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1.エルダーフラワー:Sambucus nigra(1)

男は辺りを見渡した。

景色を楽しもうとしたからではない。その景色に見覚えがないことを、もう一度確かめるためである。


網膜に投影されたそれは、知らない風景。


おかしい。いつものコンクリートの道を歩いていたはずだ。虫がパチパチとたかる街灯の灯りも、ぼんやりと照らされた道も、いつもと何ら変わらなかった。


なのに、今、彼の目の前にあるのは、小さな草地に立つ木の家であった。


草地の向こうには背の高い木が囲っていて、それに沿うように洒落た装飾の街灯がやんわりと辺りを照らしている。


リスやウサギが今にも木を伝い、地面からはモグラが出てきそうである。まるで童話の世界だ。


方向音痴な方ではないと思っていたのだが、考え事をしていたからだろうか。


最近はこなことばかりだ。とうとう仕事にも支障が出て、今日は下の人間にも注意を受けた。


仕方ない。元来た道に戻ろう。

男は踵を返してのそのそと歩き始めた。仕事帰りの夜道を歩くのは骨が折れる。



のであるが。

男はまた、草地に出ていた。首をひねり、もう一度、くるりと方向を変える。


そして、気が付けば足元は草地だった。


さすがにこれはなにか異変が起きているのだと、男はようやく理解した。


衣替えをして出したばかりの厚いコートの中で身じろぎをする。微かに防虫剤と、昨年使っていた洗剤の香りが鼻をかすめた。


試しにもう一度、と歩いてみる。だが、ふと気が付くとパッと草地に戻っている。


並べる順番を間違えた紙芝居のようだ。何かの境界線があって、それを越えてしまうともう戻ることはできない。


男はそこで初めて、ここまで歩いてきた後ろではなく前の草地に意識を向けた。


小さい家の中からは温もりのある明かりが漏れている。住人がいるのだろう。元の道への戻り方を知っているかもしれない。


どこか薄気味悪さを感じながらも男は家の方に向けて歩き、木でできた玄関扉と向かい合ってドアノッカーを3回、叩いた。


ノッカーの冷たさすらも手に染みわたる。微かに家の中からおいしそうな香りがする。


軽い音がしたが、こんな音量で家の中まで聞こえているのだろうか。


叩いてから不安になったが、すぐに、カラン、という煩すぎない厚みのある鈴の音とともに玄関が開いた。


部屋の中の明かりを背負って、30代前半くらいに見える若い男が出てくる。


「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りください」


いらっしゃいませ? 俺は道を聞きに来たんだ。他人の家に上がりこみに来たんじゃない。


ぽつんと世界から隔離されたような家の男が、日本語を話したことすら意外に思ったが、平静を装った。


「あの、実は道に迷ってしまいまして」


「そうでしょうとも」


「ええと…」


「ここは、そういう場所なんですよ。さ、お入りください」


若い男は身体を家の方へ避け、男が入れるよう空間を開けた。


途端に五感にしみこんできた情報量に、男は一時、立ちすくんだ。


想像していた通り暖かい室内。加湿器が焚かれているようだ。肌に染みる優しい木の温もり。


瓶に詰められた草が(男には瓶の名称も草がなんであるかも知識の範囲外だった)棚いっぱいに並び、ジャンルを問わず書籍が壁側と席の間に佇む。


そしてなにより強烈なのは、さまざまな種類のお茶と甘い菓子、パンの香りだった。


「お好きな席にお座りください」


男はコートを脱いでカウンター前の右から3番目の席に座った。若い男がすかさずコートを受け取り、ハンガーにかけた。


案内されて分かったことだが、どうやらここはただの家ではなく、飲食店のようだ。


それでも男は初冬の外気に触れて冷えた身体がほぐれるのを感じていた。初めて来たのにもかかわらず、ほっとしていることに気付いて思わず苦笑が零れる。


「歓迎いたします」


店としてはいささか慇懃(いんぎん)なセリフではあったが、若い男はにこやかに笑ってメニュー表をそっと差し出し、白湯を置いた。


切れ長で涼しげというよりは冷たさをも感じさせる眸も、微笑むと印象が和らいで見える。


白湯は、飲んでみると少し甘かった。蜂蜜が入っているのだろう。


「ここはカフェか何かなのか」


そう問いかけると、若い男はおや、という顔で目を瞬かせ、はいとうなずいた。


「喫茶アルテアという名前で、小さくはありますが、飲食店をやらせてもらってます」


そんな名前が書かれた看板があっただろうか。看板すらも見落とすなんてこれはいよいよお疲れらしい。


男は気を取り直してメニュー表と対面した。ドリンク欄に目を滑らせる。ハーブティーとかいうやつなのだろう。カタカナのお茶がずらりと並ぶ。


メニューのなかで正体が分かるのは緑茶と黒豆茶、それからほうじ茶しかない。

ご丁寧にも、それぞれのメニューの下にハーブの効能が書き添えられていた。


「万能の薬箱・・・」


思わず声に出していたのだろう。カウンターを挟んですぐのところにいる若い男、店主だろう、が応じた。


「エルダーですね。マスカットに似た甘い香りがする、ビタミンたっぷりのお茶になります」


万能、の文字に惹かれて、じゃあそれで、と男はうなずいた。かしこまりました。店主の声が木のぬくもりに包まれて消える。


客は男一人だった。手持ち無沙汰になった男は店内に目を滑らす。


机から椅子、カウンター、雑誌を置くラック、所狭しと並べられた本棚、それから柱まで全てが木でできている。


まるでおとぎ話に迷い込んだような気分だ。このまま帰れなくなってもおかしくなさそうである。


慣れない環境にどこか腹の収まりが悪い感情を持て余していると、すっと小皿が差し出された。


ハムとチーズが挟まれている小ぶりのパンだ。表面に5本の切れ目が入っていて、表面はこんがりしている。


「ご提供できる期限が近いものになりますので、お代はいただきません。よろしかったらお召し上がりください。カイザーメンゼルというパンで、小麦粉の素朴な味を楽しめます。お好みでオリーブオイルも」


「いいのか」


はい、と店主がうなずくのを確認してから、男は目の前に現れたパンに目を移した。


カイザー。つまり皇帝。エルダーと合せて「万能の皇帝」。皮肉だろうか。そんなことを勘ぐってしまうことにも腹が立って、男はパンにかぶりついた。


しかし、それが舌に着地した途端、そんなことはどうでもよくなった。


「うまい・・・!」


男は口をもごもごさせて店主を見た。彼はただ微笑み返す。


コクがあり滑らかな舌触りのナチュラルチーズに、こんがりと焼けて肉汁のうま味が染み出たハム。それがカリッとしたパンに包まれ、麦の香りが鼻に抜けていく。


オリーブオイルをつけると味わいはさらにまろやかに深みを増す。


パンに舌鼓を打っていると、主役のエルダーが目の前に登場した。


「お待たせいたしました」


店主が言った通り、マスカットの香りがふっと漂う。甘いものがそれほど得意ではない男は、おそるおそる口を付けたが上品な甘さに目を丸くした。


「優しい香りがするでしょう? 神経の緊張をほぐし、不安やストレスを解消する作用があるんですよ。果実から根っこまで全ての部分に薬効があり、風邪はもちろん虫よけにも効くんです」


「まさに、万能だな」


男が唸ると、ええ、と店主は首肯した。

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