9.泥の中の恋心
「さて……」
膝に乗せた魔術書が、今日はやけに重い。
聖女が魔物退治に出立する日は決まっているし、その日は刻々と近づいて来ている。だから最近ブライトンはツバサに付きっきりで魔術を教えているのだ。
ラヴィニアに与えられた時間は、短い。
その間に魔術書庫の文献を読み漁り、民間信仰の伝説にまで知識の捜索を広げたが結果は芳しくなかった。そもそも聖女召喚の伝説はあれど、実際に聖女が来訪したという記載は古文書にはないのだ。
正直なところ、このディンセル国にとって聖魔術も聖女もお伽話のひとつに過ぎない。聖女研究の資料はたくさんあったものの、大半が与太話で構成されていた。
焦りばかりがラヴィニアを苛み、近頃はまともに眠ることも食事が喉を通ることもままならない。
「んー……ふぁ……」
その所為で、ついつい欠伸を連発してしまう。
ギルがじっとこちらを見ているが、知ったことか。今のラヴィニアは伯爵令嬢でも王城魔術師でもない、ただの田舎の村のおばさんだ。
男性の前で欠伸をするぐらいどうということもない。と、思いたいのだが、やはりどうしても気になるので、部屋を出て行って欲しい。
「……眠いなら、休んでこい」
「その間にあんた達がツバサに余計なことを言わないか、見張ってなきゃでしょ」
「本当にそうするつもりなら、機会なんていくらでもある」
ラヴィニアは唇を尖らせた。
面の皮の厚いこの男に以前のように話しかけられると、どうしても調子が狂う。
五年前のことを終わったと称したのはラヴィニア自身なのに、気にしているのは自分ばかりのように感じてしまって、腹が立った。
例えば間抜けにも利用されたと罵られたり、もしくは会いに行かなくて済まなかったと一言でも謝ってくれたら、また違う付き合いが出来るのに。
まるで五年の隔たりなんて無かったかのように、恋人だった時のままのように話しかけられても、困るのだ。
「どうだか。出発の日も決まっているし、それまで気が抜けないわよ」
わざと冷たく言って、ラヴィニアは手元の魔術書を捲った。
が、ぐらりと視界が揺れ座っているのにその状態を維持出来なくて、体がソファから転がり落ちる。
床にぶつかる! と思った時には、力強い腕に体を掬い上げられていた。
「…………ギル」
「っ……馬鹿か、具合が悪いなら寝ていろ」
「はぁ? 人のこと馬鹿って言う奴が馬鹿なのよ!」
珍しく焦った様子のギルに罵倒されて、ラヴィニアも眉を吊り上げる。
しかし体に力は入らず、そのままギルに抱き上げられて客寝室まで連行されてしまう。
「離して」
「今離したら、廊下に落ちるぞ」
「嫌な男……!」
ギルの腕はラヴィニアを抱えていてもちっとも揺らがず、安定している。そのまま寝室までの廊下の短い距離を、抱えられた状態で運ばれてしまった。
前述の通り客人とはいえ貴人ではないので、呼びつけないとメイドはいない。その為、ギルは勝手に部屋に入りラヴィニアをベッドに降ろした。
「レディの部屋に勝手に入るな……」
「緊急事態だ。医者とメイドを呼ぶ、楽にしていろ」
ぐるぐる回る視界の中なんとかラヴィニアがそう声を絞りだしたが、ギルにはあっさりと撥ね退けられてしまった。
かち、と小さな音をたてて、ギルによって袖口と襟元のボタンを外され、ラヴィニアはほっと息が楽になるのと同時に羞恥が込み上げる。
ラヴィニアの乱れてしまった赤い髪を梳く、ギルの冷たい指先が心地いい。そんなことは五年前も知っていた。忘れてしまいたい感触なのに、何故今また味わわなければならないのか。
「……運んでくれたことは、ありがとう」
「ラヴィニア」
「でも……もう出て行って」
優しい指先を、弱々しい力で拒む。今回はお礼を伝えられたことは、ささやかな進歩だ。
だからもう、部屋を出て行って欲しい。ギルには、これ以上近づかないで欲しいのだ。
「ラヴィニア、俺は」
「優しくしないで。あなたを拒めない自分が情けないの」
ギルの言葉を遮って、ラヴィニアは喉を震わせた。
言葉にするとますます情けなくて、そして五年前に傷ついた自分をいつまでも引き摺っていることを思い知らされる。
「……分かってる。いつまでも根にもって、みっともないわよね……人にはそれぞれ立場や事情があるわ、あの事件の時……侯爵令息のあなたが私を庇ったりなんて出来るわけなかったのは、ちゃんと分かってるのよ」
ラヴィニアの実家の伯爵家からも、何の支援もなかった。それでよかったのだ。
悪事に加担したとされる娘だが、処刑されるわけでもなくただ立場を奪われ王都を追放されただけ。
残る家族のことを思えば、ラヴィニアは切り捨ててくれて構わなかった。それが伯爵家が生き残る為の最善手だと理解出来る。
まして、侯爵家の次男であり騎士団所属のギルは、もっと身動き出来なかった筈だ。そもそも妻でも婚約者でもない、ただの恋人の為に動かなかったからといって、責めるのは酷だろう。
分かっている。分かって、いるのだ。
「……だから、恨んでなんかいないわ」
ただ、たまらなく惨めで、悲しかっただけ。
愛していたから、どうしようもなく、悲しかった。
「ラヴィニア……」
ギルの指先が、ラヴィニアの頬に触れる。彼の碧眼が真っ直ぐにこちらを見つめ、唇が薄く開く。
そこに、バンッ! と大きな音をたてて寝室の扉が開き、ツバサが飛び込んできた。
「お母さん!! 倒れたって、大丈夫!?」
ツバサはそのままベッドまで駆け寄ってきて、ギルを押しのけてラヴィニアにぎゅっと抱き着く。小さくて温かな気配に、ラヴィニアのピリピリとしていた空気が和らいだ。
ラヴィニアの宝物。守ると言いつつも、いつもツバサの存在に救われて心を守られているのは、こちらの方だ。
「ツバサ……心配かけちゃってごめんね」
「ううん! 最近お母さん、夜遅くまで研究してくれてるんでしょう……? 私の為にありがとう。でも無理しないでね」
心配と感謝を素直に伝えてくれるツバサは、本当にいい子だ。ラヴィニアは娘を抱きしめて、うっとりと溜息をついた。
ギルとの関係に拘泥している時の鬱屈とした気持ちが、まるで清流に洗い流されていくかのように解消されて心地よい。
これが聖女の力なのだろうか? と一瞬考えたが、すぐに打ち消す。これは、愛の力だ。
ツバサの齎してくれる優しい気持ちに、ラヴィニアはどっぷりと耽溺する。
だから部屋の端で、ギルとブライトンがボソボソと喋っていることに全く気付かなかった。
「聖女様の登場が少し遅かったら、ラヴィに言っちゃうとこだっただろお前」
「……」
「忘れるなよ、あの二人を守りたいなら、余計なことは言うな」
ブライトンがギルを睨むと、同じようにギルも睨み返していた。




