Ⅳ.怒り
「――十字架……?!」
フレッドから眼前に突き出された木製の十字架に、ジェラルドはピクッと反応したが。
顔の角度を上げるとフレッドを見下しながら、悠然と落ち着いた口調で述べた。
「ふん。効かんな」
そうしてゆっくりと手を伸ばしてその十字架を鷲掴みにすると、フレッドの首にかけられている紐から強引にブチンと引きちぎった。
「っ!」
歯を食いしばるフレッド。
だがジェラルドは気にする様子もなく、淡々と語った。
「十字架などで我ら吸血鬼を倒せるなどという滑稽な考え方は、所詮いもしない神に頼ってばかりいる弱き人間の理想に過ぎん」
言いながらジェラルドは、自分の手の中にある十字架をポイと背後へと投げ捨てる。
そしてゆっくりとフレッドへと手を伸ばすジェラルド。
これにフレッドは顔面蒼白でゴクリと唾を飲む。
「よせ……俺はただ……おっ、お前らからシエルを……」
ジェラルドはすっかり怒りの感情に囚われていて、白目の部分が紅く変わり瞳は小さく絞られ黄金色の光を帯び始める。
頬の部分もメリリと音を立てながらひび割れ、変色を始めていたが。
そんな彼の背後にいきなり飛びついてきた者があった。
「やめてジェラルド!! お願いっっ!!」
シエルだった。
彼女に背後から抱きしめられて、はっとジェラルドは我に返る。
「……シエル……」
変形しようとしたのか、背後の彼女を顔だけで振り返るジェラルドの首の筋肉が、不気味に軋む音を立てる。
しかしそれでも、シエルは彼を背後から抱きしめながら涙を流しつつ、口を開いた。
「ごめんなさいジェラルド……!! 兄が先走って犯してしまった過ちを許してなんて都合の良いことは言わない……!!」
思いがけない彼女の態度に、それまで変形を始めていたジェラルドの顔が普通に戻っていく。
その間、フレッドはふと背後の壁に立てかけられていた、暖炉の灰搔き棒に気付いた。
更にシエルの言葉は続く。
「あたし……あっ……あなたに人殺しをさせたくない……本当の意味での化物にしてしまいたくないの……!!」
彼女の目からは、ポロポロと涙が零れ落ちる。
「あ……っ、あた……あたし……ああ……ごめんなさい……あなたの正体を知った時にあんな酷い事を言って……」
彼女の声は震えていたがその態度の変化に、ジェラルドは体ごと振り返りシエルと向き合った。
これにシエルも一度深呼吸してから何とか気持ちを落ち着かせると、ジェラルドの胸に手を当てて長身の彼を見上げる。
「あなたはとても優しくて素敵で……思いやりのある素晴らしい吸血鬼よ……だから……本能と欲望に打ち勝って……! 理想の心で……私を愛して……!」
今まで一緒に暮らしていく内に、いつの間にか目覚めた彼への愛に気付いたシエルは、自分の心の内を告白してきた。
予想もしていなかった彼女の言葉に、ジェラルドは驚きを覚える。
「……シエル……」
妹の予想外の言葉に、フレッドは灰掻き棒を素早く取り上げるや否や、背後からジェラルドへと突き立てた。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
しかし次第に、ジェラルドの全身がガクガクと震え始める。
「……冗談じゃねぇ……シエル……お前と父さんのせいで結局母さんは死んだんだ……永遠に届くことのない薬を待ちわびながら……」
ジェラルドの背後から、くぐもったフレッドの言葉が発せられる。
「なのにシエル。お前ときたら三ヶ月も帰ろうとせずにこんな所に居着いて、挙げ句の果てには愛だと……?」
ジェラルドの口端から、血が溢れてきた。
だが当然そんなことをフレッドはお構い無く、更に背中からジェラルドに突き立てた灰掻き棒を、怒声を共に力を込める。
「ふざけるな!!」
ズンと、ジェラルドの胸から灰掻き棒が貫かれる。
「ガ……ッッ!!」
これによりジェラルドは激しく喀血した。
「きゃああぁぁっっ!!」
目の前の光景に、シエルは顔面蒼白で顔に手を当て悲鳴を上げる。
しかしフレッドは、妹の反応を気にすることなく言葉を続けた。
「俺の気も知らないで……っ!! どんな思いで今日までの時を過ごしたことか……」
ゆっくり、ゆっくりとまるで傷めつけるかのようにフレッドは、ジェラルドの体から灰掻き棒を引き抜いていく。
「ククク……そうだよなぁ……知るわけないよなぁシエル……」
外では、雲の合間から朝日が登り始めていた。
フレッドはシエルの気持ちの変化に、怒りを通り越して笑い始める。
笑いがこみ上げる自分の顔に、フレッドは片手を覆う。
「だってお前は、自分の父親の死をその場で目の辺りにしておきながら、平然と今まで化物どもと愛を育んでいたんだから。クククク……」
フレッドは灰掻き棒をすっかりジェラルドの体から引き抜くと、真っ赤な血が滴るそれを乱暴に床へと投げ捨てた。
「ぐはっ」
フレッドとシエルの間に挟まれる形で、ジェラルドは跪いて倒れこむと大量の血を口から吐き出す。
シエルの傍らでは銃弾を浴びた狼姿のレノが同じく血塗れで倒れていた。
兄の凶変に恐れを覚えたシエルは、ジリリと後ろへとゆっくりと後退り始める。
「違うわフレッドお兄ちゃん……そういうわけじゃない……!」
先程フレッドの登場でガラスが割られた窓の、次の窓の前へとシエルが後退ると朝日が差し込んできているのが分かった。
シエルは必死で兄を説得しようとする。
「聞いてお兄ちゃん、あのね」
しかし、フレッドはまだ話している途中の妹の言葉を無視して、語り始めた。
「母さんはね。父さんとお前の帰りを待ちながらずっと薬が届くのを信じていたんだ。大雨の中での二人を心配してその無事を祈りながら……」
そう口にするフレッドの目は伏せられ、母親の健闘を思い出しながらその表情は束の間穏やかになる。
「……なのに……」
ふとフレッドの目が揺らいだかと思うと、気付いた時にはこの上ない怒りの形相でシエルを睥睨していた。
そして母の無念を怒りに変えて、腹の底から低い声を轟かせ始めた。
「……ただで幸せになんかするものか……貴様のような女などもう俺の妹じゃあないシエルっっ!! 貴様も死んで母さんに詫びるがいいっっ!!」
歯をむき出し、眉間と鼻に深いシワを刻んで心の底から溢れる怒り全てを、表情に露わにした。
薬さえあれば必ず母は助かると信じていたのに、その母を残して事故死した父親を不甲斐なく思い続け、おまけに助かった妹は吸血鬼に恋をしていた事実。
若干の矛盾はあれどフレッドにとって、父の死をも恨まずにはいられないほど母親を大切に想っていたのだ。
よって妹の恋愛感情は屈辱であり、存在すら許せないものへと変貌した。
まさか助けに来た妹から、こんな光景を見せられて彼の怒りは殺意へと変わる。
心の底からどす黒い感情がこみ上げ、溢れ出し最早自分でも止めることのできないものとなっていた。
こんな兄の様子を見たのは初めてで、シエルは恐ろしさのあまり思い通りに体も動かせなくなっていた。
ただただ少しずつ後退って、朝日が差し込む窓にまるで助けを求めるように足を止める。
レノとジェラルドが流す血の臭いがむせ返るように周辺に漂い、鼻につくのも手伝ってシエルの中の恐怖感は倍増し極限を極めていた。
しかしフレッドもまた然り、怒りで我をすっかり忘れている。
その様子はシエルにとって、レノの変貌やジェラルドの正体を知った時よりも恐ろしかった。
拳を握りしめて、自分へとにじり寄ってくる兄の姿に、よっぽどこちらの方が死を覚悟せずにはいられなかったが。
突然ヌッと、何かが兄妹の間で蠢いた。
「!?」
これにフレッドは咄嗟にピタッと動きを止めると同時に、それは恐怖で凍りつき涙を流しているシエルの前へと飛び出してきた。