雨降る日の朝
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雨が降っている音で自然と目が覚める。あたしはベッドから起き出し、昨夜から一緒に眠っていた海斗の横顔を見て、左頬に一つキスをし、脱いでいた洋服を着て歩き出す。雨降りだと天気予報で予告されていたので、持ってきていた折り畳み傘を差して歩いていく。彼の自宅マンションは街でも一番の目抜き通り沿いにあって、比較的タクシーは停まりやすい。一台拾って自分のマンションの住所を告げた。今日は日曜日だから仕事が休みだ。本来なら海斗と一緒にいた方がいいのかもしれない。だけど確か言っていた。「今日は俺に時間くれよ」と。彼のプライベートを邪魔するわけにはいかない。それが一定の成熟を迎えた男女同士の暗黙のルールなのだ。普段からずっと会社では営業部販促課の課長代理職にいる海斗はずっと社に詰め続けている。何かと忙しいらしい。昼過ぎの休憩時間を狙って掛けても、大抵「あ、ごめん。今午後からのプレゼンの準備してるところ。またこっちから掛け直す。じゃあな」などと言われて切られる。まあ、海斗はそれだけ責任がある部署の仕事を任されているのだったが……。同じ会社員でも一OLのあたしは社でも雑用係で、何かと細かいことばかり任される。だけどそれが会社員の現実だ。疲れていてもシャキシャキ仕事をこなさないといけない。ゆっくりする暇はなかった。天から降り続くこの雨のように仕事は降ってくる。下手すると、お昼もろくに食べられないようなことがあった。一応会社の休憩時間は午後零時から一時までだったが、その間も仕事をすることがある。何をするにしても、あたしぐらいの年齢の女性はいろんな面で抵抗があるのだった。せめて土曜日の夜から泊まって日曜日の朝ぐらいまでは一緒に過ごせるのだが、それからの時間帯は海斗がゆっくりと寛ぐ時間だ。彼はずっと勤務時間中、ネットで新聞やブックマークしているサイトなどを閲覧し続けているようで何かと忙しい。上の人間たちはいずれ海斗を上のポストへと持っていくつもりのようだ。上司たちは皆、何かと頭が古くておまけにいい加減な感じだったのだから……。
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ケータイに着信があったのは正午前だった。自宅マンションに帰り着き、ゆっくりしているところだったから気付かなかった。さすがに体はきつい。いつもずっとパソコンのキーを叩きながら資料を作ったり、コピーを取りに行ったりしている。自分の体が芯から疲れきっているのはこういったことからも分かるのだ。まあ、慣れてしまえば平気だったのだけれど……。
「相澤さん」
「はい」
「この資料、四十部コピーしておいて。あと、午後からのプレゼンの準備もお願い」
「分かりました」
上司の堤とはいつもこんなやり取りばかりしている。二十代後半のあたしよりも一回りぐらい上で未婚の女性だが、適当に相手しておけば済む。会社ではいつもこんな感じで、業務が回っている。立ったり座ったりで疲れるのだけれど、それをしないと首を切られるのだ。土日ぐらいは堤や他の同僚社員たちと会わなくて済むからいいのだけれど……。
フリップを開き、着信窓に<矢口海斗>と映っているのを見て、すぐにリダイヤルで掛ける。番号は覚えているのだけれど、ちゃんと電話帳に登録していた。会って番号を交換した人の名前は全て電話帳に入れてある。名刺代わりだ。確かに上役たちは他社の役員などと会った際、名刺交換などをしているのだが、あたしや海斗ぐらいの年代の人間たちは名刺を受け渡す代わりに、ケータイの番号とアドレスを交換し合う。別にこれと言って紙に印刷されたものを相手にやることはない。これだけペーパーレス社会なのだから……。あたしが発信ボタンを押し、右耳に押し当てて通話した。
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「もしもし」
――ああ、麻実香?俺だよ。海斗。
「分かってる。……どうしたの?電話なんか掛けてきちゃって。今日は自分の時間じゃなかった?」
――退屈なんだ。……今から会えない?街で。
「ええ、いいわ。じゃあ、あの店で待ってるから」
そう言って電話を切った。あの店と言いさえすれば分かる。いつも会ったとき食事を取る店だ。喫茶店のようなところで、ランチの時間になると日替わりを売っていて、ずっと利用し続けている。食事が終わって注文しさえすれば、手軽な値段のスイーツとコーヒーも楽しめた。その日、外出着に着替えて店へと向かう。疲れた頭と体に美味しい食事とデザートはとてもいいのだから……。自宅の扉はオートロック式で安全なのだし、一階には管理人もいる。このマンションで暮らし始めてから五年以上が経つ。近くにスーパーやコンビニなどがあって別に不自由はないのだし、住むには絶好の場所だと思われた。
降っていた雨もいつの間にか上がってしまっていて、店に辿り着くと、ケータイに付いている時計を見るためフリップを開く。あれから海斗のケータイからの着信は一度もなかった。ずっと待ち続ける。コーヒーを一杯頼んで。今食事を頼むと、まずいことになるなと思い。小一時間待っていると、髪にトリートメントを付けてお洒落着に着替えた彼がやってきた。
「急にどうしたの?」
「まあ、食事一緒に取れれば楽しいかなって思って」
海斗がそう言って笑い、二人分の日替わりをウエイターに注文した。飲み物はコーヒーにする。普段から彼も仕事漬けで精神的に参る寸前のようだ。恋人同士なのだから、そういったことは言わずとも分かっている。せめてわずかでも癒してあげられれば――、そう思っていた。日替わりとホットコーヒーがものの十分ほどで届く。テーブルに来た食事を取りながら海斗と歓談する。最初は何も話さず無言でいたのだが、そのうち話が弾み始めた。彼はいつも昼の食事のときは取引先との人間と話をしているようで、ビジネスライクな話がメインのようだ。だけど今は違う。お互い三十代でアラサーである以上、下世話な話も含めていろいろと出た。いつも互いにずっとパソコンのキーばかり叩き続けているのできついのだ。ストレスも溜まる。食事を取りながらいろんな話が零れ落ちた。あたしたちの年代だと主に愚痴が出てしまうのだ。いくら海斗も課長代理職とは言っても、課長と部下たちの間に挟まれて辛い想いをするのだし……。
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「麻実香」
「何?」
「今度の夏、一緒に旅行にでも行かないか?」
「ええ、いいわ。……でも費用とか大丈夫なの?」
「ああ。貯金してた金も叩かないとな。溜め込んでるばかりじゃダメだし」
「もし海斗が時間取れるようだったら行くわ」
「済まないね。でも、俺たちもそのときはいい関係になるだろうな」
「いい関係?」
「うん」
海斗が一呼吸置き、
「――ホントに愛し合える、恋人って関係だよ。単なる友達じゃなくてな」
と言った。そしてゆっくりと吐き出すように、
「新たな人生が見えるな。俺にとっても、そして君にとっても」
と言葉を重ねる。頷くと二人で食事を取り続けた。やや冷え込んでいるので温かい食事はちょうどいい。コーヒーが意識を覚醒させた。ブラックで飲むと、食事の消化を助けるのだし……。ゆっくりとした冬の一日が過ぎていく。互いに心身両面で癒し合うことに変わりはないのだから……。明日からまたお互い仕事である。ウイークデーは身が引き締まっていた。休日に消化してしまった疲れはまた新たな週に蓄積されるのだけれど……。和やかな感じで食事を取り終わった後、街を歩く。こうやって何気ない感じで過ごすのも悪くないと思っていたのが本音なのだし、互いにいい関係である。成熟している大人同士として。
(了)