苺の花と朝食
用意されたジゼルの部屋はとても広くて落ち着かなかった。ベッドだけで言えば前世でいうクイーンサイズぐらいある。その上、クローゼットや化粧台が完備しており、カーテンは上品な光沢のある白だ。
マットレスがふかふかで硬めを好むジゼルは初めこそ戸惑ったけれど、いろいろあって疲れた体は簡単に夢の中に落ちた。
(ーーすごいわ。ぐっすりだった)
翌朝起きて愕然とした。子爵家では、母が使っていたマットレスを使っていたが前世と同様硬めのマットレスだった。しかも随分と長く使っていたので、ペラペラだ。それを考えるとふかふかのマットレスは全然別物で、始めは眠れるか不安だったが、若いせいか全然腰が痛くならない。
(若いって素晴らしいわね)
いつもと同じ時間に目が覚めて、どうしようか悩む。余裕で二度寝できそうだが、体を動かさないと気持ち悪かった。
(ーーそうだ。せっかくだし、庭に出てみよう。昨日もちらっと見せてもらったけど、全部見てないし)
昨日は食事の後、衣装合わせをした。前アクスバン侯爵夫人が結婚式で着用したという伝統のあるドレスだ。彼女は現国王の妹御で、エレスティナは彼女のお気に入りの店らしい。そんなお店で貧乏子爵令嬢が同じドレスを着せてもらうなんて、畏れ多い。と断りたかったけれど、時間的猶予がなく、デザインはシンプルでジゼル好みだったので、手直しして着ることになった。
ジゼルはベッドから降りて、持ってきたトランクからお手製の下着を身につける。昨日は慣れないコルセットを1日つけていたので、身体が悲鳴をあげていた。その流れで着慣れたワンピースを着ると身体がホッとしているように感じる。
(貴族令嬢尊敬する。無理だよ、無理無理)
ジゼルは首を横に振る。結婚式まで我慢はする。だが、そのあとは応相談だ。
(夜会に出ない、お茶会もしない、つまり着飾らなくていいならコルセットなんていらないわよね)
一週間の我慢だ。そう思えたら希望が見える。
ジゼルは履き慣れた靴を履いてそっと扉を開ける。まだ廊下は静まり返っており、人の気配がない。
(ーーたしかお庭はこっちだったはず)
方向音痴ではないが、この大きな屋敷を迷わなくなる日が来るだろうか。ジゼルは足を止めてそっと振り返る。まだ直線しか歩いていないが、どれも同じような扉なので、早速自室がどこかわからなくなってしまった。
ホテルのように番号でも振っておいてくれればいいものの、そうではないので困る。
(ーーあ)
ふと階段近くの窓から外を見る。すると庭が見えて、花壇を弄る人がいた。昨日一通り屋敷の従業員に挨拶をしてもらったが、まだ顔と名前が一致していない。ジゼルがその階段を降りて、降りた先にたまたまあった扉を開けて外に出た。
(ーーあれ? 違う場所だわ)
庭ではあるが、目的地とは別の場所に出てしまったようだ。とりあえず、庭伝いに散歩でもしようと思う。
(ーー空気は違うけど、自然があると落ち着くわね)
つくづく自分は都会が似合わないようだ。
歩いていると、十分に手入れされた花壇が遠くに見えてくる。色とりどりの花の中でしゃがみ込んで作業をしている男性の姿も見えた。
「おはようございます! なにをされているのですか?」
ビクッと身体を跳ねさせた男性は振り向きざまにジゼルを見て目を見開いた。
「お、おはようございます。奥様」
「ジゼルと呼んでください。それよりこのお花はチューリップですか?」
「は、はい。お気に召されませんでしょうか」
「とんでもない! 大好きですよ」
実家では食べるもの優先だったので、お花を植えることはなかった。だが、菜の花は食べられるので植えている。ネリーがうまく調理してくれればいいが、こればかりは仕方ない。
「子どもの頃、つつじの蜜をよく吸いました。ふふふ。大人になって控えるようになったのですが」
「妙に美味いんですよね」
「ええ。ご馳走です」
つつじの咲く様子を見て、つい懐かしさから昔話をすると、庭師はパッと目を輝かせて嬉しそうに顔を綻ばせた。
「奥様は好きな花はございますか?」
「……そうですね。苺の花が好きです。あの白くて可愛らしい花、見ているだけでワクワクします」
どんな赤い実をつけてくれるのか考えるだけでよだれが出てきそうだ。この世界ではなかなか甘味がないので、果物は大切な糖類である。
「いちご……。あっはっは! そりゃいい。来年はぜひ、この辺り苺の花を咲かせましょう」
「え、いいんですか? それはとても嬉しいです!」
大好きな苺を庭で食べ放題なんて、贅沢すぎる。ジゼルが庭師とキャアキャア話していると、シャツにトラウザーズといったラフな装いのエリオットが姿を見せた。
「ジゼル、楽しそうだな」
「お、おはようございます」
「おはよう。なんの話をしていたんだ?」
「どんな花が好きかと聞かれたので、”苺の花”と言ったら来年はここを苺の花だらけにしてくれるっていうので、みんなで苺狩りをしましょう!と話していました」
「苺狩り?」
「はい。好きなだけ苺を摘み取ってその場で食べるんです! 練乳があれば最高ですけど」
残念ながらこの世界で練乳を見たことはない。だけど、苺狩りまでにミルクを加工して作れないか試してみたい気もする。
(たぶん、砂糖をたくさん入れて牛乳と混ぜたらできそうなんだけど)
「ジゼルの好きにすればいい。この庭は君のものだ。わたしは植物に明るくなく興味もない。彼らに任せっきりで、彼らも張り合いがないだろう。好きにいじればいいさ」
「え、いいんですか?」
「あぁ。好きなことをすればいいと言ったはずだ。遠慮はいらない」
ヤッタァ! と両手を挙げるとエリオットに頭をポンと撫でられた。想像以上に大きな手だったことと、気軽に触れてくるので、ドキッとする。そういえば、初めて会った日も手を掴まれたっけ。
「一時間ほど、鍛錬をしたら食事にする。一緒にどうだ?」
「はい、ぜひ!」
「このまま向こうに行くとガセボがあるからそこで取ろう。天気がいいので外で取るのもいいだろう」
「そうですね」
「では後で」
エリオットはそういうとくるりと背中を向ける。朝の光を浴びた銀色の髪の毛がより輝いて見えた。
***
「ジゼル様、お散歩を楽しまれたようでようございました。ただ、今後は呼び鈴を鳴らして私共を呼んでくださいませ。部屋にいらっしゃらなかったので全員で探しました」
「ご、ごめんなさい」
庭師と一緒に花壇いじりをした後、時間が来たので言われた通りガセボに向かうとアリアに微笑みながら叱られた。首を竦めしゅんとしつつも言い訳がましくなる。
「でも、朝早かったし」
「今後はそれより早く起きますので」
「ただの散歩だよ? 散歩は気軽にしたいなぁ……」
不躾な視線を感じつつもジゼルは素直に頷けなかった。
だが、昨日せっかく磨いてくれた爪が土をいじったせいで、爪の間に土が入り薄汚れてしまったし、日焼け止めもなにも塗らず、いつものようにすっぴんで外に出た自分が悪いとは思っている。ただ、散歩にコルセットは不要だし、侍女を連れてゾロゾロ歩くのは散歩と言えない。
「……侯爵夫人になる自覚を持ってそれらしくしていただきたいですわ」
誰が言ったのかわからないが、きっと侍女全員の気持ちを代弁したものだろう。静かな庭にポツンとこぼれ落ちた呟きに、ジゼルはさらに小さくなった。
「では、聞くが。侯爵夫人らしいとはなんだ」
しかし、今まで黙って成り行きを見守っていたエリオットが突然口を開く。頬杖をつき、指先をテーブルでトントン叩く音が空気を凍らせた。
「作物の成り立ちや民の生活を知らず、目が覚めた瞬間から侍女を呼びつけ、着飾ることや己を美しく見せることが侯爵夫人なのか?」
誰を当てこすっているのか、皆わかっているのだろう。彼女たちの視線が下がる。
「事前に伝えておいたはずだ。ジゼルのしたいようにさせてやれ、と」
「で、ですが。使用人も呼ばず、粗末な格好で庭を弄るなんて」
「別に人前に出るわけじゃあるまい。その格好で屋敷の中を歩き回られて困るのは、結局のところそんな女主人に支えたくないと言う気持ちの表れだろう?」
「!!」
「ならばいらん。やめればいい」
「え?」
ジゼルは驚いて目を丸くした。エリオットに実質クビ宣言をされた侍女は青ざめる。
「もし、貴様たちがジゼルをわたしの母のようにしたいと言うのであれば、即座に解雇する。よいな?」
「はい。申し訳ございませんでした」
侍女たちが頭を下げる。なんだか可哀想でジゼルはエリオットに謝罪した。
「わたくしが至らぬせいでご迷惑をおかけしました。ですが、彼女はなにも悪くありません」
高位貴族の在り方を知らないジゼルにも非があった。だがエリオットは首を横に振る。
「ジゼル、貴族はたしかに見栄を大切にする。が、そんなもんで腹は膨らまないし民を助けることはできない。そのことをあなたはよく知っているはずだ。わたしはその痛みをよく知る方を妻にできることを誇らしく思っている。自ら土を触り、作物を育て、その難しさやありがたさを知らぬものがどうして民の生活を理解できる?」
エリオットは周囲に視線を走らせる。誰も彼もその通りだと言わんばかりの沈黙に居心地が悪い。
「もちろん外ではそれなりに見えるようにしてほしい。が、屋敷の中は自由だ。ジゼルの好きにすればいい。ただし、まだ屋敷の中のこともわからないだろう。迷子になってもいけないので、ひとりは供をつけなさい」
「……はい」
「あと、その服が気に入っているのであれば、同じような服を何着か拵えよう。どうせレッスンの際は服を着替えるのであろう? ならば朝のこの時間ぐらいは好きなようにすればいいのではないのか?」
エリオットの厳しい視線がアリアに向けられる。アリアは「仰る通りです」と頭を下げた。
「話は以上だ。時間がない。食事にしよう」
「準備いたします」
周囲が慌ただしく動き始める。ジゼルは叱責された侍女が気になったが、今はエリオットと食事の時間を優先することにした。食事中はぼんやりしながら、自分はどう在りたいのか、在るべきなのかと考える。




