第32話 相棒
朝ごはんを片付け、子ども達の点滴をつなぎ終えると、病棟はようやく落ち着きを取り戻した。
医療センターの胸部外科医は少ない。
だから智幸は基本医療センターに勤務し、休みになる土日だけ実家の医院を手伝っている。
「直己。帰るぞ」
申し送りを終えた智幸に声をかけられ、俺は車の助手席に乗り込んだ。
一方の俺も、ようやくマンションを売る決断に至った。
近場でアパートを借りるつもりだったのだが──その話を智幸にした途端、
『なんでだよ。うちに来いよ。家賃もったいねえだろ』
と軽く言われ、さらに智幸の両親までが、
『直己くん、そんなの気にしなくていいのよ! どうせなら智ちゃんと一緒に住んだ方が寂しくないじゃない!』
とノリノリで背中を押してきた結果、気づけば俺のマンションの荷物はすべて智幸の部屋へと運ばれていた。
──いや、ほんとに気づけば、だった。
「ただいまっと……」
夜勤明けの身体を引きずりながら玄関をくぐると、ちょうど智幸のPHSが鳴った。
「……はい、片倉です」
智幸は靴も脱ぎきらないまま、医療センターからの電話に応対しつつリビングの手前で立ち止まった。
その横をすり抜けて、俺はいつものようにキッチンへ向かう。
コーヒー豆の袋を開けると、ふわっと香ばしい香りが広がった。
お湯が沸く音を聞きながら、挽きたてのコーヒーをマグカップ二つ分注ぎ、ソファに腰を下ろす。
「──智幸、いきなり押しかけてごめんな」
「あーあ、また気にしてる。いいか、直己」
わざと大きくため息をついた智幸は、俺の真横にどすんと座った。
「男同士とか、迷惑かけるとか、マンションの件で俺が嫌な思いしてないかとか──全部気にしてんだろ」
うっ……図星すぎて、言葉が出ない。
俺はただ、俯くしかなかった。
「直己。お前が不器用なの、俺は知ってるよ」
その声は責めるでも呆れるでもなく、ただ分かってると言うように優しかった。
「だからさ、お前が抱えてる不安も弱さも、全部ひっくるめて俺が面倒みてやるよ」
「……っ、やめろよ。俺は……自分のことくらい、自分でできる」
反射的に拒否した。
情けないと思われたくなかった。
弱いところを見せたら、嫌われる気がした。
でも智幸は、ゆっくり首を横に振った。
「分かってるよ。直己は自分で立てるやつだって」
そう言いながら、俺の手を取り指を絡めてくる。
「それでも俺は、一緒にいたいんだよ」
「……智幸……」
「俺は、直己がいいんだ」
まっすぐで、迷いがなくて、逃げ場のない告白だった。
胸がぎゅっと締めつけられて、息がうまく吸えない。
その瞬間、ふっと胸の奥に昔の記憶が浮かんだ。
──俺は、母さんに楽をさせたかった。
透析を受ける母さんを支えられる知識が欲しかった。
不安な時にそばにいて、力になれるようになりたかった。
だから看護師になった。
彩香のためでも、誰かに認められるためでもない。
そして──
智幸の両親は、俺を“矢木直己”として受け入れてくれた。
性別も、学歴も、家庭環境も関係なく。
そのことが、どれほど嬉しかったか。
応えたいけれど、俺は智幸にまだ明確な返事をしていない。
親友が闇金に手を出したせいで近づいたと思われたくなかった。
彩香が、最低な親友とグルになって、智幸の親友である神野さんを東龍会に引き渡そうとした──その事実も、ただただ恥ずかしかった。
軽率な行動で誰かを傷つけたことも、自分が受けた傷も、まだ全部整理できていなかった。
きっとこれからも揺れるだろう。
弱いところを見せて、智幸に縋ることもあるだろう。
それでも。
それでも俺は、こいつの隣に“友人以上”として立ちたい。
そのために片倉医院へ転職した。
智幸のそばで、一番近くで支えたかった。
「俺、これからもお前と一緒に仕事がしたい」
言葉にした瞬間、胸のつかえがすっと消えた。
智幸は嬉しそうに微笑み、ゆっくり俺の手を握り、指を絡めた。
「俺はさ、お前のそういう真っ直ぐなところが好きなんだ」
その声は、いつもより少し低くて、胸の奥にじんわり染みていく。
「彩香に捨てられたって聞いた時、俺はチャンスだと思ったんだよ。俺が、傷ついた直己の心の隙間を埋めようって」
「そ、それは……」
俺はあの時、ただがむしゃらに働いて、彩香のことを吹っ切ろうとしていただけだ。
前を向くことでしか、自分を保てなかった。
「なのに、お前はどんどん一人で前を向いて歩く。
俺なんか必要ないって、背中で風を切ってさ」
「そんなつもりじゃ……」
言いかけた俺の言葉を、智幸は静かに遮った。
「そんな時だよ。お前がさ、俺に泣きながら“母さんを助けてくれ”って言ってきたの」
あの夜の記憶が胸に蘇る。
必死で、情けなくて、でも──智幸しか頼れなかった。
「……あの時は、智幸しか頭に浮かばなかったんだよ」
「だろうな。あれで俺、初めて直己に心の底から頼られた気がして、嬉しかった」
智幸の声が、少しだけ震えていた。
「そんでさ、嬉しすぎて、オペの後にお前の母さんに言ったんだよ。彩香と別れて傷ついてる直己のこと、心配してたからさ」
「……な、なにを言ったんだよ」
嫌な予感しかしない。
智幸は、まるで当然のことを言うように続けた。
「直己は俺が幸せにするから、お母さんは心配しないでくださいって。彩香は結婚詐欺師だ。直己の借金も一緒に返済していくから……ってな」
「……は?」
頭が真っ白になった。
あの時、母さんが何か言いたそうにしていた理由が、ようやく理解できた。
シャント作り直しで体調最悪だった母さんに、こいつはそんな爆弾を落としていたのか。
俺は思わず額を押さえた。
「お前、ほんと……とんでもないことを……」
「おう。俺は本気だからな」
智幸は照れもせず、ただまっすぐに俺を見ていた。その視線に、胸がまた熱くなる。
「……っ、またそういうこと言う……」
顔が熱くなる俺を見て、智幸は楽しそうに目を細めた。
そして、額にそっとキスを落とす。
「肩並べて歩くのは、これからもずっとだ。それだけは変わらねえよ、直己」
智幸がそっと手を伸ばし、俺の頬に触れた。
その指先が、まるで「もう逃がさない」と言っているようで、胸が跳ねる。
「直己」
「……な、なんだよ」
「そんな顔すんなよ。……我慢できなくなる」
「お、俺のせいじゃ……」
言い返そうとしたのに、声が震えてしまう。
智幸は、少しだけ目を細めて笑った。
「そろそろ、俺を好きになれそう?」
「……お、俺は……」
声にならない声が喉で震えた。
それでも智幸は驚くでもなく、ただ優しく笑った。
気づけば俺は、そっと智幸の背中に腕を回していた。抱き寄せるように、確かめるように。
「なお……」
その瞬間、智幸の表情がふっと緩む。
嬉しさを隠しきれない獣みたいな笑みを浮かべて、俺をソファーベッドへと静かに押し倒した。
拒む理由なんて、もうどこにもなかった。
唇が近づくたびに、心臓が跳ねる。
友人でも、親友でも、ただの同居人でもない。
──まだ名前のつかない関係。
でも、確かに二人で進んだ夜だった。
◇
「おはようございます」
休み明けの朝。
出勤すると、子ども達が一斉に俺を取り囲んだ。
「なおきー! なんか、色気があるんだけど」
「へ?」
祐也くんの言葉に、俺は慌てて鏡を覗き込んだ。
……あいつ、あれほどマーキングすんなって言ったのに、全然聞いてねえ……!
首筋には、どう見ても“それ”と分かる赤いあざ。
「なおき、また智幸先生にやられたんだ」
「ち、違う……こ、これは……」
「あー! ゆーやずるいよ。なおきはみんなのだー!!」
「ちょ、ちょっと待て! お前らまず勉強だろ! 俺に構うな!」
俺が真っ赤になっていると、ちょうど今日も実家を手伝う予定の智幸が宿直室に入ってきた。
「おはよ──って、なんだこの騒ぎ」
「智幸先生! なおきになにしたんだよー!」
「ずるいー!」
「俺もマーキングするー!」
「おいおいおい!! やめろ!!」
俺が頭を抱える横で、智幸は腕を組み、満足げに笑っていた。
「……ほんと、直己は人気者だな」
「お前のせいだろ!!」
子ども達の笑い声が響く病棟で、俺と智幸は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
「そろそろ医療センターの方で病室開けてくれるらしいから、美玖のオペ出来そうだぞ」
難治性の病気を抱える美玖ちゃんは、これまで何度も病院をたらい回しにされてきた。
まだ八歳の彼女が、慣れない場所を転々とし、両親もなかなか来られない状況で、どれほど不安だったか。
「嬉しそうだな、直己」
「そりゃあ、一人でも早くオペできた方が学校に戻れますからね」
「そんときは、お前が器械出し手伝えよ。真弥にもそう言ってある。美玖も直己がいた方が安心する」
背中をばしっと叩かれ、頼られることの喜びに口元が緩んだ。
ずっと、智幸の隣は遠いと思っていた。
でも今なら、こいつのそばで、こいつの仕事を支えられる。
片倉医院で預かる子ども達が、安心してオペに臨めるように。
その後のメンタルケアも、退院後のフォローも。
──俺がここに就職した理由は、まさにそこにある。
智幸と肩を並べて歩き出す。
その距離は、昨日より少しだけ近かった。
──これからも、一緒に。




