73.夏の夜、月は湖に沈む
トリスタンは完全にわたしに向き直り、見下ろす紫の瞳に視線を奪われて。
ローズマリーの心臓はひどく逸る。
暫くして、フッと緩められた眼差しに絡めとられていた緊張は幾分解けるが、胸の鼓動は収まらない。
「本当に、……何なんだろうね…」
呟くトリスタン。
いや、それはこちらが聞きたい。
「でもしょうがない。俺は君のことを諦める選択肢なんてないんだから」
やっぱり業だよね。と、よくわからないことを呟きながらトリスタンの手がわたしの頬へと伸びる。
風ですこし冷えた頬に触れるぬくもり。
怖いと感じているはずなのにそれを振りほどくこともせず、ただ見上げることしか出来ないローズマリーに、トリスタンが少しだけ困ったように笑った。
「ロージー……、そんな顔をされたら止められなくなるんだけど?」
「………」
ローズマリーは返す言葉なく黙る。
わたしが今どんな顔をしてるかなんて見れるはずがない。でも、どうして今こういう状況になっているのかはよくわからないまでも、これがどういう状況かはわかる。
そう、きっとわたしは魅入られた。
トリスタンがゆっくりとこちらに身を屈め、彼の肩越しに見えた月。いつかのいばらの森で見た光景と同じ。でもあの時と今では二人の関係は随分と変わった。
それはわたしの気持ちも。
だから何も言わずにただ見つめる。
今夜も、月の周りを取り巻く空は綺麗な紫紺。髪と同じ月の色に光る睫毛は数えれそうなくらい近くで、揺らめく瞳。
ああ、なんて綺麗な。いや、怖いくらい綺麗な。
それはさっきトリスタンに説明したグリッセル湖と同じ。ちょっと違うと言えば違うんだけども。
――そう、怖いと感じた気持ちはきっとそれ通りの意味ではなく。
聞こえるんじゃないかと思うほど鳴る鼓動が痛い。
( 心臓もたないかも…… )
「ロージー……」
吐息のように小さく囁かれ、甘く細められた瞳の熱から逃れるように目を閉じた。
閉じたことで余計に自らの鼓動を感じる。
本当に壊れそうなくらいだ。
( え、これ大丈夫? わたしの心臓… )
などと思ってしまう。
ついでに言うと熱さえ感じる気がする。
―――熱いと。
( ん? ……いや、なんかホントに熱くない? )
同時に。閉じた視界の向こうで、トリスタンが一瞬戸惑った気配を感じて。
ぱちりと目を開くと熱いと感じた胸元で赤い光が弾けた。
光は二人を包み、その光源はローズマリーが着けたペンダントから。
でもそれは嫌な感じのものではなく。
「――は!? ……何これ?」
驚くローズマリー。 とは違い、トリスタンはひどく不満げな顔で、苛立たしげに小さく舌打ちをして身を離す。
その隙間を埋めるべく、広がっていた赤い光は急速に収束してひとつの形を作った。
『ロージー!』
それが声を発する。
「え…………シェリー…?」
目の前に現れたのは自分と同じ、だけど少し透けた姿の半身。ただし瞳の色はローズマリーの胸元に揺れるペンダントと同じ紅玉。
そのシェリーがわたしを心配そうに見て言う。
『ねえ、大丈夫だった!?』
「だ、大丈夫って……? ――いや、それよりっ、何でシェリーがここに!?」
『んー…だって、その石はわたしの欠片だもん。わけないよね?』
なんてことはないように言うシェリーは、今は光ることもなくなった胸元の赤い石にちらりと視線を送った。
「どういうこと?」
わたしは説明下手だが、そもそもシェリーは説明不足だ。
『同じものなんだから繋がってるってこと。今はね、肉体の制約がなくなって結構色んなことが出来るようになったの。石から石への移動や、もちろん声だけを届けることも出来るよ』
「へえ」
驚きを忘れてちょっと感心する。前に見たテレフォンみたいだ。それに移動もだなんて。まぁこれはシェリー限定だろうけど。
『そんなことよりもホントに大丈夫なの?』
また繰り返されたシェリーの問いにローズマリーは今度こそ首を捻る。
さっきから、大丈夫とは何だろう?
だけどわたしが尋ねる前に不穏な声が響く。
それはトリスタンから。
「お守りだと言わなかったか?」
『そうだよ、お守りだよ? ロージーに危機がせまったと感じたらこっちにも分かるようになってるんだから。ちゃんと説明したじゃない』
ゆっくりと振り返ったシェリーが言う。
「危機?」
『そう、危機。危険でもいいけど』
「今、ロージーに何か危険があったと?」
『さあ? でもロージーの心臓はそう感じたみたいだよ。ふふ、仕方ないよねー』
シェリーの声は何だかとても楽しそうで、トリスタンはひどく渋面となった。
そこに口を挟むのは何となく気まずく。
ほら…、うん、色々と、今は。
なので、むぐぐと口をつぐんでいたら、またこちらをくるりと向いたシェリーが「さ、ロージーの部屋に帰ろ?」と、やはり晴れやかな笑顔で促す。
通り過ぎる間にちらりと視線を送ったトリスタンの顔は渋面のまま。
だけどローズマリーと目が合えばそれは少し和らぎ、口の端にフッと小さな笑みを作って。
再びドキリと鳴った心臓にローズマリーは慌てて目を逸らし、シェリーの後を追った。
部屋に戻って。何気ない素振りで窓の外を覗くも、隣のバルコニーにはもうトリスタンの姿はない。
『ロージーってば、迂闊だよね?』
「―――え?」
掛けられた声に振り返れば、ソファーの背もたれの上に腕を組み、顔を乗せたシェリーが難とも言えない顔でこちらを見ている。呆れ? 同情?
『それか、やっとあの人間が好きだということを認めることにした?』
一瞬の空白。後に驚くローズマリー。
「は…―――ええ!?」
『何? 別に驚くことじゃないよね? 伯爵本人だって、そんなの気づいてるでしょ?』
本人が望まなくてもこういうことに関しての経験は豊富だろうし。とシェリーは言う。
それは、確かにそうだと思う。
シェリーに言葉にされてしまった想い、わたしの中で形を持ってしまった想い、それを向けられることなどトリスタンにとっては日常で。
わたしが既に、トリスタンにその想いを抱いてしまっていることだってきっと知ってる。
だけどそれを完全に認めること出来ないでいるわたしの気持ちも、理由も、多分わかっている。 だから口には出せない。
「…………それは、そう、だろうけど……」
今回のは流されてしまいそうになった自分が悪いのだ。
口をつぐんだローズマリーを見て、シェリーの呆れまじりのため息が落ちる。
『まぁ、別にわたしはどっちでもいいんだけどね。伯爵の肩を持つつもりなんて更々ないし。 でもロージーは一度ここの幽霊さんと話してみたらいいかも』
シェリーの言葉にローズマリーは上目遣いで口を開く。
「………どういう意味?」
『さぁ? わたしからはこれ以上は何も言わないよ。伯爵の肩を持つつもりはないって言ったでしょ?』
「何それ、ホントに意味わかんないんだけど?」
『なら仕方ないよねー』
と笑って、話しは終わりとばかりにシェリーは姿勢を元に戻した。
( ………何さ、シェリーのイジワル… )
膨れっ面でローズマリーはまた窓の外へと視線を向ける。
魚でも跳ねたのだろうか? 月明かりを受けて淡く輝く湖面には、幾重にもの丸い波紋が広がっていた。




