80.恋愛手引書を貰えませんか?
今度こそ本当に地上へと帰還し、でもまだ羞恥に悶え踞るローズマリー。
その気配を辿り直ぐに現れたシェリーはそんな踞るローズマリーを見て慌てるが、「ぃやぁああ……」と真っ赤な顔を両手で隠して呻く半身の姿に今度は戸惑う。
だけどその横、その背に向けて「ほら、ロージー。いい加減に顔をあげて、――ね?」と、宥めるような声をかける割には満面の笑みの男の顔を見てそれとなく状況を読んだ。
そしてため息と共に零す。『あーあ、結局は捕まっちゃたんだねー』と。
「二人とも、そのままでは風邪を引くぞ」
公爵がバスローブを手に声をかけてきた。
戻ったこの場所は、池へと張り出したガゼボのような場所。後で聞いたところに寄ると公爵の私室から続くプライベートなエリアらしい。
シェリーの慰めという名のお説教でやっと渋々と立ちあがったローズマリーはウィリアムにお礼を述べてバスローブを受け取る。
そして同じく濡れそぼった姿のトリスタンを見て僅かに苦笑を浮かべたウィリアム。
「伯爵、ほら君もだ。 それと教会の者が来ていたようだが今日は引きあげてもらったが?」
「ええ、それで構いません」
教会の者とはきっとブランのことだろう。彼は無事だったようだ、良かった。当事者の男達はどうなろうと知ったことはないけど。
少し場を離しそのまま会話を続ける二人。ウィリアムがたてた笑い声に何事かと視線を向ければ、トリスタンと目が合い慌てて逸らす。
だって…、ほらっ、まだ、ちょっと……。
逸らした先にあったのは、今度はセクアナの青い湖面のような瞳。未だに少しばかり挙動不審なローズマリーの態度に可笑しそうに目を細める。
「ふふ、何だか懐かしい」
「……懐かしい?」
「ええ。 私にもそんな時期があったから」
え? どういう意味だろうか?
『あんまり変な方向に焚きつけないで下さいね。ロージーは迂闊なんで』
「何よシェリー、どういう意味よ?」
『そのまんまの意味だよ』
澄ました顔で答えるシェリーに、ムッと顔をしかめる。フフフと笑うセクアナはその軽やかな笑顔のまま告げた。
「いつか必ず終わりは来るわ」
「―――え?」
唐突に告げられた内容に一度目を瞬かせた後、ローズマリーは怪訝に首を捻る。
―――終わる? それは、何が?
「永遠は、黄昏なきものは、もうこの世界にはないわ。全てはいずれ終わる。それは私も、貴方達も」
『…………そんなのっ…、グリッセル湖を捨てればいいじゃない』
苦く絞り出すようなシェリーの声にハタと思い出す。徐々に小さくなりつつあるこの湖の話を。
いずれグリッセル湖はなくなるだろう。その意味するとこは。
だからこそのシェリーの代案に、でもセクアナの意図するとこはそこではないようだ。違う違うと首を振る。
「そうじゃなくてっ。 私は終わる世界をもう受け入れてるのよ? だからと言って勝手をされるのは我慢が出来なくてローズマリーと彼を巻き込むことになってしまったけど……」
それについてはごめんなさいねと、セクアナは言う。
「後悔をね、今は増やす必要はないんじゃないかしらって。 だってまだ間に合うのだから。同じ時、同じ時間に彼はいるのだから」
でもむしろそれは彼の方がそう思ってるかも知れないわね。と、青い瞳は話す男達へとチラリと流れる。
ああ…、そうか。セクアナの言葉は、完全にわたしに向けてのものだ。
確かに、いつかの日にトリスタンはそんなこんなことを言った。
―――君は今ここに居る、俺の手の届くとこに居る、と。
「でも貴方にはまだ終わりは見えない。なら、取るべき行動なんてひとつだわ」
「……それが、相手に害になることとなっても?」
「害……? どういう意味かはわからないけど、他者と関わるということは必然的に相手に何らかの影響は及ぼすものよ。そしてそれが害だったとして、ただ貴方が感じたことを相手もそうだと感じるとは限らないわ」
「………………」
「心なんてね、推測するより尋ねる方が早いし簡単なのよ」
「…………セクアナは……、」
ローズマリーは一旦言葉を切り、少しだけためらった後に尋ねる。
「……セクアナは、公爵様が好き?」
「ええ、もちろん」
迷うことなく返された答え。セクアナはとても綺麗に笑った。
いずれ終わるものだとしても今はまだ終わっていない。だからと言ってぐずぐずしていれば直ぐに失ってしまうだろうもの。
そして失った後の、終わってしまった後の、痛みを悲しさを苦しみを孤独を、わたしは知っている。
ローズマリーとしてはさっき一応の決心をしたのだけど、羞恥に悶え狼狽える姿はそうとは取られなかったようだ。
「ありがとうございます。 大丈夫です、きちんと向き合います」
苦笑を浮かべ、でもきっぱりと答えたローズマリーに、セクアナは美しい顔を綻ばせ、シェリーはちょっと拗ねたように言った。
『……やっぱり焚きつけてるじゃん』
「それこそが君の答えなのだな」
「何がですか?」
「貴族としては尊ばれぬ激情」
受け取ったバスローブを羽織るでもなく、それで髪から滴る雫を拭うトリスタンは、読めない笑顔を浮かべる公爵を胡乱な目で見る。
「……………何ですか、それは?」
「いや私の知っている伯爵は、たとえ目の前で不測の事態や緊急を要する事柄が起きようとも、自らを省みず、ましてや本人自らが行動を起こす男ではなかったと思うのだが?」
「……………」
揶揄われているのだろう。このびしょ濡れ姿の意味するところを。
セクアナから聞いたのか、本人の推測か。
先日の会話もある、この男に今さら自分を取り繕う必要などないことはわかっているけれど、心情的に何となく。
「最適を選んだだけです」
無難にさらりと答えたはずだが、「まぁ、それでもいいが」とウィリアムは短く声をたてて笑い。
いらぬことを言ったと、公爵相手に流石に舌打ちはどうかと代わりに小さく息を吐いた。
そんなトリスタンの視界の端に、自分にとって唯一の、かけがえのない緑の煌めきを捉えて視線を向ければ、愛しき少女が慌てて顔を逸らすのが見えた。
その顔はやはりまだ赤い。
トリスタンは苦笑を浮かべる。だだしそれは大量なる糖分を含んだ。
言葉として出されたわけではない。けど、彼女は落ちた。
やっと自分の腕の中に落ちて来た愛しい少女。
絵の中に存在するだけだった少女が、今自分の側にいて、触れることも、ぬくもりを感じることも出来る。
そしてその全てを、拐い奪うことも。
( …………いや、それはまだ性急か…… )
止めどなく沸き起こる欲望に自嘲が浮かぶ。
やっと手に入れたんだ、逃がしはしないが今はまだ自重しよう。
だって時間はまだまだあるのだ。
決断を迷うはずがない。見逃すはずがない。 そう、恋焦がれたものが手に入るのなら別に人としての理から外れようとも構わない。
「………伯爵…、言ってはあれだが、酷く悪い顔をしてるぞ?」
「彼女が見ていないので構いません」
「そうか」
「ええ」
呆れ声のウィリアムの指摘に、彼が言うとこの「悪い顔」な笑みを浮かべたトリスタンは、当然のようにそう答えた。




