悠介
ああ、愛しい匂いが降ってきた。せっけんの優しい香りに混じったタバコ。ふわふわのをくせっ毛をくしゃっとするともっと降ってくる。そしてあなたは「なあに?」と言っていつものようにまたふわふわと笑う。
学校に行けば、本を読んでいた。周りの学生がサークルに忙しくしている中、私を夢中にさせるのは本の中の世界だけだったのだ。読むのはどんな本だってよかった。ファンタジーでもミステリーでも、あるいはラブストーリーでも。私は魔法使いであり探偵であり恋人だった。どんな人にもなれたし、どんな人生も歩むことができた。
その時も本を読んでいた。確か、幼馴染であり初恋の相手でもある彼女を想い続ける青年の話で、純粋なラブストーリーだった。私は校舎の三階へ行き、ひと気のない廊下のベンチに座った。お昼のような少し長めの休憩時間には、そこに座って本を読むのが好きだった。
「ケホッ」
顔を上げるとひどく綺麗な顔の男がいた。彼は廊下の窓際でタバコを吸って、自分の吸った煙でむせていた。彼は咳をしながら窓の外を向いていた。その少し苦しそうな顔に何故か惹かれた。
「むせるんなら吸わなきゃいいのに」
「えっ」
彼がこちらを振り返り、困ったような顔で私を見ていた。
しまった、と思った。聞こえていた。頭で考えたことが声に出てしまっていた。彼とはそんなに離れていなかった。慌ててごまかそうとしたが、こんな時に限って何も言葉が出てこなかった。
「実は」
彼は少し照れ臭そうにして言った。
「あんまり好きじゃないんだ、タバコ」
少し低めの、身体に響くような声だった。彼のその照れ臭そうな顔を見ると、言葉がすんなり出てきた。
「それじゃなんで吸ってるの。こんな所で」
彼は言った。
「たまに吸いたくなるときがあるんだよ。ほら、猫だってたまに散歩に出るだろ。それとおんなじ」
「猫が散歩に行くのって結構な頻度じゃない? しかも猫は散歩が嫌いな訳じゃないと思うし」
はは、と彼は笑った。
「確かに」
ふふ、とつられて私も笑った。
悠介は例えが下手だった。彼はよく物事を例えようとしたがそのほとんどが少しずれていた。私がカレーにソースをかけるたびに「グラウンドにシマウマがいるようなものだよ」とか「教室に布団敷いたみたいなものだよ」などと言っていた。今でもよく分からないけど、とにかく、彼がそんなずれた例えをするたびに二人で笑いあったものだった。
「いつもここで読んでるの?」
「うん割と。ちょっと暗くて人があまり来ない所がいいの。本に集中できるから。図書館もあんまり好きじゃない」
私達の大学の図書館は、綺麗でお洒落で、まるで一つの芸術のような美しい建物だった。だからいつもそこは綺麗でお洒落なものに敏感な年頃の学生で溢れていた。
悠介も納得したように頷いた。
「あそこ結構人いるからね。空間は気持ちいいんだけど」
「そう。だから大体はここで。でも誰かにあったのは初めて」
「あ、邪魔しちゃったかな」
「ううん、そんなことない」私は慌てて言った。「ごめん、そんなつもりで言ったんじゃないの」
「よかった」
彼は少し遠慮がちにこちらへ来て私の隣に座った。私と彼の座っている距離は約四十センチメートル。お互いの心の距離も同じくらいに思えた。決して広くない、でも少し壁のある距離。でもその壁はすぐに取り払われるという確信を、私はこの時すでに持っていた。
二人の間を心地の良い沈黙が流れた。梅雨明けの乾いた、でもまだ少し雨の匂いの残る風が窓から吹いていた。
私は、風の匂いが好きだった。季節が変わるたびに風の匂いも少しずつ変わる。それは、春の訪れをかすかに感じさせる二月の風であったり、夏の終わりの、秋の冷たさを含んだ夜の風であったりした。
「どうしてこんなとこでタバコを?」
学内には喫煙スペースが何カ所かあったし、そこには座るところもテーブルもあった。
「あんまり人の前で吸いたくないんだ。いつも吸わないからさ、なんか、悪いことしてるような気分になるんだよね」
「いたずらしてる子供みたいに?」
「そう。いたずらしてる子供みたいに」
彼はもうタバコの入っていない箱をくしゃりと潰し、自分のズボンのポケットに入れた。
「はい、いたずらおしまい」
そう言ってふわっと笑った。
それが悠介との出会いだった。