8.聖女の決意
翌朝。
大きなふかふかのベッドの上で、ラヴィニアは目を覚ました。嫌な夢を見ていた気もするし、幸福な夢だったような気もする。
「……頭痛い」
頬に触れると、涙で濡れた痕があった。自分にまだこんな少女のような感傷が残っていたことに、呆れる。
と、ベッドにツバサの姿がなくて、ラヴィニアは青褪めた。慌ててしっかりと握っていたショールを羽織り、裸足のまま寝室を飛び出す。
「ツバサ!」
バンッ、と扉が音を立てて開いた先、朝の光の差し込む廊下にツバサが立っていた。
隣には彼女に合わせるようにして屈んでいる、ギルの姿。
「……うちの娘に何かご用ですか、カーヴァンクル卿」
ラヴィニアが駆け寄ってツバサを抱きしめると、ギルは手を広げて無抵抗であることを示しながら後ろに下がった。
昨夜のことなぞまるでなかったかのように爽やかな金髪碧眼、相変わらずの美しい面に腹が立つ。
「……何もしていない。話をしていただけだ」
「保護者を通していただけるかしら?」
キッと睨みつけると、ギルはまた僅かに目を細めた。それから指先でそっと目元に触れられる。
「泣いたのか?」
「触らないで」
今度はラヴィニアがツバサごと後ろに下がる。するとツバサが心配そうに顔を上げた。
「お母さん……泣いちゃったの?」
「……起きたらツバサがいなくて、ビックリしただけよ」
ラヴィニアが膝をつくと、ツバサが母親の首に抱き着いた。温かい、小さな体が愛おしい。
娘と目を合わせると、その黒い双眸にはしっかりとした意志が見て取れた。
途端、ラヴィニアは絶望的な気持ちになる。
賢くて優しいツバサ。彼女は幼いのに、物事をよく分かっているのだ。
「あのね、お母さん。私……聖女をやるよ」
ツバサが自分でやりたい、と言うのならば、ラヴィニアには止めることが出来ないのだった。
*
それから数日後、良く晴れた昼下がり。
客室棟の中庭では、ツバサがブライトンから魔術を教わっている姿があった。研究室の窓からラヴィニアはそれを見遣る。
魔術の基礎や思想についてはラヴィニアが教えていたが、魔力貯蔵器官の死んでいる身では実技を教えることは叶わなかった。だからブライトンほどの魔術師がきちんと教えてくれるのは、聖女になると決めたツバサにとっては良い事だ。
分かっているけれど、自分が情けなくてラヴィニアは溜息をつく。
守る守ると言いながら聖女になると決めたツバサを守ってやれる力がないことが、歯がゆい。
魔法石に魔力を蓄積させたり、豊富な魔術知識で薬師として生計を立てることは出来るが、魔物と戦う武器や盾になることは出来ない。
ラヴィニアに今出来ることは、ツバサが戦場に出ることなく聖女としての力を発揮出来る方法を見つけ出すことだけだ。
「……ところで、あなたは暇なの?」
研究室として設えられた部屋。そこに置かれた応接セットのソファには、しれっとギルが座っていた。
彼は騎士服姿で優雅にお茶を飲んでいる。
「そんなわけないだろう。多忙を極めている」
「ならなんでここでお茶飲んでるのよ! 仕事なさい」
「聖女の修行の進行状況を見るのも、仕事のひとつだ」
「ああ、そう……」
「それより……」
じっ、と碧眼に見つめられて、居心地が悪い。
「な、何よ……」
「……滞在に、不自由はないか」
王城に滞在している間は、ラヴィニアもツバサも借り物のドレスを着ている。
やはりツバサも女の子なので綺麗で可愛いドレスにはしゃいでいて、毎朝どれを着るかで悩んでファッションショーを開催してくれるのが、可愛らしい。
客人として滞在している現在、冷遇されているわけではないが貴人でもないので厚遇もされていない。ツバサの着付けはラヴィニアが世話をして、ラヴィニア自身は自分で着られるドレスを適当に選んで着ていた。
魔術研究で汚してしまうかもしれないからなるべく質素で格の低いものを選んでいるので、ラヴィニアには似合っていない。顔立ちがキツく派手だし赤い髪と紫の瞳には、貸出ドレスではやけにちぐはぐだ。
しかしそれを、ラヴィニアは不自由とは感じていない。
「……ないわ。ツバサには良くしてくれているし、あの子にお腹いっぱいご飯を食べさせてあげられるのは正直有難いわよ」
ただ腹を満たすだけならば、今までツバサと共に暮らしていた村でも出来ていたと思う。
しかしやはり食べ盛り、育ち盛りのツバサに栄養満点で味も良く、しかも様々な種類の料理を食べさせてやれる環境は有難い。
母などと偉そうに言ってはいるものの、食事ひとつ取っても娘に一番良い環境を用意出来ていないことは、ラヴィニアの落ち度だった。
食事も、衣服も、住むところも。勿論勉学や教養など、全てにおいて良い環境を用意してやりたいのが親心だ。
「お前は?」
「私のことはどうでもいいでしょう?」
やけに食い下がってくるギルに、ラヴィニアは溜息をついた。
村にいるよりも、魔術素養に秀でたツバサにはこの王城で学ぶ方がいい環境なのは分かっている。だがそれと引き換えに、いとけない子供を戦場に連れ出すのは間違っている。
最終的にはいつもその考えに戻ってくるのだ。
そして、ラヴィニアのやるべきことに、思考は終着する。
これ以上ギルにいちいちつっかかるのも馬鹿々々しくて、ラヴィニアは窓の外へ視線を戻した。
ブライトンは聖女であるツバサを必ず守ると言ったが、もし万が一戦場に出る場合、予測出来ない事態の為にツバサ自身にも戦う術は必要だ。
何よりツバサは元々聖魔術だけではなく、人並外れた魔術の才を持っているのできちんとした教師に師事して魔術を習得しておけば、今後どう転ぼうとも損はないだろう。
そんな風に、初級の魔術から丁寧に教えを受けている娘を見つめつつ、ラヴィニアはデスクに備え付けの木製の粗末な椅子に座りぐったりと寄り掛かった。




