63.さっさと退場願います
「ホント……、心臓が止まるかと思ったよ…」
「大丈夫ですよ? 殴られたぐらいではわたしは死なないと思うし、多分……痛いだろうけど」
「そういう、ことじゃないだろっ……」
「うん、ですよね。 ごめんなさい」
声を揺らし、まだ少し肩で息をするトリスタン。
さっき微かに聞こえた馬車の音と彼がこの部屋までたどり着いた時間を考えれば、きっと三階までを駆け上がって来たのだろうと思う。 なのでここは素直に謝っておく。
はぁ。と息を吐き、見下ろされた紫の瞳には安堵の色が見えるが、視線はゆっくりと細められる。………うん、ちょっとまずい。
「……誰が来ても無視していいって言ったよね?」
「――か、管理人さんに迷惑がかかりそうだったんですよっ。それにっ、ナルももう直ぐ帰ってくると思ったし……、最悪逃げ出せるように扉も少し開けてたでしょっ?」
「―――おいっ、」
「逃げなきゃならない状況が既にアウトだから、ってあいつ居ないの?」
「―――おい、聞いてるのか!?」
「わたしが出てもいいって言ったんですよ」
「やっぱり残るべきだったか……」
「いい加減にしろ!!」
その怒声に、二人してやっと声の主に顔を向ける。
振りほどこうにも外れない腕に、男爵はもともと赤かった顔をさらに赤くして、大層ご立腹のようだ。
「さっきから私を無視しおって……っ、早く腕を解け! トリスタン!」
わたしのことなど目もくれず、自分よりも少し高い位置にある息子の顔を睨み上げる男爵。 そんな父親の腕を掴み見下ろすトリスタンの表情は静かで、その感情は読めない。
そして静かな声が落ちる。
「……ああ…、やっとか……」
感嘆とも取れるトリスタンの口から零れた声にローズマリーは怪訝に眉を寄せ、男爵はなかなか解放されない腕に顔をしかめる。
「何を言ってる? さっさとこの手を離せ!」
トリスタンは僅かに口角をあげると、
「相変わらず、貴方は力で弱者を支配しようとするんですね」
そう言ってパッと手を放した。
かなりの力で掴まれていたのか、解放された腕を擦り一歩後退した男爵は憎々しげにトリスタンを睨み口を開こうとしたが、トリスタンが追うように一歩前に出たことで一瞬怯む。 そこに付け入るように。
「ところで。グレイフィッツ男爵――、」
父親である男を爵位で呼んだトリスタンはゆっくりと笑みを浮かべた。
「私は貴方をここに招いた覚えはないのだが? しかも今は疲れていて直ぐにでも休息を取りたいと思っている」
「――ハッ、私に出ていけと言っているのか!」
「それ以外にどう聞こえると?」
「生意気なっ! 父親である私に向かって!」
「ははっ、それを言うなら男爵、貴方は伯爵である私に向かって随分と横柄な態度だな?」
トリスタンの笑みは質を変える。
それは上に立つ者だけが持つことを許される笑み。
「お引き取り願おうか」
同時に。トリスタンが呼んだのだろうか? 数人の制服の男達が部屋に入って来ると、男爵を囲む。
後で聞いたところ、女王が作った警察と言う組織の人員らしい。
彼らは労働階級ながら貴族に対しても力を行使出来るらしく、抵抗むなしく引きずるように連れて行かれる男爵。従僕の男もおろおろしながらそれに倣う。
それをただ見送るトリスタンに男爵は諦め悪く声をあげる。
「トリスタン! お前は父親に対してこんな仕打ちをするのかっ!!」
返すのは、さっきまでの感情のない声とは違い酷く冷たい、だけど怒りに燻る声。
「父親……? 母さんを、そしてエミリアを亡くした今、俺に家族なんていない。
ましてや、お前が父親と名乗る資格などないっ!」
トリスタンが、どんな表情でそれを言い放ったのか、ローズマリーからは背中しか見えないのでわからない。
でもその背中からでも感じ取れるのは父親への拒絶と嫌悪。
そのままこちらを振り向くことなくトリスタンは一旦玄関の方へと向かい、騒がしい声はパタンと扉の閉まる音と共に消えた。
俯き戻って来たトリスタンは勢いよくソファーへと沈む。
流石に、声をかけていいものかとまごまごしていたらトリスタンがふいに顔をあげた。
それはもういつもの彼で。
「ごめん、変なとこ見せたよね」
そう申し訳なさそうに言うのでローズマリーは首を振る。
「わたしが部屋に入れちゃったから……」
「あはは、まぁそうなんだけど。でも何れはどこかで顔を会わせただろうから」
ふぅ。と息を漏らしトリスタンはソファーに背を預ける。組んだ両手を上に向け、それで視界を隠す。
いつもと同じだけどやっぱりいつもと違う様子にローズマリーはちょっと戸惑って、取りあえずお茶でも飲むかと尋ねる。
そのままの姿勢のトリスタンからは「……うん、お願い出来るかな…」と声が返った。
不快な男二人目に認定したトリスタン父に用意したカップやポットは引き揚げ、新たにさっきよりももっと丁寧にお茶を入れる。
今度は自分の分もトレーに乗せて部屋へと戻ればトリスタンはもう普通にしていて、部屋に入って来たわたしに自分の横のソファーをトントンと叩いた。
ここに座れってことだろうけど。 ……何でだ?
微妙な顔で立ち尽くすローズマリーにトリスタンはクスリと笑う。
「あのね、話を聞いて欲しいんだよ。でも面と向かって話すのが恥ずかしいから…、隣だったらそうでもないでしょ?」
「………はあ…」
ローズマリーは胡散臭げな顔になる。トリスタンの言葉、後者は絶対ありえない。そんな殊勝なことをトリスタンが思うはずがないのはその今浮かべている笑顔からしてもそうだろう。
でも今日はいつもと違うこともさっき見ていて知っている。 そして前者の言葉はきっと本当だ。
なので。トレーを机に置くとトリスタンの隣に座る。
一人分開けた隣、フォーマルな装いのトリスタンからは微かなアルコールと、彼がいつも纏うアンバーの香りがしてローズマリーをどぎまぎとさせた。
「知ってると思いますけどわたし、長く生きてる割には人生経験なんてこれぽっちもないので相談事には向きませんよ?」
話を聞くだけならできますけど?と、何となく早口でそう言えば、「それで充分だよ」とトリスタンは笑った。




