君はゆっくりしていればいい
お読み頂き有難うございます。
辺境の地で見初められてしまった田舎娘のお話です。
ゆっくりと、ゆったりとしていたい。
誰だってそう。誰かに、甘やかされたい。
でも、周りに甘やかしてくれる同等の者ががいなければ?
簡単なこと。
下の立場の者に世話させれば良い。
適当に見目が良く、愚かで、学のないもので、癒されれば良い。
別に構わないだろう?
この窮屈な世界から、一時の幸せを望んだだけだ。高貴な私の傍にいられて、嬉しかろう?
あの男はそうとでも思っていたのでしょう。下と見た者を、対等に扱う訳が無い。
だって、同じ生き物と思ってすらいないのだから。
そう気づいたのは、愚かにも……逃げ切れない所まで追い詰められた後でした。
あの男は、眩い優しさと善意に満ちた装いで飾っていましたから、きっと目を焼かれたのです。
私は、見たことのないものに心惹かれ恐れ震える、弱い生き物でした。
意思を無視して無碍に扱っても構わない、と思われるような。
それは、かつての私には華やかな場でした。
私に相応しくもなんともない場に、私は立っていました。其処にいるべき方を押し退けて立っていることに優越感さえ感じていたかもしれません。
庭の手入れ、給仕をしてくれる方ですら、私よりも高貴な生まれ。そんな当たり前のことすら気づかないふりをしていました。
高貴なる人々が行き交う中、あの男は私を見せびらかしました。
稀有なる癒し手として働いていたのに虐げられていた所を、悍ましい野蛮な辺境から救ったのだと。
勿論、そんな事はありません。
男は白々しい嘘を並べていたのに、私はヘラヘラと同意し薄笑いを浮かべるのみでした。
だって、私が男の話を否定したら辺境の皆が酷い目に遭うかもしれないのです。
でも、辺境の人達を救ってやっているという傲慢さも私の心の中に混じっていました。
辺境では見たことも無い美しい緑のドレスに、光る髪飾りに惑わされていたのかもしれません。
その時、カップの割れる音がしました。
私は手を切った給仕に、優しさを装った上から目線で治療を施そうとしたのです。
癒やし手として、私の腕を見せびらかせる。そして、この高貴な方々から喝采を受けたい。
そうすれば! この惨めで虚しい気持ちから逃れられる筈!
給仕の心配よりも、そちらの高揚感を期待していました。
「私だけを癒やし、微笑んでいてくれ。
下賤の者の手当? そんな些末な事はしなくていい。他の者にやらせなさい」
ポカン、と口を開けて呆れる私に男は続けました。きっとみっともない様だったでしょう。
「ほら、珍しい大輪の花だろう? まだ瑞々しく馨しいね。君の為に咲かせて、さっき摘ませたところなんだ。
ああ、よく似合う。鏡を持ってこさせよう。見てご覧、コレで君の手はいっぱいだね。
君は、私の腕と花を抱いて、ゆっくりしていればいい」
何を言われたのか、頭と心に染み入るまで時間が掛かりました。
頭に言葉として理解した時、私は反射的に口を歪めたようでした。
だって、公衆の面前で、『お前は無能』とレッテルを貼りつけられたのです。
暫く動かなかった感情が涙となって睫毛に滲んだ気がして、頭に杭を生きながら打ち込まれた気分でした。
ですが、あの男には私は彼の言葉に感動し、歓喜の涙に堪え、心温まり震える様に見えたようです。
瞬く間に、大層な御託と共に語られた御大層な花が潰れました。
村で着ていたものを100集めたよりも、格段上回る柔らかで高価なドレスに、洗濯用の灰汁で何度擦っても取れぬであろう草の滲みを残す程、腕で強く体を締め上げられます。
この花は乱暴に摺り潰す為に摘まれたのか。
花が、哀れな気分になりました。
荒らされたと感じるには、私の心はそう簡単には死なぬもののようです。苦しくても死ねぬ我が身のように図太いのでしょう。
この花のように、儚くか弱く有りたかった。
私の心が揺れ動かなくなる前。
今となっては忌むべき出会いは、この男が物見遊山に私の故郷へやってきた時です。
私が村の診療所でのお手伝い……女神様から頂いた治療術を、ヘビに噛まれた隣の子の治療へ使っていた時。
いきなり乗り込んできて、まるで見世物のように大層に騒ぎ立てたのです。
追い払うことも出来ず、曖昧に笑いその場を凌ぎました。だって、貴族に対して庶民の小娘が何を出来たでしょう。
変な貴族の一時の戯れだと、そう思っていました。
最初は大人しくおっかなびっくり見学していたのですが、暇な時に相手をしていたら、どんどんと図々しくなりました。
いえ、本性を現したのですね。
「き……傷、ですか」
「ああ、この傷なんだが……」
日が暮れそうな光の中、やっと確認出来たのは小さな小さな刺し傷です。其の辺の枝にでも引っ掛けたのでしょう。村の人間であるならば、精々川の水で洗って忘れておく程度の傷でした。
そう告げれば良かったのです。
あの男は、この地に慣れてからというものの本当にくだらないことで私を呼びつけては、些細な傷を治せと宣いました。
貴族を邪険にも出来ず、直に飽きるだろう、と思っていたのに。
「あの、私……今から大怪我をした方の治療に向かいますので、その傷のお手当は」
「小さくて可憐な手だ。私を治療するに相応しいね」
後で伺います、と続ける事も出来ませんでした。
患者さんの命が尽きるまで、刻一刻と迫っているのに。
あの男は、私の手を離しませんでした。
その場をしのごうと慌てて小さな傷の治療を施したにも関わらずです。
この腕がもがれてでも振り払えばよかった。
流れ出る鉄錆の臭いで充満する中、尽きた母親の命の前で号泣する子供に何と言えたでしょう。
絶望しました。
私は猛烈に声が嗄れるまで抗議しました。血の混じった咳が出て、滂沱と涙を流しながら。
ですがあの男は。
「心温かな君よ、私の苦悩を分かっておくれ。
汚らしい最下層の者に君が煩わされるのが、心痛なんだ」
汚らしく惨めな輩なのは、あの男です。
ですが、逆らえない私も汚らしい。
そうして、男の望むまま都会へ連れてこられた私は、惨めたらしく、愚かでした。
元々あの男には、婚約者の姫君がいたのです。
後に遠目で垣間見たそのお姿は、お体を飾る華美な装飾にも負けない淡く光る金の巻き毛が美しい方でした。
背筋はしゃんと伸び、凛とした眼差しは高貴そのもの。
美しい方でした。
愚かにも、その時私はあの男の婚約者である方の存在を知らなかったのです。
ですが、疑問に思うべきでした。
年頃の資産持ち男には、婚約者が必ずいると知っているべきだったのです。
家を繋ぐ立場なのですから、当然でした。生まれ故郷にも、僅かでも資産を持っている男には必ず許嫁がいたというのに。
そんな事も思い出せぬ程、私の目は心は浮かれていました。
見目麗しい資産家の男に特別扱いされたという、遅効性の猛毒で、丸ごと煮られていたのです。違和感をたっぷり抱えていたのに。
私は、手紙も噂も碌に届かぬような辺境の片田舎の生まれでした。
華やかな都の礼儀作法など知る由もなく、生まれ故郷で朽ちていく。
華やかな娘時代を、治療術で扱き使われて台無しにされて……何て、美しく優しい己は可哀想。
村でいいように使われても健気に笑う私、報われてもいい。私には豪奢な幸せに包まれるべきだ。
そんな業の深い思いと憐憫に浸っていたのでしょうか。最早、ボンヤリと思い出すことしか出来ません。
少しばかり都会の男に言い寄られて、いい気になってしまったのですね。
「婚約者の彼女は美しいんだが、まるで自分というものがない。自己憐憫が酷くてね」
私を連れている男のせいで爪弾きにされる婚約者。彼女を悪く言う様に、嫌悪し高揚し惚れ惚れしていた醜いあの時の私。
今なら、姫君が親に逆らえない身の上であると直に分かるのに。
「褒めても褒めても、卑下するんだ。此方が不幸になるよ」
「お可哀想に」
最初はおざなりにしか聞き入れずとも、無神経な愚痴を何度も聞かされ、麻痺していきました。
ええ、単純な私は何度も何度も同じ話を聞かされると……本当にそうなんだ、と信じ込んでしまうようです。
私は無知で、あの男の口はよく回る。甘い毒を染み込ませてゆくようでした。
「己を可哀想だと思っているのに、家を出るとか、私に縋るとか何も努力しない」
年若い姫君が、こんな口だけの青二才に縋って逃げ出したい等と言うでしょうか。
都会で少しばかり毒の中を泳いだ今なら分かります。
でも、私は違和感を抱きながらもあの男に同情してしまいました。
同じ話を何度も哀れっぽく語る、あの何もしない男を。
「お可哀想に」
私なら、彼を救える気がする、と。そうお伝えして直ぐに後悔しました。
くだらない男と共に都会に出て数多のくだらないものを選んだ結果は、男の婚約者であるお姫様を傷付け、沢山の人を見殺しにしただけでした。
直ぐに罪を贖うべき罰はやってきます。
私が女神様から授けて頂いた力は緩んで弛み、ゆるゆると力を無くしてゆきました。
だから、目の前で男がのたうち回っていても。
傷はゆるゆると開いて、赤黒い血が直ぐに吹き出すのです。
「助けてくれ……!」
都合の良い存在と見て取れば、後出しで愛を宣うそのお口。
何事もなかったかのように、綺麗に閉じてあげましょうね。
女神様。
村の人達を救う為授けてくださったお力を使い切ること、お許しください。
きっと、あのお姫様は罪深き罪人の私の下へも、直ぐにやってくるでしょう。
見殺しにした人達の所へ送ってくださるのでしょう。
その前に、この罪深き者へ私の怒りをぶつけることをお許しください。
ええ、ゆっくりしますよ。
あなたの悲しみが長引きますように。
引き返す道は、何処にも。