芳乃 1
性描写を思わせる文章があります。
その日は、ぼんやりと雨の降り注ぐ校庭を眺めていました。
6月も半ば、梅雨というに相応しくどんよりと湿った空気があたりに満ちていたのを覚えています。
数学の授業中でしたが、教科書の公式を説いていくだけの授業はあたりまえのように面白くなく、先生の声も耳には入ってはいるのですが、ただそれだけでしかありません。ちくわみみ、とでも言うのでしょうか。右から左へ抜けていく、そんな感じです。
特別勉強のできる方であったとは思いませんが、塾にも行かず自宅での学習のみでも授業にはついて行く事ができましたのでそれなりにできたのかもしれません。
ですので、ぼんやりしていたとしても教師からの叱咤の声は飛んできた事がありませんでした。
私は、雨の音はどこから聞こえているのかを考えていました。
地面に落ちた瞬間でしょうか、雲から零れ落ちた時でしょうか、それとも落ちてくる最中に雫同士がぶつかって音がするのでしょうか。
夕立のような激しい雨と、梅雨時の雨とでは音も違いますから、雨粒の落ちてくる勢いによるものかもしれません。
その日の雨は、まるで薄い霧がかかったような、しとしとと降る雨でした。
ざあざあと降る雨ならば、それこそカーテンのように先生の声と私の耳との間で音をさえぎってくれたでしょうに、教壇で熱っぽく語る彼の声は大きく、雨の音の出所は今日も掴めそうにありません。
低くもなく高くも無い声が私はとても好きでいつもはじっと耳を澄ましているのですが、あの日の私には窓を滑り落ちる雨粒の方がより甘美だったのです。
私の肌をなぞる、彼の指先の動きに似ていたからかもしれません。
透明で薄汚れた雫は、窓ガラスの向こう側をゆっくりと落ちて行きます。
小さなため息が零れ机の上を転がっていきましたが、搾り出された果汁のように甘かったはずなのに、幸い誰もそれには気づいていないようでした。
チャイムの音に我にかえり黒板へと視線を移すと、ばったりと先生と目が合いました。
彼は一瞬だけ目を細め、穏やかに微笑んだような気がしました。
ほんの一瞬でしたのでもし誰かが気づいたとしても直ぐに気のせいだったと思い直したと思います。
私にだけ分かる微笑みでした。
彼の胸の中には、小さな宝石が宿っていました。
小さいけれど、その宝石は静かに己の輝きを誇示していました。
そして、私の中にも同じ小さな宝石が宿っています。
それは今も変わりありません。
時折、二つの宝石は共鳴しあい、狂おしい程に自分の片割れが欲しくてたまらなくなるので、その度に私たちは求めるままに体を重ねました。
彼の指先が私の肌を滑ると、そこからすべて私の意志が無くなっていくような感覚に襲われるのです。
体中が甘く震え、捉えて、逃げられなくなってしまうのです。
彼は数学の授業をするよりずっと上手に、私の事を知っていました。
けれど、それは私しか知らない事です。
他のクラスメイトたちが彼の事を甘く艶やかな目で見ていたのは知っていますが、それだけです。
彼らはまだ雨粒の行方に気づけずにいるのですから。
終業のチャイムが鳴ってもなお、雨は降り続いていました。
このまま世界が沈んでしまうのではないかと思えるほど、静かにゆっくりと大地を満たしていくようでした。
彼は、きっと気づいてはいなかったでしょうけれど、優しく柔らかに私を満たすことができたのは、太陽の光でもなく雨でもなく、彼の指先のぬくもりだけでした。