78.気持ち綴るフーガ
咄嗟のことで息を止めることも出来なかった。 ゴボッと吐き出した息が赤く澱んだ水の中に盛大な泡を作る。
( ウソでしょっ!? )
パニックとまではいかないでもやはり焦る。
兎に角水面へと向かわなければならないのだが、何せ引きこもりなんだから泳げるはずがない。
泳ぎを知らない体はもがくだけ。そしてもがく程に体は沈む。どこまでも沈む。
( この湖ってこんなに深かったっけ!? )
昨日今日と散策した時は微かに底が見えていたはずなんだけど。と、そんな今はどーでもいいことが浮かぶ。
うん、いわゆる現実逃避だ。だけどそれで状況が好転するわけがなく。
苦しい。息を吸おうと口を開くも入るのは汚された赤い水だ。
ガフッっと水を飲む。意識が混濁する。
だとしてもわたしが死ぬだろうことはきっとなく、ただひたすら苦しい。
一層意識を無くす方が楽なんじゃないだろうか。既に色んな感覚は曖昧になってきているのだから。
そんな遠ざかりつつある意識の中、くぐもった水音が近くでなった―――、気がした。
ぐいっと引っ張られ、体が浮上する。押し付けられた口元から息苦しさが少しだけ解消されて、閉じていた目を開けば霞んだ視界を掠めた金と紫。
濁った水の中でも直ぐ間近であればわかった。
( ―――トリスタン…、さ、ま……?
……………なん、で……っ!! )
「―――ぐ……っ、ゲホッ、ガホッ! ……ハッ、ハ……ッ」
急激に肺を満たした空気に噎せて、しこたま飲み込んだ水を吐き出した。
はぁはぁと肩を揺らし、濡れて頬に張り付いた髪を乱暴に払いのけたローズマリーは掠れた、でも強い声を絞り出す。
「…………なんで……っ!!」
「ロージー? 大丈夫かい」
直ぐ隣で、同じく濡れた淡い金の髪を掻き上げ、ローズマリーが声を発したことの安堵と、同時に気遣うようにこちらを覗き込む男をキツく睨み付ける。
「貴方は馬鹿なんですか!? どうしてっ!!」
「ロージー、取りあえず落ち着いて。ゆっくり呼吸を――」
「してますっ、し、大丈夫です! それよりもっ! どうしてトリスタン様まで飛び込む必要があるんですか!?」
助けてくれた相手に、肩で息をしながらもそう捲し立てるローズマリーにトリスタンは困ったように少し眉を下げて、
「どうして、と聞かれても……。 体が勝手に動いたとしか?」
それについてはそうとしか言えないと、理由は単純だけどと、トリスタンは答える。
理由―――。
そんなのはもう今更で疑うことも間違えることもない。
トリスタンが飛び込んだのはわたしの為だ。
わたしの、せいだ。
だけども。
「別にトリスタン様がそうする必要なんてないじゃないですか! きっと暫くしたらシェリーが何とかしてくれたと思うし、前にも話したようにわたしがそんなので死ぬことなんてないんだから! むしろトリスタン様の方が……っ」
人間なのだから。簡単に、命なんて、儚く散る存在なのだから。
睨み付けるローズマリーの瞳からはぼろぼろと涙が零れ落ちる。
わたしの感情が暴走してしまって収拾がつかなくなっているのは、つまりはそういうことだ。
―――そう、わたしは、
彼を、トリスタンを失うことが怖かった。
それが何故かなんてことこそ理由は明確。
彼はきっと躊躇うことなく飛び込んだ。
でもこの湖にあの時渦巻いていたものは人間への嫌悪で。それはトリスタンへ向けてのものでは無かったとは言え、突発的な力の行方などどこへ向くかなんてわからない。たまたま彼を避けただけ。
「人間なんて弱いし簡単に死ぬんだよ! トリスタン様は馬鹿だ! わたしはわたしの為の犠牲なんて欲しくない!」
それはもう二度と欲しくないもの。
シェリーは戻って来てくれた。けどただの人間であるトリスタンは無理だ。
「……ロージー…」
「触らないで!」
伸ばされた手を払う。
それでも伸ばされた手がわたしの手首を掴み。引き寄せられた。
二人共濡れたままだ。強く抱きしめられ、その濡れた布越しに温かな体温を感じた。
トクン、トクンと、心音が聞こえる。トリスタンが生きている証拠。
彼がわたしを求めるなら、それに答えても、求め返してもいいのでは?と、何度となく心の奥底で思った。
人間の生を捨てることになると言ったシェリーの言葉。
だけどそれはこの規則正しく刻む音を、トリスタンをそう足らしめるものを失うことなのではないのだろうか?
トリスタンを失うことが怖い。
彼が、好きだから。
「触ら、ないでっ、……離して…っ!」
腕を張って男の胸に額を押し付け開けた隙間に、ドンと拳を振る。何度も。
これじゃあ、ただ癇癪を起こしている子供だな、という自覚はある。しかもこんな状態では、わたしの言葉と行動の意味、全てが相手に筒抜けだということも。
現に「ロージー?」と、わたしの名を呼ぶトリスタンの声は甘く。
だけどそんな気持ちが完全にバレているとはいえ、わたしは今怒っているのだ。
「離して、って言ってる!」
体格の差か、隙間を開けて尚トリスタンの腕はまだわたしの背をぐるりと囲う。
「うん、そうだね。ロージー、顔を上げて?」
いや、おかしくない? その返し。
ローズマリーはトリスタンの胸に額を押し付けたまま唸る。
「……わたし、怒ってるんですけど!? 貴方の軽率な行動に」
「うん」
「うん、じゃないんですけど?」
「ああ」
返事を変えただけじゃないか。
背に回っていた片方の手が俯いたローズマリーの頬に沿う。
「ねぇ、顔を上げて、こっちを見て」
「嫌です! トリスタン様なんて嫌いですっ」
「うん。でも俺は君が好きだよ」
「――そ、そんなことっ! ………知ってますよ…」
もう充分に、そんなことは承知なのだ。だから困る。
シェリーが言ったように、トリスタンはわたしが望めば迷うことなく選ぶだろう。
何かを失うことになっても。自分自身を失うことになっても。
それはただの妄執だと思う。
だけどもやっぱりそれもわたしの「せい」なのだ。
頬に添えらたトリスタンの手に僅かに力が込められて。ローズマリーは一瞬の抵抗の後、ゆるゆると顔を上げた。
見下ろされるのは、甘く緩やかな笑み。
また魅せられる。
―――逃げたい、怖い。
でもここままで。側にいて欲しい。
「ロージー……」
甘く、甘く囁く声が降りてくる。
そっと閉じた視界の中、さっきまで間近にあった宝石のような紫が揺れ、熱い吐息が唇に触れた。
色々と葛藤中。
あと五話くらいかな?(たぶん)




