黒い渡し舟・遠い潮
風向きが変わった。アレンは黒い海岸で足を止め、周囲の声を聞いた。船頭さえ近づかない海峡を、古い小舟で一人渡る。霧の向こうに黒い岸壁が現れる。 風に塩の匂いが混じり、禁忌大陸が近いと知る。恐怖より先に、地図へ何も描かれていないことへの疑問が大きくなった。 人類の地図には死の土地とだけあるが、浜には網と籠、火を消したばかりの生活の跡があった。
追放は罪人の移送として記録された。同行する兵の中には、かつて彼に命を救われた者もいる。互いに名を呼ばず、規則の内側で渡せる水だけが増えた。
夜営地で護送兵の一人が高熱を出した。アレンは拘束具を外せないまま薬草を示す。翌朝、兵は礼を言わず、代わりに水筒を満たして馬車へ戻した。
禁忌大陸について確かな記録は一冊も渡されなかった。魔族は残虐で、土地は死に、帰還者はいない。その三行だけが、何百年も疑われず繰り返されている。
海が近づくにつれ、護送の人数は減った。最後の関所では鍵だけが外され、あとは一人で進めと言われる。自由になったのではない。誰も戻ると思っていないのだ。
夕暮れの先に黒い水平線が伸びていた。アレンは王国を振り返らず、まだ見たことのない土地へ歩いた。答えがないなら、せめて自分の目で確かめるしかない。
見届けた者は英雄譚を口にしなかった。水が戻った、薬が届いた、今夜は家族が眠れる。ただそれだけの報告が重なり、アレンへの警戒をゆっくり信頼へ変えていった。
その場で答えを出せなかった問いも、消したことにはしなかった。保留と記して次の会議へ渡す。分からないものを分からないまま残せることも、互いを欺かずに暮らすための力だった。
(本文実測:683字)




