第21話 深まる溝
優奈が俺のマンションに泊まることが増えた。
最初は「終電を逃したから」「明日が早いから」と理由があったはずなのに、気づけば週の半分は彼女がいる。
そして、気がつくと──
洗面所に彼女の化粧水。
クローゼットの端に、彼女のワンピース。
玄関には、見覚えのないヒール。
まるで、少しずつ“生活”を侵食されていくようだった。
「ここに引っ越してくるつもりなのか?」と冗談めかして聞いた時、優奈はにこりと笑って、
「それは……少しずつ考えましょう?」
と、曖昧にかわした。
その笑顔が完璧すぎて、強すぎて──
俺は、否定するタイミングを失った。
流されている。分かっているのに、止められない。優奈は隙がなく、俺の“弱いところ”を正確に突いてくる。
病棟でも同じだった。気づけば、優奈はいつも俺の隣に立っている。許嫁という立場を、自然と周囲に“浸透”させるように。
「智幸さん、今日の回診は一緒に回りましょう」
その声に、看護師たちは微笑ましそうに視線を向ける。
まるで、俺たちが“そういう関係”であることが当然だと言わんばかりに。
だが──
俺の視線は、少し離れた場所にいる直己に向かっていた。
最近の直己は、どこか元気がない。
報告の声も小さく、笑顔も減った。
あの顔は、彩香に騙されて心身ともに限界だった時と同じだ。
俺から距離を置くと言った手前、あいつにこちらから話しかけるのは勇気がいる。
それでも……
何があったのか聞きたい、声をかけたい。
──なのに、優奈が常にそばにいるせいで、直己に近づく隙がない。
優奈の視線が、俺の行動をさりげなく制限しているように感じる。
そして──俺自身も、優奈の存在に“縛られている”と気づいてしまう。
直己の元気がない理由を知りたいのに。
あいつの声を聞きたいのに。
あいつの笑顔が見たいのに。
俺は、いつの間にか優奈の隣に立つことを選ばされている。
──どうして、こんなことになってるんだ。
胸の奥が、じわじわと痛む。
優奈の完璧な笑顔が近くにあるほど、直己の沈んだ横顔が遠ざかっていく。
その距離が、どうしようもなく苦しかった。
◇
「片倉科長、409号室の田中さんの件で──」
その瞬間、優奈が一歩前に出て、俺と直己の間にすっと立った。
「智幸さん、次のカンファレンスの資料、今確認していただけますか?」
直己の言葉を遮るような、あまりにも絶妙なタイミングだった。
「あん? それは後ででいいから──」
「いえ、今がいいんです。急ぎなので」
優奈は柔らかく微笑んでいるのに、声だけは有無を言わせない強さがあった。
直己は一瞬だけ戸惑った顔をして、手に持っていたメモを胸の前でぎゅっと握りしめた。
「……後でまた報告します」
「あ、おい──矢木!」
「急がない内容を逐一報告されても困りますよ。智幸さんは暇じゃないんですから」
優奈の言葉に、直己の肩がわずかに竦む。
その背中が、妙に小さく見えた。
胸がざわつく。
ざわつきが、次の瞬間には“痛み”に変わる。
──行くな。
そう言いたいのに、声が出ない。
追いかけようとした俺の腕を、優奈が軽く掴んだ。
「行きましょう、智幸さん」
その手は柔らかいのに、逃げられない力があった。いや──逃げられないのは、力のせいじゃない。
振りほどいたら、優奈は気づくだろう。
俺の視線が、心が、誰に向いているのか。
──優奈は気づいている。
俺が直己を気にしていることに。
そして、気づいた上で“遮っている”。
直己が振り返ることはなかった。
俺も、優奈の手を振りほどくことができなかった。
振りほどきたいのに。
追いかけたいのに。
声をかけたいのに。
──それをした瞬間、俺の気持ちが露見する。
露見したら最後、俺も直己も、この病棟で立っていられなくなる。
だから、優奈の手を振り払えない。
理性がそう言い聞かせる。
……なのに。
理性とは裏腹に、胸の奥ではずっと叫んでいた。
──直己を行かせたくない。
──あいつの背中を追いかけたい。
その二つの気持ちの間で、俺は立ち尽くすしかなかった。
◇
「矢木さん。あなた、報告が多すぎます」
「え……?」
リーダー机でカルテを捌いていると、突然真横から鋭い視線を向けられた。
振り返ると、三和先生が立っていた。
片倉は午後からオペに入っている。彼が好きなら勉強の為に一緒にオペに入ったらいいのに、彼女はなぜか、オペ室には絶対に行きたがらない。
「報告、ですか……」
「必要のないことまで逐一片倉科長に持ってくるのはやめてください。彼の仕事の効率が落ちます」
声は柔らかいのに、目だけがまったく笑っていない。
背筋がひやりとした。
「俺は……ただ、ちゃんと伝えたほうがいいと思って──」
「“あなたの判断”はいりません」
ぴしゃりと切り捨てられる。
「片倉科長は忙しいんです。あなたみたいに暇じゃないんですから」
暇──?
胸の奥がぐらりと揺れた。
とんでもない言いがかりだ。
何も知らないくせに。俺たちがどれだけ走り回って、どれだけ患者を見て、どれだけ命を預かっているか──。
「……俺達は、患者さんを二十四時間看ているんです。その為に必要な指示や状態変化について報告をしないと──」
「記録に書いてますよね?」
優奈は俺の言葉を遮り、冷たく笑った。
「どうして二度も同じことを確認しないといけないんですか?」
言葉が詰まる。
“確認”じゃない。
“共有”だ。
医者と看護師が同じ情報を持っていなければ、患者は守れない。
でも──
優奈はそれを理解する気がない。
いや、違う。
理解した上で、わざと俺を否定している。
「……すみません。仕事に戻ります」
そう言うしかなかった。
これ以上言い返したら、病棟全体に迷惑がかかる。
優奈は満足げに微笑んだ。
「そうしてください。あなたの“独断”で動かれると困りますから」
その言葉が、胸に深く刺さった。
──独断?
俺が?
違う。
違うのに。
でも、優奈はそのまま医局へ向かっていった。
白衣の裾が揺れるたびに、嫌な予感が膨らんでいく。
まるで──
これから“何か”を仕掛けに行くような足取りだった。




