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相棒  作者: 蒼龍 葵
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第4話 静かな崩壊

4.静かな崩壊



「お疲れさん。矢木は帰ったか?」

「お疲れ様です、科長。はい、矢木くんは朝からずっと微熱で無理して出勤してもらっていたので先ほどあがりました」


 坂野師長の言葉に俺は漸く安堵した。オペ室で真弥から矢木の体調不良について聞かされた時、俺は何もしてやれなかった。急変だから仕方がないとは言え、ベテランの看護師が不在でCABGを頼めない。無理をさせてこのまま体調が悪くなったら……と思うと。


「あ、科長。401の如月さんがお呼びです」


 指示を確認していると夜勤看護師から呼び出しを受けた。雅臣は少し落ち着いたのだろうか。オペの間も特に何もいわれなかったし、あいつのレントゲンはやはり肺が膨らんでいない状態で、管は5センチ調整してリークが戻ったので経過をみている。

 呼び出しと言うことは、あまりいい話では無さそうだ。


 如月雅臣は帰国子女で見た目に反して相当口が悪く素行も最悪だった。上級生にも平然と牙を剥くし何度も警察沙汰になっている。そんなあいつを改善したのは真弥だった。

 俺と真弥、そして雅臣は高校時代からの親友で今も都合が合えば酒を酌み交わす。真弥はまさか同じ職場で働くことになるとは想像もしていなかったけれども、お陰で俺はオペと外来、病棟の疲れを天使の笑顔に癒されている。


「おーい、雅臣また肺が潰れたのか?」

「……失礼な医者だな。お前に打たれた注射が痛いんだよ」

「まあまあ、あんだけ大暴れしたら深く入っても仕方がないだろう」


 雅臣は何度も気胸を繰り返している。これは腕が云々ではなく、根本的に肺が破れやすいのと、こいつが極度のチェーンスモーカーであること、そして仕事で無理をすると定期的にここに入院してくる。


「そんで、俺を呼び出した要件は?」

「あの看護師はもう帰ったのか?」

「は?」


 看護師と端的に言われても日勤と夜勤、それに今日は確か他の病棟からのヘルプもいたから誰のことかさっぱり分からない。


「お前……学校でがきんちょしか相手してないからって、こんな所でうちの看護師口説くなよ?」

「そんな趣味はない。あの体調の悪そうな看護師のことだよ」


 体調の悪そうな、と言われて漸くピンときた。雅臣ですら矢木の体調不良に気づいていたというのに、知らなかったのは俺だけか。


「ああ、矢木のことか? さっき帰ったらしい。今日は急変もあったからあいつに無理して出勤してもらってたからな」

「真弥から俺の所に連絡があった。お前、彼の家がわかるなら見舞いに行ってやれ」

「いや、あいつのとこには嫁がいるから大丈夫だろ」


 矢木はもうじき彩香と結婚を控えている。奥手で大人しくて自己主張の少ない矢木が看護学科のマドンナに手を出したんだからすごい進歩だと思う。──まあ、そんなマドンナは金目的で最初俺に近づいてきたなんて言えないけど。

 俺の返答が気に入らなかったのか、雅臣は形の良い眉を吊り上げて盛大なため息をついた。


「嫁がいるのにあんな状態で仕事に来るだろうか?」

「……何が言いたい」

「いや、お前がそれでいいなら構わないけど、手遅れになる前に動けよ」


 俺だって矢木のことが心配だ。けど、俺にとって元カノがいる家、──しかもこれから結婚を控えている新築の愛の巣だ。例え友人とは言え、このタイミングで行くのは微妙過ぎる。

 まして矢木はしっかり者で自分の体調管理は万全。学校でも一日たりとも休んだことはない。今までずっと仕事もプライベートも真面目を背負って生きているような男だ。

 だから大丈夫だろうとたかを括っていたのだが──


「なんか、占い師みたいな言い方で気になるな……」


 残ったカルテを早急に片付け、俺は雅臣の不吉な話に猛烈な胸騒ぎを感じ、一度マンションに戻ってからすぐに矢木の家へと車を走らせた。








「つ、かれた……」


 明日休みにしてもらったとは言え、マンションについた時は満身創痍だった。足はピクリともうごかず、解熱剤を乱用したのにまた熱も上がっているのか身体がとにかく熱い。おまけに頭もぼんやりしていた。

 とは言え、また笠原がここに来たら大変なので俺は気力を振り絞って鍵だけかけて玄関の壁に背中を預けた。


「最悪だ……何もかも」


 多分、彩香が俺のところから出て行ったことが相当ショックなのだろう。まして笠原と二股をかけていたことや、これからのイベントを全部キャンセルした後のこと。透析治療を受けている母に結婚の話は無くなったなんて言い出せない。

 父親が事故で他界してから母は女手ひとつで俺と妹をここまで育ててくれた。既に結婚して実家から出て行った妹が孫の顔を見せているから母は俺が独身貴族でいようが困らないとは思う。でも、彩香を家に連れて行った時のあの嬉しそうな顔を思い出すと辛い。


「はあ……母さんに正直に話さないと……」


 いつまでもここで大切な話を隠し通すのは無理だし、直前になればなるほど傷が深くなる。もしかしたら……なんて一縷の望みに賭けてみたものの、俺の電話は彩香に着信拒否をされており、何もかも通じなくなっていた。笠原とは大学の同僚だったし、あいつとは連絡がつくものの「まだ彩香に未練があるのか」なんて言われたら腹が立つ以外何もない。

 眸を閉じて動くための体力を回復していると、突然インターフォンが連打された。こんな時間にふざけんなと無視していると小声でドアの先から片倉の声が聞こえてきた。


「矢木、生きてるか? 動けるならドアだけ開けて欲しい」

「かた、くら……」


 こいつの家は俺と正反対に位置している。車でも一時間以上かかる距離だ。なのに、こいつは疲れるオペの後、わざわざ俺のマンションを訪ねてくれたというのか。


「いま、開ける……」


 膝立ちのまま俺は何とかドアの鍵を外したが、そこで完全に力尽きた。遠くで片倉が俺の頬を叩いていたが、何もかも疲れ切っていた。どうせなら、このまま眠るように死ねたらいいのに、なんて虚しい気持ちまで過ぎる。

 彩香と結婚して、子どもを育てて、笑顔の絶えない家庭──その望みは、俺にとってとんでもなく遠い希望だったのだろうか。

 捨てられてローンだけ残された家に、結婚関連の莫大なキャンセル料金に、大学時代からの友人まで失った。これから先、きっと噂に尾鰭も背鰭もついて俺は結婚前に女に逃げられた可哀想な男というレッテルを貼られるのだろう。

 せめて、片倉にだけは俺の口から真実を伝えないと。そうだよ、今日こいつにこの話をしようと思って昨日電話したのに、神野さんが電話に出たから結局出来なくて──。


「おい、矢木!」

「……うるせーよ。お前声でかいから近所迷惑。ちょっと疲れただけだから、要件だけ言って」

「お前、彩香と別れたのか?」


 こちらから真実を告げるつもりだったのに、まさか片倉から言われるなんて。きっと情報の発信源は笠原だろう。あいつは尻も口も軽過ぎる。


「別れたんじゃなくて、捨てられたんだよ」

「……」


 流石の片倉も黙り込んだ。俺の話を聞くつもりなのだろう。


「情けないよな。有頂天であいつとの結婚を喜んでいたのに。あいつさ、笠原とずっと付き合ってたんだって。俺はただの金鶴候補のひとりで、でも母さんの治療で殆どお金は実家に送って手元に置いてないから、笠原ん所戻ったんだろうな」

「……」

「35年のマンションローンに、100万以上のキャンセル料金。夜勤やりたくても日勤で出てくれって削られるし、もう何が楽しくて仕事してんだか」


 自分で吐露した後の乾いた笑いに俺は喉から込み上げる虚しさを飲み込んだ。こいつの前で泣いたってしょうがないし、惨めだ。


「矢木、泣きたい時は泣いた方がいいぞ。溜め込むのは身体に良くない」

「野郎の前で泣けるかよ。そんな用事なら、もう帰れよ……お前は明日も仕事だろ。ここ、遠いんだから」

「そんな状態の矢木を置いて帰れない」


 こいつは一体何を言っているんだろう。ここは俺のマンションだ。別に熱以外の症状があるわけでもなし、ほっといてくれたらいいのに。


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