竜の背中で、あったかい朝ごはん ―怖いはずの相手が、いちばん優しかった―
朝は、湯気から始まる。
鍋のふちに小さな泡が並んで、ぷつ、ぷつ、と控えめに弾ける。
木の匙でかき混ぜると、米が鍋底を撫でて、さらさらと音を立てた。
私はその音を聞くと、少しだけ落ち着く。
音は嘘をつかない。
火は手を抜かない。
だから台所は、世界でいちばん安心できる場所だった。
昔は、ここにパンの匂いが混ざっていた。
焼きたての香りで旅人が目を覚まして、「今日もいい朝だ」と笑った。
でも今は、粥の匂いだけだ。
粉が足りない。卵も少ない。
街道が止まると、宿の台所はすぐに静かになる。
「……よし。今日も、あったかい」
私は鍋を覗き込み、小さく頷いた。
名前はナギ。辺境の宿屋の娘だ。
宿といっても立派な看板があるわけじゃない。迷った旅人が、たまたま灯りを見つけて辿り着くような宿。
それでも、この宿があるだけで村は少し安心していた。
寒い夜に灯りがある。湯が沸く。朝が食べられる。
そんな当たり前を、私は守りたかった。
戸がきぃ、と鳴った。
「ナギ姉ちゃん! おはよ!」
村の子ども、ユイが駆け込んでくる。髪は寝癖のまま、頬は赤い。寒い朝ほど元気だ。
「おはよう。手、冷たいでしょ。まず温めな」
私は布を渡した。ユイは両手をこすり合わせて、にへっと笑う。
「今日の朝ごはん、なに?」
「粥だよ。塩、ちょっと入れた」
「やった! あったかいやつ!」
その言い方だけで、胸が軽くなる。
豪華じゃなくていい。
朝ごはんは、今日を始める合図だ。
あったかいだけで、人は少し前を向ける。
そのとき、宿の奥から父の咳払いが聞こえた。
「ナギ」
父は宿屋の主人で、最近眉間に皺が増えた。怒っているからじゃない。考えすぎて増える皺だ。
「今から仕入れに行く。戻りは昼過ぎになる」
「……また、街道の方まで?」
「倉が空だ。塩も薪も足りん」
父は言い切ったが、その声に自信はなかった。
街道の先は危ない。
みんな知っている。
竜が出る。
灰の峰に竜が棲みついた。
そんな噂が広がってから旅人は減った。商人も来ない。村へ続く道は、ゆっくり死んでいった。
竜を見た者はいない。
襲われた者もいない。
それでも人は怖がる。
怖さは、見えないほど大きくなる。
「父さん、一人で行くの?」
「若い連中は……怖がって動かん」
父は帽子を被り直し、荷袋を背負った。
「心配するな。道は分かってる」
それが一番心配な言い方だった。
「……昼までに戻らなかったら、迎えに行くから」
私が言うと、父は一瞬だけ目を細くして笑った。
「迎えに行くな。宿を守れ」
「宿を守るために、父さんが必要なんだよ」
父は何も言わなかった。
言えないのだと思う。
守るために無理をしている。
お互い分かっているから。
父が出ていく。戸が閉まる。
風の音だけが残る。
私は鍋の蓋を少しずらして、湯気を逃がした。
湯気は白くて、あたたかくて、優しい。けれど外へ出ればすぐ消える。
消えないものが欲しかった。
守れる確かなものが。
その日の昼。
父は戻らなかった。
昼の鐘が鳴る。
村の見張りが鳴らす、小さな鐘だ。
鳴っても父の姿は見えない。
私は宿の入口に立って、街道の方を見つめた。
雪雲が低く垂れ、山の影が濃い。
嫌な静けさだ。
ユイが柱の陰から顔を出す。
「ナギ姉ちゃん……おじさん、まだ?」
「うん。もうすぐ戻るよ」
私は笑って言った。
笑うのは、信じるためだ。信じないと足が止まってしまう。
夕方になっても戻らない。
村の大人たちが集まり、低い声で話し始めた。
「雪が強くなる前に引き返してるはずだ」
「崖の方で足を滑らせたんじゃ……」
「……竜のせいだろ」
竜、という言葉が出ると、空気が冷える。
村長が手を振った。
「やめろ。見た者はいない」
「でも、近いんだ。灰の峰から熱い風が来る」
「夜に影を見たって……」
噂は噂を食べて大きくなる。
その大きさで、人の足が縛られる。
「迎えに行く」
私は言った。
大人たちの視線が集まる。驚きと、止めたい気持ちが混ざった目。
「娘が行ってどうする」
「道を知ってるのは男だ」
「竜が出たら……」
私は息を吸った。
胸の奥が熱い。焦りの熱だ。怖さの熱だ。
「父さんが帰らないと、宿が終わる」
声が少し震えた。
「……終わるだけじゃない。父さんを、戻ってこない人にしたくない」
場が静かになる。
静かになると、怖さが濃くなる。
怖さが濃くなると、人は動けない。
だから私は、動いた。
荷袋を背負う。毛布を巻く。
火打ち石、小さな鍋、乾パンを詰める。
台所で使っていた小さな鉄鍋。焦げつきにくくて軽い。
父が昔、私にくれた鍋だ。
「ナギ、やめろ」
村長が言う。
「危険だ」
「危険でも行く」
震えは、少しだけ消えていた。
震えても進むと決めたからだ。
宿の戸を開ける。
冷たい風が頬を打つ。雪の匂いがする。
街道へ一歩踏み出した瞬間、白い小さなものが道端に降りた。
白い小鳥。
朝に見たのと同じ色。
同じ目の感じ。
小鳥は、ぴ、と鳴いて歩き出した。
飛ばない。歩く。
まるで「ついておいで」と言うみたいに。
「……案内してくれるの?」
小鳥は振り返らず、霧の方へ進む。
霧は谷に溜まり、道を曖昧にしていた。
私は迷った。
でも迷う時間が惜しい。
私は小鳥の後を追った。
街道を進むほど、村の匂いが薄れていく。
土と雪の匂いが増え、音が減り、足音だけが残る。
怖い。
でも走った。
父のことを考えると胸が痛い。
痛いままでも、足は止まらない。
谷を抜け、灰の峰へ向かう道に入ると、空気が変わった。
あたたかい。
熱いわけじゃない。
冬の冷たさの中に、ふっと息が混ざる感じ。
村で噂されていた“熱い風”。
「……竜の息……」
言葉にすると喉が乾く。
怖さが形になる。
小鳥はそれでも進む。
私はその白を見失わないように歩いた。
しばらくすると、雪の上に足跡があった。
大きい。
人の足跡ではない。荷車でもない。
丸くて、爪の跡がある。
私は息を止めた。
竜の足跡だ。
怖さが背中を這い上がってくる。
でも同時に、妙な安心もあった。
竜がいる場所なら獣は寄らない。
そういう話を、昔聞いたことがある。
足跡は崖の方へ続いていた。
小鳥も同じ方向へ向かう。
私は歩幅を狭め、足音を小さくした。
意味がないかもしれない。
でも、心の準備をするための小さな儀式だ。
崖の陰に入った瞬間、空気が変わった。
石が温まっている。
雪が薄く溶け、地面が見えている。
そして。
いた。
黒い影が、そこにいた。
大きすぎる。
空の一部みたいだ。
翼を畳んでも岩山のように見える。
竜。
膝が震えた。
逃げたい。
でも逃げたら、父が消える。
私は喉の奥で息を吸って、声を出した。
「……父さんを、探しています」
小さな声だった。
でも言った。
竜の頭がゆっくり動く。
目が開いた。
赤でも金でもない。
灰色の光が宿っている。
見られただけで心臓が跳ねる。
竜は、怒っている顔をしていなかった。
というより、表情が読めない。
ただ、そこにいる。
私は一歩だけ前へ出た。
「……お願い。村の人が、戻らないんです」
竜が鼻から息を吐いた。
ごう、と音がした。
熱い風が髪を揺らす。
でも痛くない。焼けない。
ただ、あたたかい。
私は目を見開いた。
竜は私を吹き飛ばさなかった。
噂のように、殺しに来なかった。
小鳥が私の肩にちょこんと乗る。ぴ、と鳴いた。
竜の目が小鳥を見る。
それから私を見る。
そして竜は、ゆっくり身体を起こした。
地面が震え、岩が転がる。
私は踏ん張った。
竜は私に背中を向けた。
……背中?
黒い鱗が連なり、骨の筋が盛り上がっている。
その背中が、目の前に差し出されていた。
「……乗れってこと?」
私は信じられずに呟いた。
竜は返事をしない。
返事の代わりに尾がゆるく動く。急かすみたいに。
私は荷袋の紐を締め直した。
足は震えている。
でも、ここで止まれば父の時間がなくなる。
私は岩をよじ登り、竜の背に手をかけた。
あたたかい。
硬いのに、掌がじんと温まる。
冬の朝、鍋を抱えたときの温度だ。
私は息を吐いて、背へ這い上がった。
鱗の間に指をかける。滑らない。
想像よりずっと“乗れる”形をしている。
竜は、私が落ち着くのを待った。
待ってから翼を広げた。
風が巻き、世界が下がる。
胃が浮く。
でも背中があたたかいから、怖さが少し薄れる。
竜は空へ上がった。
村が小さくなる。森が線になる。谷が浅く見える。
私は背にしがみつきながら、唇を噛んだ。
「……ほんとに飛ぶんだ」
当たり前なのに、泣きそうになった。
こんなにも大きな命が、ちゃんと空を飛ぶ。
竜はゆっくり飛んだ。
急がない。乱暴じゃない。
私が落ちない速度で、風を切る。
その優しさが胸に刺さった。
怖いはずの相手が、私に気を使っている。
その事実が、どうしてこんなに痛いんだろう。
しばらく飛ぶと、竜は山肌のくぼみに降りた。
雪が吹き飛び、土が見える場所。
そこに、人がいた。
「……父さん!」
父が倒れていた。
足が雪に埋まり、肩が岩にもたれている。
顔色は悪い。でも息はある。
私は背から滑り降りて、父の頬に触れた。
冷たい。
でも、生きている冷たさだ。
「父さん、ねえ、起きて……!」
父の瞼が少し動く。
薄く開く。
「……ナギ……?」
声が出た。
それだけで胸が崩れた。
「よかった……!」
涙が止まらない。
止めなくていい気がした。
父は苦しそうに笑って言った。
「……来るなって、言っただろ……」
「言われたけど、行くよ……!」
父は目を動かし、竜に気づいて顔を強張らせる。
「……竜……」
私は慌てて首を振った。
「違う。助けてくれたの」
父は信じられない目をした。
信じられないのが普通だ。
竜は父を見下ろしている。
目は大きくて怖い。
でも、近づいて噛みつく気配はない。
鼻先を少し動かして、父の呼吸を確かめるみたいに。
それから私の荷袋を見る。
……鍋を見た。
私はそこで、ふっと気づいた。
朝ごはんを作る道具を持ってきた。
こんな状況なのに、私はそれを背負ってきた。
でも今だからこそ、必要だ。
私は荷袋から小さな鉄鍋を取り出し、乾パンを割った。
干し肉を少し削り、水を入れる。
火がない。
ここは山だ。薪を探す余裕もない。
私は竜を見上げた。
「……火、出せる?」
無茶なお願いだと思った。
でも言った。
竜は少しだけ黙る。
その沈黙が怖い。
次の瞬間、鼻先を鍋へ向けた。
ふっ、と短い息。
炎は出ない。火花も出ない。
でも空気が一瞬熱を帯びて、鍋がじんと温まる。
「……え」
もう一度。
竜が短く息を吐く。
鍋の底から、ぷつ、ぷつ、と音がした。
湯気が立った。
私は、笑ってしまった。
涙のまま、笑った。
「……朝ごはん、作れる」
竜は何も言わない。
でも、その目が少しだけ柔らかく見えた。
気のせいかもしれない。
それでも今は、その気のせいに救われた。
スープが煮える。
干し肉の匂いが立ち、乾パンが少し柔らかくなる。
私は木の匙で混ぜ、父の口元へ運んだ。
「食べられる? 熱いから、ゆっくりね」
父は小さく頷き、一口飲んだ。
喉が動く。
「……あったかい……」
その一言で、私はまた泣いた。
父が“温かい”と言えるなら、戻れる。
戻れる朝がある。
私は無意識に、竜にも匙を向けた。
「……食べる?」
言ってから、慌てて引っ込めそうになる。
竜は人の食べ物を食べないかもしれない。口も大きすぎる。
でも竜は鼻先を鍋に近づけ、匂いを吸った。
それだけで満足したみたいに、瞼が少し落ちる。
父が小さく笑う。
「……変な、朝ごはんだな……」
「最高だよ」
私は泣き笑いで言った。
「竜の背中で作ったんだから。忘れない」
竜が低く短く鳴いた。
怒鳴り声じゃない。
遠くで雷が鳴るみたいな音なのに、怖くない。
返事みたいだった。
⸻
父を運ぶために、竜はまた背中を差し出した。
私は父の肩を支え、竜の背へ導く。
竜は揺れないように動かない。
人を乗せることに慣れているわけじゃないはずなのに、気を使っているのが分かった。
父に毛布を巻きつけると、竜が短く息を吐く。
あたたかい風が毛布の中へ入り、父の頬が少し赤くなった。
「……すごい」
私は呟いた。
竜は黙っている。
黙っているのに、優しい。
私たちは竜の背で村へ戻った。
上空から見える村は小さく、灯りがぽつぽつ浮かんでいる。
あの灯りを守りたかった。
そのために走った。
竜が村の外れに降りると、村人たちが悲鳴を上げた。
「竜だ!」
「来たぞ!」
「逃げろ!」
槍を持って出てくる者もいる。
足が震えているのに、槍だけが前に出ている。
私は背の上で立ち上がり、大声を出した。
「待って! 違う! 父さんを助けてくれた!」
声が裏返った。
それでも叫んだ。
父の姿が見えたから、村人の動きが止まる。
「……宿の主人……!」
「生きてるのか……?」
私は父を支えながら降りた。
父は弱いが、目は開いている。
「……竜は、俺たちを襲わん……」
掠れた声が、村の空気を少し動かした。
信じたい。
でも怖い。
その揺れの中で、竜はじっとしていた。
家が壊れない距離を保ち、翼を畳み、尾を地面に置く。
私は竜の足元へ歩いた。
近い。大きい。影が落ちて、自分が小さくなる。
怖さはある。
でも、それ以上に感謝がある。
私は鱗に手を置いた。
あたたかい。
朝の鍋と同じ温度だ。
「……ありがとう」
私は言った。
「怖かった。ほんとに怖かった。
でも助けてくれて、ありがとう」
竜は私を見た。灰色の光がゆっくり揺れる。
それから鼻先を少しだけ下げた。
頭を下げたように見えた。
私は今度は泣かずに笑った。
竜は翼を広げ、風を巻き上げた。
村人が一斉に身をかがめる。
でも竜は誰も踏まない。誰も傷つけない。
竜は空へ上がり、灰の峰の方へ消えていった。
私はその背中を見送った。
背中は怖いはずなのに、あたたかかった。
⸻
翌朝。
宿の台所で、私は久しぶりに粉を出した。
父は寝床で休んでいる。まだ無理はできない。
でも目はしっかりしていた。
「……ナギ。朝は、作れるか」
「作れるよ。作りたい」
作りたい。
その言葉を久しぶりに使った気がする。
鍋を温めようとしたとき、昨日のことが頭をよぎる。
竜の息で沸いた湯気。背中の温度。
そのとき、宿の外からふわりとあたたかい風が入った。
焦げない熱。
優しい熱。
私は戸を開けて外を見た。
誰もいない。空だけが広い。
でも宿の前の地面が少しだけ乾いていた。
雪がそこだけ薄い。
まるで短い火が、ここに置かれていったみたいだった。
「……置いていったんだ」
私は小さく呟いた。
朝ごはんのための熱を。
私は笑って、パンを焼く準備をした。
今日は粥だけじゃない。パンも出せる。
焼ける匂いがしたら、きっとユイが走ってくる。
村の子どもが集まる。大人の肩も少し落ちる。
私は粉を捏ねながら思った。
竜は怖い。
怖いのは消えない。
でも、怖いものが全部、敵じゃないことを私は知った。
怖い顔をして、いちばん優しい存在がいる。
その優しさは大声じゃない。
ただ、あたたかい。
湯気が立つ。
朝が始まる。
私は今日も、朝ごはんを作る。
竜の背中で覚えた温度を、忘れないまま。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
このお話で描きたかったのは、「怖いもの=敵」と決めつけないでいい夜があること
そして、“温かい朝ごはん”が人を立て直す力になることです。
竜は本来、恐怖の象徴みたいな存在です。
けれど今回は、炎で焼き尽くすのではなく、
焦げない温度で、誰かを生かす竜を書きました。
ナギが持っていたのは“強い剣”でも“特別な魔法”でもなく、ただ、台所で毎日守ってきた火と鍋。
それが山の上で役に立つ瞬間を、いちばん大切にしています。




