです。つまり、あなたの体の中にカラスがいると教えてやればいい。そうすればモズは自分から出ていきます」
女性は顔を上げて、医者を見つめた。
「もしかして、カラスを私の体内に入れろとおっしゃるのですか?」
医者は慌てて否定する。
「いやいや、とんでもない。カラスなんて大きい鳥をあなたの身体にいれたらそれこそ大変だ。なに、カラスがいると思わせればいいんです。つまりですな………何か黒いものを飲み込むのです。頭が悪いモズは、それだけできっと逃げ出しますよ」
「そんなことでいいんですか?」
女性は医者を疑わし気な表情で見つめる。医者は後ろの看護師に何か言伝をし、もう一度女性の方へ向き直った。
「いや、あまり期待はなさらないで下さい。この治療は腕の中のモズ次第というところがありますからね。あなたの腕にいるモズが、他のモズと比べて、臆病で間抜けでなければ効果がありません。実際、成功率はかなり低い。昔も、結局この方法が当てにならないって言うので、手術での摘出が主流になったと言う歴史もあります。とりあえず一回だけ。一回だけこの治療方法を試してみてダメなら、おとなしく薬を飲んでくださいね」
女性はおずおずとうなづいた。そして、自分の右腕にいるモズの影へと視線を落とし、そこを愛おしそうになでた。モズの影は女性の手から逃げ出そうとすることまではなかったが、一瞬だけおびえたように全身を震わせた。医者はその光景を見て、うまくいくかもしれないと思った。見たところ、腕の中にいるモズはかなりの臆病者のように思われたからだ。
しばらくして、言伝を受けた看護師が院内にあるコンビニの袋を携えて戻ってきた。医者はそれを受け取ると、中から袋詰めされた黒豆を取り出し女性へと手渡した。女性は袋詰めされた黒豆を不思議そうに見つめ、眉をひそめる。
「まさか、これを食べるだけでいいとおっしゃるんじゃないでしょうね?」
「そのまさかです」
医者は即答した。女性は半信半疑のまま袋の上を破り、掌に数粒の黒豆をのせた。
「いいですか、一切噛まずに飲み込むのですよ。そして、すぐに私たちとあなたでカラスの声真似をするのです。そしたら、モズはパニック状態になって、あなたの体中を駆け巡ります。痛みはありませんが、モズがあなたの臓器にぶつかるたびに気持ちの悪い振動が内側で起こります。それはもう、モズを助けるためだと思って我慢なさい。いいですか? いきますよ?」
女性は覚悟を決め、黒豆をえいやっと一飲みした。看護師から手渡されたお茶でぐっと胃の中に流し込む。そしてすぐさま女性と医者、看護師の三人でカラスの鳴きまねを始める。
「「「かぁかぁかぁかぁ、かぁかぁかぁかぁ」」」
その瞬間、女性の右腕でくつろいでいたモズはパニック状態に陥り、小さな翼をばたつかせて狂ったよう飛び回り始めた。モズは血管や内皮にぶつかりながら、二の腕と肩を通り、腕から胴体の中へと抜け出した。女性の体内に入っていってしまったせいで、影を目で追うことはできなくなったが、体の中からどんどんとモズが肺やら膵臓やらにぶつかる音が聞こえてくる。特に胃袋の付近では、先ほどの黒豆の効果で、一層激しい音がした。
天敵から逃げようと必死に逃げ惑うモズはなかなか出口を見つけられないでいるらしかった。そこで、医者は機転を利かし、女性のまたぐらの間に顔を突っ込み、大声で「かぁかぁかぁ」と叫んだ。モズは下にカラスがいると勘違いし、女性の頭をめがけて上昇を始めた。
女性の首にモズの影が映った。顎先、左ほお、こめかみへと影は移動し、ついに女性の左耳から一匹の小さなモズが飛び出す。モズは付きまとうのカラスの影を振り切ろうと、矢のようにまっすぐと飛行する。四角い枠に切り取られた新緑の山麓と青空。モズは郷愁に駆られるようにそこを目指して飛ぶ。そして、ゴンッと鈍い音を立て、モズは診察室の床に落下した。モズが外だと思っていたそれは、窓の向こう側ですらなく、壁にかけられた一枚の風景画の景色だった。
医者は生死を確認しようと、モズに近づき、しゃがみ込んだ。モズは一体何が起きたのかわけがわからない様子で小さな瞳をきょろきょろと挙動不審気味に動かしていた。医者はモズをそっと手で拾い上げ、窓へ連れて行き、部屋の外へ出してあげる。モズは脳震盪を起こしているようで、ふらふらと不安定な軌跡を描きながら、慣れ親しんだ大空へと飛び立っていった。あの様子では、すぐに死んでしまうだろう。医者はモズを見送りながらそう考えた。
医者は女性の方へと向き直った。女性は、恥ずかしさのあまり失神してしまっていた。
「どうします?」
看護師が尋ねると、医者は疲れ切った様子で「しばらく休ませておきなさい」とだけ答えた。