10.寝物語
その日の夜。
ラヴィニアは倒れたばかりだからベッドは別にした方がツバサは落ち着いて休めるのではと提案したが、お母さんと一緒がいい! と主張されて、結局いつものように母子は同じベッドに寝転んでいた。
ちなみに倒れた原因は睡眠不足と栄養不足。王城魔術師時代から、研究に没頭すると寝食を忘れるラヴィニアのことを思い出して、ギルとブライトンは呆れていた。
「今日は研究しない! 早く寝る日!」
ベッドの中でツバサにぎゅっと抱き着かれて、ラヴィニアは苦笑を浮かべる。
夕食時にもツバサはあれもこれも食べて! とこちらの皿に料理を寄越してきたが、中にツバサの苦手な香草が紛れていたのはご愛敬だ。
「修行はどう? ツバサ」
「面白い! どんどん息の仕方が分かるみたいなカンジ!」
ツバサの例えに、ラヴィニアは微笑む。魔術を学び始めた頃に、自分にも覚えのある感覚だった。
「ブライトンが何か変なこと言ってきたら、すぐ教えてね」
「うん」
「あ、ギルにも何か嫌味を言われたりしてない? 大丈夫?」
「大丈夫」
ラヴィニアはツバサの黒髪を撫でながら眉を寄せる。するとツバサはふふっと笑った。
その笑顔に含みを感じて、ラヴィニアは紫の瞳を瞬く。どこか大人っぽい、それこそいかにも聖女らしい慈愛に満ちた笑みだったのだ。
「あのね……内緒にしておいてって言われたんだけどね、私はお母さんのこと大好きだから、教えてあげる」
「んんー? なぁに?」
大好きだから秘密を教えてあげる、だなんて娘の可愛い言葉に、ラヴィニアは途端やに下がる。
寝室には二人しかいないのに、ツバサは用心の為なのか単にその仕草がしたいだけなのか、両手を筒のようにして耳打ちの体勢を取った。にやにやと笑いながら、ラヴィニアもそちらに耳を寄せる。
しかし、告げられた言葉は思ってもみないことだった。
「あのね。あの時ね、ギルさん、私に聖女しなくていいよって言ったの」
「え……?」
「騎士の自分が頑張るから、私は心配しなくていいよって。お母さんと二人で村に帰って、またこれまで通り暮らせるようにしてあげるって言ったの」
「……ギルが、そんなことを……?」
信じられない思いでラヴィニアが聞くと、ツバサは大きく頷いた。
結っていない彼女の黒髪が揺れて、サイドテーブルの小さなランプの灯りに艶やかに光る。
異世界から来た少女の黒髪はこの世界の黒髪とは違う輝きがあり、村で素朴な生活をしていてもツバサの髪にはしっとりとした艶があって美しい。
「じゃあ……じゃあ、ツバサはどうして聖女になるって、決めたの?」
ツバサの言う「あの時」とは、王城に初めて泊まった翌日の朝のことだったのだ。確かにあの時、ツバサはギルと二人で廊下で話していた。
てっきり聖女になるように懇願されたのだろうと思い、なんと大人気ないことをするのか、とラヴィニアはギルに対して怒りを抱いたものだが。
まさか、その逆だったとは。
「ギルは正式な訓練を何年も受けた騎士よ。しかも……私が知る限り、この国で最も強い騎士。彼に任せておけば、魔物退治に心配なんていらない、ツバサが聖女をやらなくても大丈夫なのよ」
つい言い聞かせるように熱が入ってしまう。
王立学園で学ぶ者は皆、将来国と民の為にその力を使うことを期待して育まれ、そして自身もそうするつもりで学ぶのだ。
一般的な勉学は勿論、剣術、魔術、錬金術や政治学などあらゆる方面の知識を吸収し、それぞれの特性を活かして国に貢献し、世界をより良くしていくことを胸に卒業していく。
ラヴィニアやギル、ブライトンもそうだった。彼らは皆同窓生だ。
それぞれ得意な分野は違ったが、皆希望と将来への夢を抱いて研鑽し、卒業後は国の為に働き世界を良くしていくことを誓い合った。
ラヴィニアの夢は魔力貯蔵器官を失ったことで潰えたが、ギルやブライトンは今もその為に国に仕えている筈だ。だからこそ、自分達が楽をする為に幼い少女を戦場に出そうという二人にラヴィニアは怒りが爆発してしまったのだった。
勿論聖女の手を借りれば、魔物退治も土地の浄化も随分楽になり時間も短縮されるだろう。それは魔物の脅威に脅かされている民にとって、救いになると分かっている。
だが、その楽を、あの二人に選んで欲しくなかったのはラヴィニアのエゴだ。自分ではもう叶えられないことを、その実力のある二人には諦めないで欲しかった。
だって、彼らは本当に優秀なのだ。ラヴィニアの自慢の同期だ。
そして、もしラヴィニアが力を失っていなければ、ツバサが娘でなかったとしても幼い少女に戦場に出て欲しい、などと絶対に頼みはしない。
「あのね、私ね、本当は聖女じゃなくて騎士になりたいの」
ツバサはにこにこと微笑んで言う。もうかなり眠いのだろう、笑顔も言葉もとろんとしていた。
「え、聖女じゃなく騎士……? 剣術を習いたいの?」
「ちがうの、守りたいの」
戦うのではなく守るのならば騎士よりも聖女の方がよほど適任のように感じて、ラヴィニアはますます首を傾げる。
眠りに片足を突っ込んでいるツバサは、ラヴィニアには詳しく説明してくれずふにゃふにゃと笑って、守りたいの、と繰り返す。
「ギルさん。あの人、お母さんのお母さんみたい」
「私のお母さん……?」
また突飛なことを言われて、ベッドに横たわったままラヴィニアは困惑する。上等なシーツが頬に触れて、ひんやりとした感触が心地いい。そんな母を余所に、ツバサはいよいよ軟体動物のようにシーツにふにゃりと身を預けた。
「お母さんはいつも私を見てくれてるでしょう? 転ばないか、泣いてないか、お腹が減ってないかって」
「そうね」
思わずクスッ、と笑ってしまう。
可愛いツバサはいつも元気一杯にちょこちょこ動き回るので、目が離せなかった。ツバサの小さな鼻をくすぐると、彼女はきゃっきゃと笑う。
「あの人もそう。お母さんのこと、いつも心配そうに見てる」
「え……」
「私とも一緒……お母さんのこと大好きだから、いつも一緒にいたいのね……」
そう言ってツバサはもう一度ぎゅっとラヴィニアを抱きついた。そのまま、まるでスイッチが切られたかのようにすやすやと眠ってしまう。
「ええ……? もう……なんてこと言うのよ、この子は……」
上掛けをしっかりと肩まで掛けてやって、ラヴィニアは溜息をつく。
おねむの子供の言うことは支離滅裂で、ラヴィニアには理解出来なかった。きっと明日の朝に意味を訊ねてもケロッと忘れてしまっているのだろう。今までにもよくあったことだ。
だがギルの話をしたというのに、今のラヴィニアには彼と対峙している時のような緊張感も剣呑さもなかった。ツバサの真っ直ぐな言葉は心にスッと入ってくる。
「……うん。まあ……心配は……してそうよね」
ギルは厳しいし嫌味な物言いをするが、根は優しい男だ。おかしな形で自然消滅し気まずく別れたとはいえ、一度情を交わした相手を放っておけないのだろう。
しかしだとしたら、ツバサを戦場に出したくないと主張するラヴィニアに、何故ギルは何も言って来ないのだろう? 自分もそう考えている、と告げてくれていたら、ここまで拗れていない筈だ。
告げられない理由でもあるのだろうか? 当の聖女ではないラヴィニアには、いう必要がないと?
「……なによ、言ってくれたら、私だって……」
つい、ラヴィニアは子供のように唇を尖らせる。彼のことを考えると、途端冷静な考えはどこかへ行ってしまい、子供のような頑是なさが顔を出すのだ。
とはいえ五年前のことは仕方がなかったと分かっている、と自分から言ったのにいつまでも彼相手にツンケンしていては説得力がない。
あの時の惨めで悲しい気持ちを捨てることはまだ出来ないが、せめて大人として母として、ツバサに恥ずかしくないように振る舞おう、とラヴィニアは心に決めた。




