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竜の背中で、あったかい朝ごはん ―怖いはずの相手が、いちばん優しかった―

作者: 星渡リン
掲載日:2026/01/26

 朝は、湯気から始まる。


 鍋のふちに小さな泡が並んで、ぷつ、ぷつ、と控えめに弾ける。

 木の匙でかき混ぜると、米が鍋底を撫でて、さらさらと音を立てた。


 私はその音を聞くと、少しだけ落ち着く。


 音は嘘をつかない。

 火は手を抜かない。

 だから台所は、世界でいちばん安心できる場所だった。


 昔は、ここにパンの匂いが混ざっていた。

 焼きたての香りで旅人が目を覚まして、「今日もいい朝だ」と笑った。


 でも今は、粥の匂いだけだ。


 粉が足りない。卵も少ない。

 街道が止まると、宿の台所はすぐに静かになる。


「……よし。今日も、あったかい」


 私は鍋を覗き込み、小さく頷いた。


 名前はナギ。辺境の宿屋の娘だ。

 宿といっても立派な看板があるわけじゃない。迷った旅人が、たまたま灯りを見つけて辿り着くような宿。


 それでも、この宿があるだけで村は少し安心していた。

 寒い夜に灯りがある。湯が沸く。朝が食べられる。


 そんな当たり前を、私は守りたかった。


 戸がきぃ、と鳴った。


「ナギ姉ちゃん! おはよ!」


 村の子ども、ユイが駆け込んでくる。髪は寝癖のまま、頬は赤い。寒い朝ほど元気だ。


「おはよう。手、冷たいでしょ。まず温めな」


 私は布を渡した。ユイは両手をこすり合わせて、にへっと笑う。


「今日の朝ごはん、なに?」


「粥だよ。塩、ちょっと入れた」


「やった! あったかいやつ!」


 その言い方だけで、胸が軽くなる。


 豪華じゃなくていい。

 朝ごはんは、今日を始める合図だ。

 あったかいだけで、人は少し前を向ける。


 そのとき、宿の奥から父の咳払いが聞こえた。


「ナギ」


 父は宿屋の主人で、最近眉間に皺が増えた。怒っているからじゃない。考えすぎて増える皺だ。


「今から仕入れに行く。戻りは昼過ぎになる」


「……また、街道の方まで?」


「倉が空だ。塩も薪も足りん」


 父は言い切ったが、その声に自信はなかった。


 街道の先は危ない。

 みんな知っている。


 竜が出る。


 灰の峰に竜が棲みついた。

 そんな噂が広がってから旅人は減った。商人も来ない。村へ続く道は、ゆっくり死んでいった。


 竜を見た者はいない。

 襲われた者もいない。


 それでも人は怖がる。

 怖さは、見えないほど大きくなる。


「父さん、一人で行くの?」


「若い連中は……怖がって動かん」


 父は帽子を被り直し、荷袋を背負った。


「心配するな。道は分かってる」


 それが一番心配な言い方だった。


「……昼までに戻らなかったら、迎えに行くから」


 私が言うと、父は一瞬だけ目を細くして笑った。


「迎えに行くな。宿を守れ」


「宿を守るために、父さんが必要なんだよ」


 父は何も言わなかった。

 言えないのだと思う。


 守るために無理をしている。

 お互い分かっているから。


 父が出ていく。戸が閉まる。

 風の音だけが残る。


 私は鍋の蓋を少しずらして、湯気を逃がした。

 湯気は白くて、あたたかくて、優しい。けれど外へ出ればすぐ消える。


 消えないものが欲しかった。

 守れる確かなものが。


 その日の昼。

 父は戻らなかった。


 昼の鐘が鳴る。

 村の見張りが鳴らす、小さな鐘だ。

 鳴っても父の姿は見えない。


 私は宿の入口に立って、街道の方を見つめた。

 雪雲が低く垂れ、山の影が濃い。


 嫌な静けさだ。


 ユイが柱の陰から顔を出す。


「ナギ姉ちゃん……おじさん、まだ?」


「うん。もうすぐ戻るよ」


 私は笑って言った。

 笑うのは、信じるためだ。信じないと足が止まってしまう。


 夕方になっても戻らない。

 村の大人たちが集まり、低い声で話し始めた。


「雪が強くなる前に引き返してるはずだ」


「崖の方で足を滑らせたんじゃ……」


「……竜のせいだろ」


 竜、という言葉が出ると、空気が冷える。


 村長が手を振った。


「やめろ。見た者はいない」


「でも、近いんだ。灰の峰から熱い風が来る」


「夜に影を見たって……」


 噂は噂を食べて大きくなる。

 その大きさで、人の足が縛られる。


「迎えに行く」


 私は言った。


 大人たちの視線が集まる。驚きと、止めたい気持ちが混ざった目。


「娘が行ってどうする」


「道を知ってるのは男だ」


「竜が出たら……」


 私は息を吸った。

 胸の奥が熱い。焦りの熱だ。怖さの熱だ。


「父さんが帰らないと、宿が終わる」


 声が少し震えた。


「……終わるだけじゃない。父さんを、戻ってこない人にしたくない」


 場が静かになる。

 静かになると、怖さが濃くなる。

 怖さが濃くなると、人は動けない。


 だから私は、動いた。


 荷袋を背負う。毛布を巻く。

 火打ち石、小さな鍋、乾パンを詰める。


 台所で使っていた小さな鉄鍋。焦げつきにくくて軽い。

 父が昔、私にくれた鍋だ。


「ナギ、やめろ」


 村長が言う。


「危険だ」


「危険でも行く」


 震えは、少しだけ消えていた。

 震えても進むと決めたからだ。


 宿の戸を開ける。

 冷たい風が頬を打つ。雪の匂いがする。


 街道へ一歩踏み出した瞬間、白い小さなものが道端に降りた。


 白い小鳥。


 朝に見たのと同じ色。

 同じ目の感じ。


 小鳥は、ぴ、と鳴いて歩き出した。


 飛ばない。歩く。

 まるで「ついておいで」と言うみたいに。


「……案内してくれるの?」


 小鳥は振り返らず、霧の方へ進む。

 霧は谷に溜まり、道を曖昧にしていた。


 私は迷った。

 でも迷う時間が惜しい。


 私は小鳥の後を追った。


 街道を進むほど、村の匂いが薄れていく。

 土と雪の匂いが増え、音が減り、足音だけが残る。


 怖い。

 でも走った。


 父のことを考えると胸が痛い。

 痛いままでも、足は止まらない。


 谷を抜け、灰の峰へ向かう道に入ると、空気が変わった。


 あたたかい。


 熱いわけじゃない。

 冬の冷たさの中に、ふっと息が混ざる感じ。


 村で噂されていた“熱い風”。


「……竜の息……」


 言葉にすると喉が乾く。

 怖さが形になる。


 小鳥はそれでも進む。

 私はその白を見失わないように歩いた。


 しばらくすると、雪の上に足跡があった。


 大きい。

 人の足跡ではない。荷車でもない。

 丸くて、爪の跡がある。


 私は息を止めた。


 竜の足跡だ。


 怖さが背中を這い上がってくる。

 でも同時に、妙な安心もあった。


 竜がいる場所なら獣は寄らない。

 そういう話を、昔聞いたことがある。


 足跡は崖の方へ続いていた。

 小鳥も同じ方向へ向かう。


 私は歩幅を狭め、足音を小さくした。

 意味がないかもしれない。

 でも、心の準備をするための小さな儀式だ。


 崖の陰に入った瞬間、空気が変わった。


 石が温まっている。

 雪が薄く溶け、地面が見えている。


 そして。


 いた。


 黒い影が、そこにいた。


 大きすぎる。

 空の一部みたいだ。

 翼を畳んでも岩山のように見える。


 竜。


 膝が震えた。


 逃げたい。

 でも逃げたら、父が消える。


 私は喉の奥で息を吸って、声を出した。


「……父さんを、探しています」


 小さな声だった。

 でも言った。


 竜の頭がゆっくり動く。

 目が開いた。


 赤でも金でもない。

 灰色の光が宿っている。


 見られただけで心臓が跳ねる。


 竜は、怒っている顔をしていなかった。

 というより、表情が読めない。

 ただ、そこにいる。


 私は一歩だけ前へ出た。


「……お願い。村の人が、戻らないんです」


 竜が鼻から息を吐いた。


 ごう、と音がした。

 熱い風が髪を揺らす。


 でも痛くない。焼けない。

 ただ、あたたかい。


 私は目を見開いた。


 竜は私を吹き飛ばさなかった。

 噂のように、殺しに来なかった。


 小鳥が私の肩にちょこんと乗る。ぴ、と鳴いた。


 竜の目が小鳥を見る。

 それから私を見る。


 そして竜は、ゆっくり身体を起こした。


 地面が震え、岩が転がる。

 私は踏ん張った。


 竜は私に背中を向けた。


 ……背中?


 黒い鱗が連なり、骨の筋が盛り上がっている。

 その背中が、目の前に差し出されていた。


「……乗れってこと?」


 私は信じられずに呟いた。


 竜は返事をしない。

 返事の代わりに尾がゆるく動く。急かすみたいに。


 私は荷袋の紐を締め直した。

 足は震えている。

 でも、ここで止まれば父の時間がなくなる。


 私は岩をよじ登り、竜の背に手をかけた。


 あたたかい。


 硬いのに、掌がじんと温まる。

 冬の朝、鍋を抱えたときの温度だ。


 私は息を吐いて、背へ這い上がった。

 鱗の間に指をかける。滑らない。

 想像よりずっと“乗れる”形をしている。


 竜は、私が落ち着くのを待った。

 待ってから翼を広げた。


 風が巻き、世界が下がる。

 胃が浮く。


 でも背中があたたかいから、怖さが少し薄れる。


 竜は空へ上がった。


 村が小さくなる。森が線になる。谷が浅く見える。

 私は背にしがみつきながら、唇を噛んだ。


「……ほんとに飛ぶんだ」


 当たり前なのに、泣きそうになった。

 こんなにも大きな命が、ちゃんと空を飛ぶ。


 竜はゆっくり飛んだ。

 急がない。乱暴じゃない。

 私が落ちない速度で、風を切る。


 その優しさが胸に刺さった。


 怖いはずの相手が、私に気を使っている。

 その事実が、どうしてこんなに痛いんだろう。


 しばらく飛ぶと、竜は山肌のくぼみに降りた。

 雪が吹き飛び、土が見える場所。


 そこに、人がいた。


「……父さん!」


 父が倒れていた。

 足が雪に埋まり、肩が岩にもたれている。

 顔色は悪い。でも息はある。


 私は背から滑り降りて、父の頬に触れた。


 冷たい。

 でも、生きている冷たさだ。


「父さん、ねえ、起きて……!」


 父の瞼が少し動く。

 薄く開く。


「……ナギ……?」


 声が出た。

 それだけで胸が崩れた。


「よかった……!」


 涙が止まらない。

 止めなくていい気がした。


 父は苦しそうに笑って言った。


「……来るなって、言っただろ……」


「言われたけど、行くよ……!」


 父は目を動かし、竜に気づいて顔を強張らせる。


「……竜……」


 私は慌てて首を振った。


「違う。助けてくれたの」


 父は信じられない目をした。

 信じられないのが普通だ。


 竜は父を見下ろしている。

 目は大きくて怖い。


 でも、近づいて噛みつく気配はない。

 鼻先を少し動かして、父の呼吸を確かめるみたいに。


 それから私の荷袋を見る。

 ……鍋を見た。


 私はそこで、ふっと気づいた。


 朝ごはんを作る道具を持ってきた。

 こんな状況なのに、私はそれを背負ってきた。


 でも今だからこそ、必要だ。


 私は荷袋から小さな鉄鍋を取り出し、乾パンを割った。

 干し肉を少し削り、水を入れる。


 火がない。

 ここは山だ。薪を探す余裕もない。


 私は竜を見上げた。


「……火、出せる?」


 無茶なお願いだと思った。

 でも言った。


 竜は少しだけ黙る。

 その沈黙が怖い。


 次の瞬間、鼻先を鍋へ向けた。


 ふっ、と短い息。


 炎は出ない。火花も出ない。

 でも空気が一瞬熱を帯びて、鍋がじんと温まる。


「……え」


 もう一度。

 竜が短く息を吐く。


 鍋の底から、ぷつ、ぷつ、と音がした。

 湯気が立った。


 私は、笑ってしまった。

 涙のまま、笑った。


「……朝ごはん、作れる」


 竜は何も言わない。

 でも、その目が少しだけ柔らかく見えた。


 気のせいかもしれない。

 それでも今は、その気のせいに救われた。


 スープが煮える。

 干し肉の匂いが立ち、乾パンが少し柔らかくなる。


 私は木の匙で混ぜ、父の口元へ運んだ。


「食べられる? 熱いから、ゆっくりね」


 父は小さく頷き、一口飲んだ。

 喉が動く。


「……あったかい……」


 その一言で、私はまた泣いた。


 父が“温かい”と言えるなら、戻れる。

 戻れる朝がある。


 私は無意識に、竜にも匙を向けた。


「……食べる?」


 言ってから、慌てて引っ込めそうになる。

 竜は人の食べ物を食べないかもしれない。口も大きすぎる。


 でも竜は鼻先を鍋に近づけ、匂いを吸った。

 それだけで満足したみたいに、瞼が少し落ちる。


 父が小さく笑う。


「……変な、朝ごはんだな……」


「最高だよ」


 私は泣き笑いで言った。


「竜の背中で作ったんだから。忘れない」


 竜が低く短く鳴いた。


 怒鳴り声じゃない。

 遠くで雷が鳴るみたいな音なのに、怖くない。


 返事みたいだった。



 父を運ぶために、竜はまた背中を差し出した。


 私は父の肩を支え、竜の背へ導く。

 竜は揺れないように動かない。


 人を乗せることに慣れているわけじゃないはずなのに、気を使っているのが分かった。


 父に毛布を巻きつけると、竜が短く息を吐く。

 あたたかい風が毛布の中へ入り、父の頬が少し赤くなった。


「……すごい」


 私は呟いた。


 竜は黙っている。

 黙っているのに、優しい。


 私たちは竜の背で村へ戻った。


 上空から見える村は小さく、灯りがぽつぽつ浮かんでいる。

 あの灯りを守りたかった。

 そのために走った。


 竜が村の外れに降りると、村人たちが悲鳴を上げた。


「竜だ!」


「来たぞ!」


「逃げろ!」


 槍を持って出てくる者もいる。

 足が震えているのに、槍だけが前に出ている。


 私は背の上で立ち上がり、大声を出した。


「待って! 違う! 父さんを助けてくれた!」


 声が裏返った。

 それでも叫んだ。


 父の姿が見えたから、村人の動きが止まる。


「……宿の主人……!」


「生きてるのか……?」


 私は父を支えながら降りた。

 父は弱いが、目は開いている。


「……竜は、俺たちを襲わん……」


 掠れた声が、村の空気を少し動かした。


 信じたい。

 でも怖い。


 その揺れの中で、竜はじっとしていた。

 家が壊れない距離を保ち、翼を畳み、尾を地面に置く。


 私は竜の足元へ歩いた。

 近い。大きい。影が落ちて、自分が小さくなる。


 怖さはある。

 でも、それ以上に感謝がある。


 私は鱗に手を置いた。


 あたたかい。

 朝の鍋と同じ温度だ。


「……ありがとう」


 私は言った。


「怖かった。ほんとに怖かった。

 でも助けてくれて、ありがとう」


 竜は私を見た。灰色の光がゆっくり揺れる。


 それから鼻先を少しだけ下げた。

 頭を下げたように見えた。


 私は今度は泣かずに笑った。


 竜は翼を広げ、風を巻き上げた。

 村人が一斉に身をかがめる。


 でも竜は誰も踏まない。誰も傷つけない。


 竜は空へ上がり、灰の峰の方へ消えていった。


 私はその背中を見送った。

 背中は怖いはずなのに、あたたかかった。



 翌朝。


 宿の台所で、私は久しぶりに粉を出した。

 父は寝床で休んでいる。まだ無理はできない。

 でも目はしっかりしていた。


「……ナギ。朝は、作れるか」


「作れるよ。作りたい」


 作りたい。

 その言葉を久しぶりに使った気がする。


 鍋を温めようとしたとき、昨日のことが頭をよぎる。

 竜の息で沸いた湯気。背中の温度。


 そのとき、宿の外からふわりとあたたかい風が入った。


 焦げない熱。

 優しい熱。


 私は戸を開けて外を見た。


 誰もいない。空だけが広い。

 でも宿の前の地面が少しだけ乾いていた。

 雪がそこだけ薄い。


 まるで短い火が、ここに置かれていったみたいだった。


「……置いていったんだ」


 私は小さく呟いた。


 朝ごはんのための熱を。


 私は笑って、パンを焼く準備をした。

 今日は粥だけじゃない。パンも出せる。


 焼ける匂いがしたら、きっとユイが走ってくる。

 村の子どもが集まる。大人の肩も少し落ちる。


 私は粉を捏ねながら思った。


 竜は怖い。

 怖いのは消えない。


 でも、怖いものが全部、敵じゃないことを私は知った。


 怖い顔をして、いちばん優しい存在がいる。

 その優しさは大声じゃない。


 ただ、あたたかい。


 湯気が立つ。

 朝が始まる。


 私は今日も、朝ごはんを作る。

 竜の背中で覚えた温度を、忘れないまま。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


このお話で描きたかったのは、「怖いもの=敵」と決めつけないでいい夜があること

そして、“温かい朝ごはん”が人を立て直す力になることです。


竜は本来、恐怖の象徴みたいな存在です。

けれど今回は、炎で焼き尽くすのではなく、

焦げない温度で、誰かを生かす竜を書きました。


ナギが持っていたのは“強い剣”でも“特別な魔法”でもなく、ただ、台所で毎日守ってきた火と鍋。

それが山の上で役に立つ瞬間を、いちばん大切にしています。

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