第１話 君が消えた日常に
1.君が消えた日常に
「なおくん、明日も日勤だから無理しなくていいよ」
「うん……ごめんな、彩香に気を使わせて」
額の汗を拭い、荒い呼吸を整える。別に早漏なつもりはなかったのだが、いざ行為に臨むと彼女よりも先に果ててしまう。もっとトレーニングするべきだったか？ いやいや、元々勉強一筋で進んできたのだから、流石にこういう知識は少ない。それに、どうしたら相手を満足させられるか、なんて誰に聞いたらいいのやら。
俺がノロノロと彩香の体をバスタオルで拭いていると彼女は嬉しそうに微笑んで俺に抱きついてきた。
「なおくんはなーんにも気にしなくていいの。それに、来月衣装の仮合わせだから、わたしもダイエットしなきゃ！」
「彩香は可愛いんだから、そのままでいいのに」
「ダメダメ！ 肩の形とか、胸のラインとか、一生に一度なんだから最高の写真にしなきゃ」
「あーそうだなあ……俺も、彩香をお姫様抱っこする練習しなきゃな」
「ふふっ。楽しみにしてるね」
寝る前にもう一度愛しい彼女にキスをする。おやすみ、と呟いた瞬間、俺は完全に寝落ちした。
◇
「３５年ローンで買った家、結婚式の前撮り写真、方々に送るはずだった葉書……全部パァだ」
俺は突然出て行った彼女の気持ちが理解出来ないまま途方に暮れていた。彩香とは大学時代に意気投合して、医学部の男子友達も交えて合同であちこち遊びに行った頃から付き合っている。プロポーズしたのは俺が先。付き合って、その先の未来を見越すまで順序よく進んだはずだった。
彩香が俺を捨てて忽然と姿を消した理由はひとつしかない。
「──はぁ。自信無くすな……」
「何重てえため息ついてんだよ、矢木」
そうだった、今は仕事中。俺はモニターのアラーム音と、胸部外科科長の片倉智幸の声にはっと我に返った。
「４０６号室の飯田さんがリーク弱いみたいです。呼吸苦はなくて、ＳＰＯ２は──」
「そうだな、自然に膨らんだならドレーンも抜けると思うから、レントゲンオーダーしとくわ。検査室に言っておくから出来れば午前中に頼む。結果来たら俺のPHS鳴らすよう言っといて」
「分かりました」
片倉は俺と同じ歳だと言うのに仕事がとにかく出来る。胸部外科は安西部長と、今は片倉しか在籍していない。毎年研修医が入社してくるのだが、胸部外科の看護師がとにかく怖くてオペも複雑なものが多く、途中でドロップアウトするやつが多い。
いいなあ、俺も看護師じゃなくて医者を目指すべきだったか。医者なら彩香も俺を捨てなかったんじゃあ……
「矢木くん、４３３号室の退院指示どうなってんの！？」
「あ、はい。今から連絡します。田中さんは整形の方次の受診決まってないんで外来行ってきます」
くっそ、悲しみに暮れている時間なんてない。幸い、俺が結婚する話を知っているのは坂野師長くらいだから、彩香がいなくなった話は誰も知らないし、俺も情けない話を吹聴するつもりもないからいいか……
午前中は怒涛のように時間が過ぎる。今は心臓のオペ待ちと、ICUが満床なのでオペ後にドレーンまみれで引き取った患者もいて全体が重い。
かと言えば、肺癌のオペと化学療法をミックスでいきたいという指示で抗がん剤治療も併用している。
安西部長は本院の出身なので、どうしても医療センターのキャパを超える指示をバンバン出すからスタッフは疲弊していた。なので、どうしてもみんなキリキリして、自分にも他人にも厳しい人が多い。
「おはようございます。金澤先生……胸部外科の田中さん、今日退院なので指示ください」
「あら、矢木くんわざわざカルテ持ってきてくれたの？ 先生、オペ行く前で良かったわね」
外来の看護師が先生のタイミングを見計らって指示を受けとる間、俺は隣にある胸部外科外来の処置室で汗を拭っていた。リーダーの仕事が多く、最近は本当に休憩が取れない。まして、彩香の件もあって不眠症までMIXして俺はストレスで倒れそうになっていた。
「おい矢木、顔色悪いぞ。お前大丈夫かよ」
外来が丁度履けたのか、診察室二番にいるはずの片倉が心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「はい、ちょっと今忙しかったもので……整形の指示もらったら戻ります」
「あんまり無理すんなよ？ そうだ、お前にこれやるよ」
ニヤニヤしながら片倉は自分の鞄をごそごそ漁り始めた。一体何だって言うんだ。
「……何ですか、これ」
「真弥の愛情たっぷり塩おにぎりだ。食欲無くても食えるから」
可愛らしい三つ葉マークのお弁当袋に入っていたのはシンプルなおにぎりが三つだった。俺はそれをひとつ貰い、カルテと共に病棟へ戻った。
確かに休憩を取る暇もないくらい忙しいので、俺は片倉に貰った彼女手作りおにぎりを有難く頂戴した。
「あいつ、いつの間に彼女なんて作ったんだろう……」
病棟に戻るまでの間、片倉が嬉しそうに「真弥」と彼女の名前を呼んでいたデレデレ顔を思い出した。
片倉は勉強一筋のくせに、運動も大好きなせいで、どちらかと言うと体育会系のガッチリ体格だ。ぱっとみた感じ医者には見えないとよく言われるらしい。
あいつとの付き合いはT大時代に遡る。俺は看護学科、片倉は医学部と部門は違えど、校舎は一緒で時に聞きたい教授の授業が合えば顔は合わせた。まして、俺とつるんでいた奴と、片倉の友達が互いの女子を紹介して欲しいなんて話になり、俺達は六人グループで行動していた。
彩香と会ったのも片倉達の紹介からだ。彼女は医学部では無かったが、玉の輿を狙っていたのか最初から片倉に懐いていた。結局相手にされなくて俺のところにきたのだろう。
「彼女のおにぎりか……いいなぁ」
彩香は家庭的な女では無かった。付き合っていた時も外食しかしなかったし、俺も疲れていたのであまり遠くに連れていけなかったのも敗因だと思うが、過去は過去。もう色々失ったものは諦めるしかない。
ローンの残る新居を売るか、それとも母親のためにこのまま明け渡すか？
まだ母親にも突然嫁に逃げられたなんて恥ずかしい話はしていない。
「はあ……」
ため息しか出ない。不眠と頭痛でとにかく毎日が億劫だ。ふと時計を見るともうすぐ１３時になってしまう。すっかり休憩も取らないままリーダーの仕事をしていたらしい。
スタッフは各々受け持ち制なのでリーダーがいつ休んでいるかなんて把握していないし、休んできたら？ なんて優しく声をかけてくれるのは坂野師長くらいだ。
「休憩いただきます……」
俺は昼残りで記録を書いていた同僚にそう告げるとおにぎりを握りしめて狭い休憩室の隅に座った。
「矢木くんやっと休憩？ あんたこん詰めて仕事し過ぎじゃない？」
「一段落しましたよ、とりあえずコーヒーとおにぎり食べようかなって」
「その塩おにぎり、もしかして片倉科長から貰った？」
俺が持っていたおにぎりは本当にシンプルなやつだ。これを見ただけでスタッフがわかるということは、余程片倉は彼女のおにぎりをあちこちに配給していたのだろう。
「さっき整形に指示もらいにいく間、科長から貰いました。彼女さんの手作りなんですよね」
「彼女じゃなくて、科長の一方的な片想いみたいよ。高校生の時からずーっと好きみたいで、でも相手にして貰えないって」
カラカラと笑いながら話す同僚からそんな情報を得る。俺と片倉は大学からの知り合いなので、あいつがそんなに純に想い続ける女がいるなんて初めて聞いた。
丁寧におられたラップを剥がし、おにぎりを一口かじる。
「……これ、ほんとうまいな」
「良かったわね矢木くん。科長がそれをくれる時って本当に機嫌がいい時よ」
素材の塩が独特で中央には砕いた梅干しが混ざっていた。噛めば噛むほど米の甘味と塩と梅干しの甘酸っぱい感触が広がってくる。パクパク無心で食べてから、何となく体調が良くなったような気がした。
「俺、塩分足りて無かったんですね」
「そうよー、座ってても脱水になるし、倒れたら大変だから無理しちゃだめよ」
諭されて俺は時間をずらして休憩すると伝え、ひとりになったところで眸を閉じた。
