第9話:テラスでの膝枕と、昔の呼び名。
前回、至高のスフレパンケーキでリリアーヌ様の胃袋(と機嫌)を完璧に掴んだアルフレッド。
第9話となる今回は、午後の穏やかなひとときから、夜の帳が下りるまでをノンストップでお届けします。
スフレパンケーキという至福の甘味を堪能した後、テラスには穏やかな春の風が吹き抜けていた。
リリアーヌは、図書室から借りてきたばかりの分厚い冒険小説を抱え、隣に座るアルフレッドへとはしゃいだ声を向ける。
「見て、アル! この挿絵の竜、凄く強そうじゃない? いつか本物を見てみたいわ!」
「左様でございますか。ですがリリアーヌ様、本物の竜はこれほど可愛らしくはありませんよ」
アルフレッドは、かつて前世で見た映像の記憶を脳裏に浮かべながら、穏やかに言葉を返す。
二人きりの時のリリアーヌは、王女としての気品を保ちつつも、その瞳には幼少期のような無邪気な輝きが宿っていた。それが今のアルフレッドにとって、何より守りたい宝物だった。
「もう、夢がないわね。……ふふ、でもそんなところもアルらしいわ」
リリアーヌは楽しそうに笑い、再び本に視線を落とした。
それから数十分。テラスにはページを捲る音だけが静かに響いていた。
やがて、アルフレッドの右肩に、ふわりと柔らかな重みが加わった。
「……リリアーヌ様?」
アルフレッドが視線を落とすと、そこには自分の肩に頭を預けた彼女の姿があった。
心臓が不規則なビートを刻み始める。彼女のプラチナブロンドから漂う甘い香りが、アルフレッドの思考を白く染めていく。
(……もしや、これは意識してやっているのか? それとも……)
確認するように彼女の顔を覗き込むと、そこには規則正しい寝息を立てる、安らかな寝顔があった。どうやら、パンケーキで満腹になったことで、心地よい眠気に抗えなかったらしい。
「…………寝てしまわれたのですか」
アルフレッドは、安堵と、それ以上の緊張が入り混じった溜息をついた。
しかし、ソファに座ったままの姿勢では、彼女の首が不安定で危なっかしい。
(……このままでは、起きた時に体を痛めてしまう。……不敬だが、背に腹は代えられない)
アルフレッドは意を決すると、彼女の体を優しく支え、自分の膝の上にその柔らかな頭を移動させた。
いわゆる、膝枕だ。
至近距離で見る彼女の睫毛は長く、陶器のような肌は夕日に照らされて黄金色に輝いている。
アルフレッドの心拍数は限界を超え、もはや自分が呼吸をしているのかさえ怪しくなっていた。彼はそのまま、彼女を起こさないよう、ただの石像になったかのように一時間ほど固まっていた。
やがて、リリアーヌが小さく身悶えし、ゆっくりとその蒼い瞳を開いた。
「……ん……。……あら?」
ぼんやりとした視線の先にあったのは、心配そうに、そして顔を真っ赤にして自分を見下ろすアルフレッドの顔だった。
自分が彼の膝の上に寝かされていることに気が付いた瞬間、リリアーヌの顔は一気に林檎のように赤く染まった。
「あ、アル……! 私、寝てしまっていたの……?」
「左様でございます。……姿勢が不安定でしたので、失礼を承知で……」
リリアーヌは慌てて起き上がろうとしたが、ふと動きを止めると、再びアルフレッドの膝の上に顔を埋めた。
「…………もうちょっとだけ。……凄く、幸せなんですもの」
その言葉に、アルフレッドは今度こそ、言葉を失って沈黙するしかなかった。
テラスでの甘い時間を終え、晩餐はリリアーヌの自室で静かに行われた。
他人の目を気にしなくて済む空間で、二人は今日一日の出来事や、他愛のない世間話に花を咲かせた。
食事が終わり、夜の支度が始まる。
風呂場へ向かう前、リリアーヌはクローゼットから数着の寝衣を取り出し、困ったような顔でアルフレッドを振り返った。
「アル、選んで。今夜、どれを着て寝るのがいいかしら?」
「……私が、でございますか? それは侍女の領分では……」
「いいの。今の私は、アルの意見が聞きたいんだから」
アルフレッドは内心のドギマギを鉄面皮で隠し、真剣に衣装を吟味した。彼女の肌の白さを最も美しく見せ、かつ、なるべく露出を控えた落ち着いたデザインの一着を指差す。
「……こちらが、リリアーヌ様には一番お似合いかと存じます」
「ふふ、わかったわ。じゃあ、これを持って待っていて」
リリアーヌは満足げに笑うと、衣装を持って浴室へ消えていった。
アルフレッドは「ドアの前で待機していなさい」という命令に従い、扉の前に直立不動で立ち尽くした。
扉の向こうから聞こえる微かな水音に、彼は何度も自分を律するように目を閉じた。
やがて、湯気に包まれたリリアーヌが現れる。
先ほどアルフレッドが選んだネグリジェを纏った彼女は、いつもより少しだけ大人びて、同時にひどく無防備に見えた。
ドレッサーの前に座る彼女の背後に立ち、アルフレッドは丁寧にその髪を乾かし始める。
しっとりとした銀の糸をブラシで梳くたびに、静かな部屋に快い音が響く。
「……リリアーヌ様、もうお休みのお時間です」
手入れを終え、アルフレッドがそう告げると、リリアーヌは寝台に腰掛けたまま、不満げに頬を膨らませた。
「まだ眠くないわ。……アル、私の枕元でお話をして。……私が眠くなるまで、ずっと」
それは、わがままな子供のような、けれど抗いがたい主の命令だった。
アルフレッドは寝台の傍らに椅子を引き、静かに語り始めた。かつて彼が読んだ物語や、この世界のどこかにある美しい景色について。
話が一段落した時、リリアーヌが潤んだ瞳でアルフレッドを見つめた。
「ねえ、アル。……貴方はもう、昔みたいに、私のことを『リリー』とは呼んでくれないの?」
アルフレッドの言葉が止まった。
「……それは不敬にございます。……今の私は、貴女様の執事ですから」
「なら、命令よ」
リリアーヌは身を乗り出し、アルフレッドのシャツの袖をぎゅっと握った。
「二人きりの時だけでいい。……かつてのように、私のことを……リリーと呼んで」
しばしの沈黙。
アルフレッドは、前世で救えなかった少女の面影を、そして今、目の前で切なげに微笑む愛しい主の姿を、その瞳に焼き付けた。
彼は深く頭を下げ、かつてないほど優しい声を絞り出す。
「……仰せのままに、リリー」
その瞬間、リリアーヌの顔に弾けるような笑顔が広がった。
それはどの宝石よりも美しく、アルフレッドの心に、消えない刻印を打つに十分なものだった。
第9話、最後までお付き合いいただきありがとうございました!
……いかがでしたでしょうか。
ついに解禁された「リリー」という呼び名。
執事としての壁を、王女としての「命令」で強引に、けれど愛おしく崩していくリリアーヌ様の執念(愛)が実った瞬間でした。




