Ⅲ.恐怖
「うあ……っっ」
レオンが呻き声を漏らしたかと思うと、気付けばその首筋にジェラルドが顔を埋めていた。
シエルは一瞬理解できずに、何事かとその光景を刮目する。
啜り音とともにジェラルドがゴクリゴクリと喉を鳴らす。
「ん……っ」
彼が口付けている隙間から、真っ赤な鮮血が流れているのが分かる。
つまり、ジェラルドはレオンの血を飲んでいるのだ。
鋭く長い牙を首筋に突き立てて。
同時に、レオンにも変化が起きる。
「う……っっ」
銀色の髪がざわめいたかと思うとその側頭部から大きな耳が伸びてきた。
メコメキ、ベコッと骨の軋む鈍い音が響き渡り、苦痛から閉ざされていた両眼は大きく見開かれ怪しい光を帯びている。
こめかみから皮膚はひび割れ、血管がはっきりと盛り上がり浮かび上がったのが分かったがその時には、全身が銀色の毛に覆われ始めていた。
鼻先から顎にかけて前へと突き出し、裂けていく口端からは唾液にまみれた大きな牙が姿を見せる。
「ごあぁぁ……っっ、ガッ、ア……ッ」
メリリ……パキョ……ッ、ミシィ……!
耳に届く聞いているだけでも痛々しく感じる、肉と骨が変形していく音。
気付くと、いつの間にかジェラルドはレオンから口を離していた。
「満月の影響により受ける人狼の悪影響は、その血が増量し滾るからだ……」
ジュルと舌なめずりする彼の口元は、真っ赤な血で汚れている。
「こうして私が吸血することで量を減らせば、少なくとも凶暴化せずにまともでいられる」
口元を拭う彼の足元では、大きな銀色の狼が息を切らして蹲っていた。
それは、父を亡くしたあの忌まわしい事故で見かけた、狼だった。
「ぐぅ……」
すっかり変形を終えたレオンが、小さく声を漏らす。
「――どういうこと……? レオンの正体は“レノ”……だったの……? そしてジェラルドが……ヴァン……パイア……」
無意識ながら声を震わせるシエルは、体の奥から血の気が引いていく。
「……君を怖がらせたくなくて……」
気まずい様子でジェラルドが静かに口を開くと、シエルへゆっくりと片手を持ち上げた。
「今まで正体を隠していた……すまな――」
これに彼女は絶叫とともに大きく後退った。
「いやぁ!! 来ないで!!」
この反応に顔を強張らせるジェラルドに、落ち着いたレオン……いや、レノは冷静に無言を返す。
束の間、時が止まる。
瞬間、静まり返る空間に突然派手な音とともに、側にある窓のガラスが大きく割れた。
ガシャアアン!!
「!!」
「!!」
ジェラルドとレノがそちらの窓へと顔を向ける。
「きゃあぁ!!」
シエルは握った両手を頬に当てて、悲鳴とともに顔を背け窓へと背を向けた。
直後。
「シエルっ!!」
「!?」
窓の向こうから自分の名前を呼ばれて、シエルは目を見開き恐る恐ると振り返る。
それは聞き覚えのある、懐かしい声だった。
「フレッドお兄ちゃん……!!」
シエルの両目から涙が溢れ出す。
「シエル!!」
再度彼女の名を呼びながら、暗い窓の外から声の主が姿を現した。
「探したぞ!! 山道から下にあるこの森に父さんの馬車が落ちているのを見つけて、お前の姿だけが見つからず、それから三ヶ月ずっとこの森の中を探し続けていたんだ!!」
赤髪を短くした一人の青年が、砕け散った窓ガラスを踏みつけながら窓枠に手をかけ、身を乗り出してきた。
背中には猟銃を背負っている。
「今の現場しっかり見ていたぞ!!」
彼――フレッドは窓を乗り越えて中に入ると、床へと飛び降りた。
そして声を大にして叫んだ。
「妹を返せ化け物ども!!」
それは、生まれて初めて自分達へと向けられた、乱暴な言葉だった。
衝撃を受けてジェラルドとレノは目を大きく見開く。
怒りを覚えたらしい狼姿のレノが、牙をむき出し咆哮を上げる。
「ぐお……っっ」
「よせレノ!!」
すぐに彼の気持ちを察したジェラルドが、声でレノの動きを制した。
「来いシエル!!」
ジェラルド側で立ちすくんでいる妹に、フレッドは名を口にして呼び寄せる。
「あ……」
溢れ出る涙を止めることもできず、シエルはガクガクと震えていた。
「わ……たし……!!」
必死に声を絞り出してシエルは、咄嗟にジェラルドへチラリと視線を向ける。
これに気付いたジェラルドは、不意に切ない目を見せてからスッと片手を上げ静かな声で、彼女を促した。
「……行きなさいシエル……今なら霧も晴れてるし夜明けも間近……」
瞬間。
「妹に触るなああぁぁーっっ!!」
ズキュー……ン!!
フレッドの怒声とともに、銃声が響き渡る。
銃弾は、ジェラルドの右肩へと命中した。
「ジェラル……」
咄嗟に彼の名を口にするシエルだったが、獣の咆哮でそれは掻き消された。
「ゴアァァァ!!」
レノが鼻にシワを深く刻み、牙をむき出してフレッドへと飛びかかる。
だが。
ドドドドン!!
複数の銃声とともに、空中でレノの全身から鮮血が飛び散る。
「ギェイィン!!」
レノは悲鳴を上げ、ドサンと床へと血塗れの姿で倒れこむ。
「キャアァァッ、レノッッ!!」
シエルは悲鳴を上げて、獣の名を呼ぶ。
「……っっ」
ジェラルドは傷ついた右肩を片手で押さえ、冷や汗を掻きながら激痛で顔を歪めていたが。
そろりと漆黒の双眸を開き、声を絞り出した。
「……我々が一体……――何をした!!」
語尾に至る頃には、唸り声となってその目つきにも鋭さが増す。
ギンと開かれた目はフレッドに向けられ、漆黒だったはずの眼の色が紅く光った。
「我々が一体何をしたと言うのだ!! ただそちらの妹を、この呪われた森からかくまったのが間違いであったと!?」
今まで冷静だったジェラルドだったが、その表情は怒りに満ち溢れ腹の底からがなり立てる。
外は夜明けが迫り、にわかに鳥達が目覚めの囀りを始めていた。
ジェラルドの剣呑な様子に、フレッドは猟銃を構え三度発砲する。
「ひ……っ!! 来るな化物……!!」
だがジェラルドは怯むことなく顔を塞いだ片腕で銃弾を受け止めながら、フレッドへとゆっくり歩を進め始めた。
「……どちらが化物だ……? 私とレノは今まで一度も人間に手を出すことなくおとなしくこの森の住人として、獣の血肉だけを啜り喰らって生きてきた」
片腕と左肩、左脇腹にと三発被弾しながらも、もう先程の痛みを表に見せることはなかった。
彼の言い分に、血塗れで横たわっているレノに思いかけず寄り添っていたシエルは、ふと何かを察する。
そしてすっかりフレッドの前へと歩み寄ったジェラルドは、俄に目に涙を浮かべ片手を下ろして声を荒げた。
「貴様ら人間が勝手に我々の領域に踏み込んで来るのだ!!」
追い詰められたフレッドは、手にしていた猟銃を大きく振り上げる。
「ぅわあぁぁぁぁ!!」
しかし。
ガコッという鈍い音を立てて、猟銃の銃口が曲がってしまった。
ジェラルドが片腕で受け止めたのだ。
彼の表情が平然としていることに、フレッドは慄然と顔を青ざめる。
ジェラルドの紅い両眼が揺らぎ、真っ直ぐに目の前のフレッドを見据えていた。
だがここで、フレッドは自分の首にかけられているアイテムを思い出し、急いでシャツの下からそれを取り出してジェラルドへと掲げた。
それは、木彫で作られた十字架だった。




