65.どうしてこうなった?
再びカップへと視線を向けたトリスタン。膝に腕をおいた姿勢は最初と変わらない。なのに今は肩を落としたように見える。
ローズマリーはそれを無言で見つめる。
トリスタンは、だから体を鍛えているのだろうか?
不安だからと、弱さを隠す為だと前に言っていた。
体を鍛えることで心も鍛えられるという。
何でもそつなくこなすトリスタンの脆さを見た気がした。
「まぁ、でも終わったことだよ」
ふいにトリスタンが言う。
「今ここで自分を責めたとしても誰も生き返るわけでもないし、それはあの男を責めたって同じ。憎む気持ちは消えやしないけど、顔を会わせなければどうってことはない」
嫌いな奴のことをわざわざ考えるなんて無駄だし勿体ないだろ? と、トリスタンは笑う。
「トリスタン様は―――…」
「――ん?」
「…………、…いえ、何でもないです」
( トリスタン様はやはり強い )
さっき少し見せた脆さを、彼は自ら認めている。 認めた上でそれを乗り越える為の強さを選んだ。
長い年月をウダウダと費やしたわたしとは違う。
ローズマリーは小さく息を吐き、また紅茶のカップを手に取った。紅茶は冷めていて、それはそれで美味しいけど。
「お茶入れ直しましょうか?」
尋ねれば、トリスタンは首を振る。
「いや、もう冷たくてもいい時期だよ」
と、立ち上がると窓へと向かい閉めた窓を開けた。
夜の風がローズマリーの頬を撫でる。
それは森とは違う様々な匂いを含んでいて。決していい匂いとは言えないけど、どこか懐かしい感じがした。
「そう言えば、ナルってばまだ帰って来ないじゃん」
直ぐに帰るといった割には、窓の外は既に充分に暗い。
こっちが色々大変な目に合っていたというのにまだ買い物に夢中なのだろうか。
窓辺に立っていたトリスタンがゆっくり振り向いて尋ねる。
「……ああ、出かけていいってロージーが言ったんだっけ?」
「お菓子を買いに行ったんですよ。ナルって甘いものに目がないから。戻ったらみんなで食べようと思ったのに、もう夕食の時間じゃないっ」
「………へえ…」
戻って来ないナルにぶつくさ文句を呟くローズマリーは、急に雰囲気を変えたトリスタンに気づかない。
トリスタンが窓から離れてまたローズマリーの横に戻った。一人分空いてた隙間を埋めて。
「さっきはきちんと話し出来なかったけど……」
「―――え?」
………いや、近くない?
しかもトリスタンは斜めに腰かけて完全に体はこちらに向いている。その片手はわたしのソファーの背後を回る。
「ち、近いですよ!?」
「そう?」
そのままを口にしてみたが、トリスタンにはどこ吹く風で、更にずいっと身を寄せた。
「で、続きだけど」
「――はっ!? えっ!?」
「少年もいるし、鍵も開けないって約束だったよね?」
「え………? それは終わった話し、ですよね? 」
「いや、あの場では保留にしただけだよ」
「………」
いやいやいや、何それ?
そんなの知らないし。それよりホント近いって! しかも、身を引こうにも後ろは手すりだった!
動揺したローズマリーは必死に身を反らすがその隙間さえも直ぐに埋められる。
目の前のトリスタンは少しだけ眉間にシワを寄せて、でもそれは咎めるようではなく、どこか甘くひそめられるような。
口端も微かにあがり、そこからため息と共に零れるのも非難と言うには甘い声。
「帰ってみたら玄関は空いてるわ、めんどくさい男は君に手を上げようしてるわ、おまけに少年もいないって……。
ねぇ、どういうことだろ? ロージー」
「―――わわ、わっかりませんよ!!」
トリスタンを押し退けながらあげる声は悲鳴に近い。
「そ、それよりっ! それより、トリスタン様だって、どういうことですかっ!?」
「………ん?」
「恋人って……っ! なんか噂になってるそうじゃないですか!?」
動揺のままに返せば、その言葉が口から出た。
でもそれは余計な事だったみたいだ。
トリスタンは「ああ、それね」と何でもないことのように呟くと、反対の手を今度はわたしの退路を阻む手すりに置いた。
つまり完全に囲まれた。
後ろにも横にも逃げられない。
( え? 何これ? どういうこと!? )
完全にパニクるローズマリーを気にすることなくトリスタンは凄くにこやかな笑顔で続ける。
「でも僕にとっては嬉しい噂だけど?」
「へっ?」
「だって僕は君が好きなんだから」
「――あっ、いや……そう、ですよね…」
「そうだよ」
背凭れに回っていた手がわたしの髪を取り玩ぶ。
「ト、トリスタン様?」
「何?」
「あの……」
「ん?」
何なんだこれ……。
目の前の男はとても甘やかな顔でわたしを見ている。それがもの凄くいたたまれない。
しかも逃げられないの板挟み。
さっきまでの話の続きはどうなったんだ?
「ズルいですよ……」
「うん、好きだよ、ロージー」
会話にさえなっていないじゃないか。
髪を弄っていた手が今度は頬へと伸びる。
徐々に詰める距離に、ローズマリーがそれを拒むことはない。
「ホント…、ズルいですよ」
そんなわたしを見つめトリスタンが緩やかに笑った。
トン、トトン――と、
軽く玄関の扉が叩かれたのはそんな時。
すぐ間近にある紫の瞳を見つめ、ローズマリーは一度ぱちくりと目を瞬かせた後、今度はギクリと体を固くする。
( また、あの不快な男が!? )
と思ったが、聞こえたのは、
「マリー、遅くなってごめんっ」
鍵開けてよと、ナルの声。やっと帰ってきたようだ。
鍵はトリスタンがまた掛けたのだろうか? ホッと息を吐き、開けに行こうとまだわたしを囲っている男を見れば、トリスタンは俯き何やら小さく唸っている。
「何でこのタイミングなんだ…? 嫌がらせか……?」
「トリスタン様?」
ローズマリーの呼び掛けにトリスタンは深い深いため息をついた後、手すりに置いていた手を外した。
そこから抜け出したローズマリーは玄関に向かう廊下で、改めて急激に赤くなってるだろう顔をパタパタと手で扇ぐのだった。
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