【悲しい嘘】
【悲しい嘘】
赤い月が漆黒の夜空を切り裂くように、鈍く輝いていた。
その光に照らされて、一棟の建物が浮かび上がっている。
真っ白い外壁は空々しく、一種異様な雰囲気をかもし出していた。
それは冷たく、あたかも世界のすべてを拒んでいるかのようでさえあった。
建物を見下ろすように、二つの人影が様子を伺っている。
「午前零時にここで・・ヒカル、うまくやれよ」頭一つ分大きな影がささやく。
「わかってる」すぐ隣に立つヒカルと呼ばれた小柄な影が答える。その顔はまだ幼く、陰影のせいか苦渋に満ちた表情にも見える。
この二人の様子を誰かが目撃していたなら、絶句したであろう。
なぜなら、二人は何の支えもなしで宙に浮いていたのだから。
空気が濁っていた。それは建物に近づくにつれて一層ひどく感じられた。
まとわりつくように空気が重く、行く手を阻む見えない壁のようでさえあった。
空気だけではなく、時間その物が止まっているかのような錯覚に襲われる。
僅かばかりではあるが、人の気配があった。
しばらく建物を凝視していたヒカルは、最上階左隅の一室に視線を定めた。
「あそこか・・・」そう呟くと、まるで重力を感じさせない動きで空中を歩きだす。
その部屋はカーテンさえなかった。
ヒカルは躊躇なく、ひび割れた窓ガラスをすり抜ける。
まるで最初から窓ガラスなどなかったかのように。
月の光を遮るものの無い部屋は、僅かばかりの月光でさえ全てが判別できる程の広さしかなかった。
その部屋には、古ぼけたベッドかあるだけだった。
部屋の中には、何かの薬品の臭いが微かに漂っていた。
ここは病院の一室であった。
「誰かいるの?」ベッドから幼い少女の声が、招かれざる客に向けられる。
しばしの沈黙・・・
「お、お見舞いに来たんだ」ヒカルが、やや戸惑った声で答える。起きているとは思っていなかったのであろう。
「嘘よ!」少女が怒っていると言うよりは、悲しそうに叫ぶ。
「ママだってもうずっと来ないのに・・」
嗚咽混じりの涙声で訴える。
「それに、ここは面会禁止よ、誰も来ちゃいけないの・・・同じ病気になっちゃうから」自分に言い聞かせるように言った。
「平気さ」なんの説明にもなっていないが、その言葉に嘘はなかった。
「そうだ、お見舞いの品もあるんだ」そう言うと、どこから出したのか青いリンゴを差し出した。
「ほら、受け取って」
しかし、少女は受け取ろうとはしない。
ヒカルはやっと気づいた。
「もう随分前からなの・・・目が見えなくなって」困ったような表情で、少女が泣き笑いを浮かべる。
「ゴメン」ヒカルは辛そうにあやまった。
「いい香り、お花?」少女が小首をかしげて訪ねる。
「いや、リンゴだよ!」ホッとしたようにヒカルが答える。
「リンゴ?」不思議そうに両手を広げる。
「ホラ、食べてごらん」少女の両手に、そっとリンゴを乗せる。
少女は暫くの間、リンゴを触ったり臭いを嗅いだりしていたが、意を決したように小さな口を開いて囓りついた。
「あまーい!」少女は驚いた声をあげると、その後は夢中でリンゴをほおばった。
食べ終わると、ちょっと恥ずかしそうに、はにかみながら少女が言った。
「不思議な人ね、突然現れてこんな素敵なプレゼントをくれるなんて、まるで天使様のようだわ」少し顔を赤らめながら、嬉しそうに話した。
少女の言葉に、ヒカルは複雑そうな表情を浮かべながら首を振った。
「そんないいもんじゃないさ」どこか悲しげな、自嘲的な表情にも見えた。
「わたしね、ずっとここにいるの」少女はポツリポツリと話だした。
「ちょうど弟が生まれた年に、ここに来たわ」どこか寂しげな表情であった。
「それからスグだったわ、目が見えなくなったの」絞り出すような声で打ち明ける。
「ママも、お友達もお見舞いに来てくれてたの。でも、もうずっと誰も来てくれない」小さな肩が小刻みに震えていた。
(この子は外の世界で何が起こったのかを知らない)ヒカルはそう確信した。
「ひとりぼっちになっちゃった」
今にも消え入りそうな声だった。
「オレがいるさ」とっさにヒカルは叫んでいた。
「オレが友達になるから」どうしてそんな事を言ったのか、ヒカル自身にも分からなかった。ただ、叫ばずにはいられなかった。
「本当に?」少女は驚いたように聞き返した。
「本当さ、君が嫌じゃなければね」ヒカルは、わざと明るくおどけてみせた。
「嫌じゃないよ!」はしゃぐように少女は即答する。
「昨日ね、夢を見たの」唐突に少女が言った。ヒカルが困惑していると、無言でいる事に、先を促していると感じたのであろう、少女は続きを話し出した。
「ママと弟と三人でピクニックに行くの」
まるでその場にいるかのように表情を輝かせる。
「会いたいな」一瞬表情に曇りを見せるが、すぐに笑顔に戻る。
「でも、私にはヒカルってゆう、新しいお友達がいるもんね」満面の笑みを浮かべて、照れくさそうに笑う。
「今度会う時は、ちゃんとドアから入って来てね」いたずらな笑みを浮かべ、少女は何かを悟っている表情で言った。
「どうして・・・」ヒカルは驚きを隠せなかった。
「目が見えなくなって、今まで見えなかった物が見えるようになったわ」大人びた顔をのぞかせる。
「久しぶりにおしゃべりして、ちょっと疲れちゃった」苦しそうに、うつむき加減にしゃべる。顔色が酷く悪かった。
「ゴホッゴホッ」少女が苦しそうに咳き込む。その口元からは赤月の光にも似た、赤い血が滲んでいた。
「大丈夫か?」とっさに背中をさすろうとして、寸前でヒカルは動きを止めた。
近くに来た気配を察知したのだろう、少女はそちらに顔を向けながら、精一杯の笑顔で大丈夫だと嘯いた。
少女の咳もおさまり、ヒカルが安心して気を抜いた瞬間だった。
少女が、糸の切れた操り人形のようにヒカルに向かって崩れ落ちた。
「ダメだ!オレに触っちゃ」
間に合わなかった。
少女はヒカルの胸に顔を埋めていた。
「あったかーい」少女はまるで、母親の胸に抱かれているかのように、安心した顔をしていた。
「お願い、このままでいさせて」どこか、消え入りそうな声でささやく。
「今度は絶対に幸せになれるさ」ヒカルは少女の背中を優しく撫でながら、切なそうに言った。
「ありがとう、また会いに来てね」そう言うと、少女は眠るように息をひきとった。
エピローグ
病院を見渡せる岡の上、一本の古木の枝に腰掛けた二人の姿があった。
「気に病むことはないさ」ヒカルの横に座った青年が病院の方を見たまま言った。
「あの子、家族に会えるかなぁー」ヒカルは自分の両手を見ながら呟いた。その手には、まだ少女の温もりが残っているかのように。
「会えるさ、今頃たっぷり甘えてるさ」わざと素っ気ないように言う。
「俺たち死神は、現世との鎖をこの手で断ち切るだけさ、天国に行くか地獄に行くかは、その子しだいさ」極力冷静に言う。
「オレやヒカルと違って、自ら命を絶ったわけじゃないんだ、死神になることもないしな」言葉は冷たく感じるが、その目は同僚を心配するものだった。
「そうだよな」やっとヒカルが口を開いた。 「絶対に天国に行って生まれ変わる。いつか、どこかで会えるといいな」ヒカルは自分の頬を軽く二・三度叩くと顔を上げた。
「会えるさ」そう言うと少年は枝から立ち上がった。
「帰るぞ」そう言ってヒカルを促す。
「また、リンゴ持ってくよ」ヒカルは最後にそう呟くと、一度だけ病室を振りむいた。
一陣の風が吹き抜けた。
風が通り過ぎた後には、何事もなかったかのように漆黒の闇を赤い月が照らしていた。
END