撮影日ー準備ー
モデルの件を承した日から、数日が経った。
今日は土曜日。撮影の当日だ。
あのあと、結局わたしはロシアンブルーを購入し、モデル代としてもう一つの黒いパンプスをもらうこととなった。
(実をいうと黒パンプスの方が結構高額だったため、内心とっても助かっている。)
しかし、そのどちらも今はわたしの手元にない。
黒パンプスについてはバイトが終了してから受け取ることになったからいいのだが、ロシアンブルーはすこし手直しがあると言われ、未だお店に預けたままだ。
帰り際になって渡された光沢のあるネイビーブルー地の名刺には「デザイナー 樋山恭司」の文字。
「実はお選びいただいた靴はどちらも私がデザインしたんですよ。」とはにかみながら告げられたときは驚いた。
彼自身がタイプなだけではなく、彼の作るものまで好みだなんて・・・。
ここまで好みに合ってしまうと、普段なかなか恋愛にベクトルが向かない自分でもときめいてしまう。
でも相手はすてきな大人の男のひとだ。自分のような小娘など眼中にないだろう。
本気になるだけ虚しくなる予感。
どうせほんの一時の関係なのだから目の保養として拝ませてもらうだけにしよう。
そんな風に先日の出来事を思い返していると、目の前に一台の車が停まった。
黒いボディのスポーツカー。ボンネットには横を向いたライオンみたいな動物のマークがある。名前はわからないけど、たしか外国のメーカーだ。
茫然としていると運転席からメガネ姿の男のひとが降りてきた。
「おはようございます、六花さん。寒い中お待たせしてすみません。」
知らない人だ。
何も答えず突っ立っているとその人がクスッと笑って言った。
「樋山ですよ。今日もお美しいですね、六花さん。」
「え!?樋山さんですか?メガネだから誰かわかんなかったです。っていうか、わざわざ樋山さんが迎えに来てくれたんですか!?てっきり違う人がくるのだと・・・。」
「ええ、準備が早く終わりましたので来てしまいました。それに他の人間とあなたを車という密室に置けるわけがありません。」
「え?」
後半部分がよく聞き取れず聞き返すが「なんでもありません」と笑顔で返されてしまった。
「それにしても六花さんはこの近くにお住まいなんですね。緑が多くて気持ちのよい場所ですね。手をつないで散歩でもしたくなりますね?」
と疑問形で言われたがなんとも微妙な言い回しに一瞬固まる。
(これは「散歩したくなるような場所」だということなのか、はたまたわたしと「散歩をしたい」ということなのか・・・。いやいや前者だよね。)
意図がはっきりとわからないため「そうですね」とだけ曖昧に返しておいた。
「樋山さん、メガネだと印象が変わりますね。髪もこの間と違っていて全然違う人に見えてしまいました。」
運転する彼に目をやると、お店ではスタイリング剤でまとめられていた髪は今日は下ろされていた。前髪は斜めに流されており、ツヤのある黒髪は全体的にゆるいウェーブがかけられているようだ。茶色いべっ甲フレームのメガネと相まってラフなのになんだか色っぽい。
「ふふふ、今日は店頭には立ちませんのでラフな格好をと思いまして。それに六花さんのお好みを探ろうかと。六花さんはどちらの私がお好みですか?」
なんだかとんでもない質問を投げられた。驚きで「どちらも素敵です」だなんて思ったことをそのまま口にしてしまった。だって本当にどちらの姿も素敵だから。
しかし、少し冷静になり改めて二人の樋山さんを思い浮かべると、今日の姿の方が普段着っぽくて楽に話せる気がする。お店での格好は敷居が高い印象があり緊張してしまう。
と考えていたことがつい口から出てしまった。
すると樋山さんは驚いたようで少し目を大きく開きこちらを見た。
運転中なので前を見てください。
「そうですか・・・。大変参考になりました。攻め方に活用させていただきますので楽しみにしていてくださいね。」
進行方向に目線を戻した樋山さんがゆっくりそう言ったがなにを攻めるつもりなのかは不明だ。
思わせぶりなせりふだけれど、こんな素敵な人がわたしのような小娘に気があるなんて夢は見ない。
高揚しそうになる気持ちを現実的な思考で自戒して窓の外に視線を移す。
-----------------------------------------
しばらくして車が靴店の近くの駐車場に停車する。
撮影場所に行く前に、店でヘアメイクや着替えをするらしい。
それならわざわざ迎えに来てくれなくてもよかったんじゃないだろうか・・・。
「お手をどうぞ、お嬢様。」
わたしが車のドアに手をかけるよりも早く、運転席から降りた樋山さんがドアを開けてくれる。
乗り込むときもドアを開けてエスコートしてくれたが、呆れるほどスマートな身のこなしだ。
彼の手を借りながら車から降りる。
スポーツカーは車高が低く乗り降りが大変なのでこの気遣いは助かる。
「ありがとうございます、樋山さんってエスコートに慣れてますよね。」
「そんなことはありませんよ。こんな風に接するのは六花さんだけです。」
そんなわけがあるか。
そんな素敵な笑顔でもわたしは騙されませんよ。
連れ立ってお店の裏口から入る。
案内されたのはスタッフの休憩室らしき部屋。
鮮やかな青が印象的な店舗とは異なり、シンプルなインテリアでまとめられている。
壁には今日の衣装と思われる服たちが掛けられている。
部屋の真ん中には背の高い樋山さんでも十分に寝られそうな大きなソファ。
そのソファの前にあるローテーブルには大きな三面鏡とたくさんのメイク道具が置かれている。
「メイクは誰がやってくれるんですか?」
ふと疑問に思ったことを投げ掛ける。
「私です。」
「・・・・・・えっ!?」
「プロのヘアメイクを頼むと予算がオーバーしてしまいまして。素人の手で申し訳ないのですがご容赦ください。これでもそこそこ自信はあるのですよ。いつかこのような日が来るのではと訓練しておいてよかったです。」
申し訳なさそうに、でもちょっと得意気な表情で笑う彼は少し幼く見える。
それにしてもメイクまでできるのかこの人は。
にっこりと微笑む彼の手がわたしの頬に伸びてくる。
「では早速メイクに取り掛かりましょうか。」
-------------------------------------
「六花さん・・・お肌も大変美しいですね。くすみ一つないキメの細やかな肌。うっとりしてしまいます。」
わたしの肌を吟味するように触りながら、そんなことを言う樋山さんの表情は本当にうっとりしている。
「ま、まだこれでも十代なので!」
予めメイクをするということを聞いていたのでスッピンで来た。
樋山さんがメイクすると知っていたならベースだけでも自分でやってきたのに。
それにしても触り方がやらしい!
さっきから全然作業する気配がなく、ずっとわたしの頬を撫でまわしている。
鏡越しに「いつまで触ってんの?」と目で訴えると「血行が良くなるマッサージをしてました。」なんてにこやかに言う。
だんだんわかってきた。この人絶対すけこましだ!
「では先に髪の下準備からしていきますね。」
そういってスタイリング剤を髪に吹きかける。
さっきまでと全然違う真剣な顔。
「では次はお顔です。失礼しますね。」
彼の指が頬に触れる。
あったかい。
肌に少し冷たい液体が触れる。ベースを塗っているらしい。
「本当にきれいな肌ですね。ファンデーションは薄めにしましょう。」
彼の吐息を近くに感じる。恥ずかしくて目が泳いでしまう。
鏡に目をやると、白いケープの上に乗った私の顔のすぐ近くに彼の顔がある。
とっても真剣な眼差し。その視線の先に自分がいると思うと更に羞恥が増す。思わず目を伏せた。
「どうかなさいましたか?」
声につられ目線を上げると、鏡越しではない彼の顔。わたしを覗き込むように頭が傾いている。
ち、近い!
「な、なんでもないです。」
顔が赤い気がする。こっち見ないで・・・って今の状況でそれは無理なはなし。
「なにかあれば言ってくださいね?ではアイメイクに移りますのでしばし目を閉じていただけますか?」
それを聞いてほっとする。
よかった、これ以上顔を見ていたら更に赤面しそうだ。
そっと目を閉じる。
アイホールに指が触れる感触。アイシャドウを指で塗られているようだ。
「まつ毛もとても長くて美しいですね。お手入れなどされているのですか?」
「あ、たまに美容液を塗るくらいです。ずぼらなので必要最低限のことしかしてなくて。」
「ふふふ、しっかりお手入れしなくてもこの美しさだなんて。世の女性たちに恨まれそうですね。」
それからどれくらい経ったかわからないが、樋山さんの「はい、出来ました。」という声を聞いた。
わたしはというと、鏡の中の彼と視線が絡むことに耐えきれず、途中から鏡を見ることをやめた。
なので、自分が今どういう状態なのかわからない。
恐る恐る鏡を覗く。
鏡の中には自分の姿。自分の姿なのになんだか不思議な感覚。
全体的にナチュラルな仕上がりで色見も押さえられている。リップはクリアのグロスだけのようだ。
髪はゆるいキレイなウェーブが作られていて華美な印象はない。
それなのになんだか洗練された雰囲気がある。
なんというか、誤魔化しがなく自分のいいところを最大限に引き出てくれているようだ。
「すごい・・・。」
「ふふふ、六花さんとても綺麗です。そこらへんのモデルなんて目じゃありません。」
出会ってから既に何度も言われた綺麗とか美しいとかの単語。
でも彼の誉め殺しは職業病なのだと、平常心を取り繕う。
そうしないと自分の中で何かが溢れそうになるから。
「さて。では参りましょう、六花さん。」