8月31日のムコウガワ(完結)
夏の終わりは、いつも湿った熱を残して去る。
今年も8月31日だった。僕の部屋の窓から見える川は、夕焼けに溶けて橙色に濁っていた。エアコンの効きが悪い古いアパートで、僕は氷が入っていたはずの麦茶を飲みながら、机の上に置いてある封筒を眺めていた。中には一枚の手紙が入っていた―。
「ねぇ、8月31日は特別なんだよ?」
去年の夏の今頃、彼女は僕にそう言いながら河川敷を歩いていた。
彼女の名前は[柊 璃子]僕の幼馴染だ。
「この世と、ムコウガワが一番近くになるんだって。隙間ができるの。妖、まあ妖怪やその人の記憶とか。そういうムコウガワのものがこっちに漏れ出てしまうらしいよ」
僕はただ子供のようにそう説明しながらきれいな彼女のお気に入りのガラス玉を探している彼女の姿を眺めていた。ファンタジー小説やSF好きの彼女の戯言だと、軽く流していた。
「まだ見つからないのか?別にいいだろ高いもんじゃないし。また来年の夏に買ってやるからよ」
彼女が探しているガラス玉は僕が今年の夏祭りに、誕生日プレゼントとして渡したものだ。
「…そうね。もう日も落ちてきて暗くてよく見えないし。帰りましょ!」
そう彼女は明るく言い、僕の横に並んだ。
約束ね。また来年の夏、あのガラス玉を私に―
あの出来事から三ヵ月後、彼女は突然いなくなった。川で溺れたという。遺体は見つからなかった。ただその翌日、ポストに差出人不明の封筒。中には手紙が一枚白紙だった。
今年の8月31日。もう夕日が地平線から見えなくなくなるころ、僕は彼女との思い出の場。そして彼女が死んだ河川敷に来ていた。理由はない。ただ、あの日、彼女が言っていた言葉が頭の中で響く。
『この世と、ムコウガワが一番近くになるんだって―。』
『妖、まあ妖怪やその人の記憶とか―。』
六時半に差し掛かり、帰宅の鐘が響き。太陽が沈みきる間際。空気が変わった。
風が止み、川の音は遠のき、世界が薄い膜で覆われたかのような静寂。
街灯がぼんやりと滲み、僕の影が二つになった。人つは僕の影。もう一つは少し小さく長い髪の影だった。
「来たんだ」
声がした。彼女の、璃子の声だった。後ろを振り返ると、彼女が立っていた。制服のまま、長い濡れた髪から水滴を落としながら、でも微笑んでいる。
「ムコウガワから、今日は視えるんだよ。こっち側に」
彼女はゆっくり近づいて僕の前に立った。彼女の顔は白く、濡れた髪からは少し色気も感じ取れた。
同じ千鳥山高校の、同い年の、仲良しの、僕の初めての恋をした璃子だった。
「ごめんね、突然いなくなって。ガラス玉がずっと心残りで諦めきれなくて。探してたら溺れちゃった」
僕は言葉が出なかった。出せなかった。今名前を呼んでしまえば溢れてしまう。ただ喉が熱い。
彼女は僕の顔を覗き込んだ。その顔は幻想的で、儚くて、でも確かにそこにいた。
璃子は川の向こう側を指差した。向こう岸の景色が歪んでいる。見慣れた街並みが夜とは別の色合いを帯びて映っていた。あちら側では、まだ夏が続いているように見えた。
「私、向こうで待ってる。いつか、あなたが来る日まで。」
彼女は僕の手を取った。冷たいのに、温かい。懐かしい感触。彼女は僕の掌にガラスの欠片をそっと渡した。
「これ、持ってて。私の『未練』。全部言えなかった『好き』が詰まってる」
欠片の中で青い霧が渦を巻き、淡く光った。
「来年も、その次も、8月31日になったらここに来て。隙間は毎年開くから。あなたが私を。璃子という存在を忘れない限り。だから、その欠片で少しずつ私のことを思い出して。」
璃子がそう言うと、彼女の姿が薄れ始めた。
「忘れない絶対!僕も君への好きを毎年伝えたい。だから忘れない。」
彼女は少し照れながらも笑みを浮かべて頷いた。
もうすぐ消えてしまう。もっと話したい。…今言わなければ遅いんだ。
「璃子。誕生日、おめでとう」
僕がそういうと璃子は一瞬驚いていたが嬉しそうに目に涙を浮かべていた。
『ありがとう』
もう声も聞こえないが一生懸命に口を動かして伝えてくれた。
最後に彼女は小さく笑った。
姿が消えた後、僕の手の中のガラスは、ほんの少し温かみが残っていた。
川の向こう岸では、もう歪みはなかった。彼女に会えるのは、また来年になってしまった。
僕はポケットに入っている手紙のことを思い出し、手紙を開いた。いつまでも白紙だった手紙に今では文字が見える。
8月31日。ムコウガワで待ってる―。
僕はその手紙をそっとポケットに戻し、アパートへの道を歩み始めた。冷たい夜風が頬を撫でる。
夏の終わりは、いつも湿った熱を残して去る。でも今年の夏は少しだけ違う。
胸の奥で、小さな青い霧が静かに息をしていた。
いつか僕が『ムコウガワ』へ行くその日まで―。
この淡い灯りは、きっと消えない。
「8月31日のムコウガワ」いかがだったでしょうか。今回が初めての投稿になるので、どうぞこれからよろしくお願いいたします。




