30.現実逃避を希望します
「ちょっと表面が焦げただけなら大丈夫ですよ」
珍しく肩を落としたようなトリスタンにローズマリーは言う。
「その表面を少し削ってもらえますか? その間にグレーズ作っちゃいますから」
「……グレーズ?」
男自身はやはり甘いものに興味はないのか、グレーズと聞いてもよくわからないようだ。
「んー、お砂糖の化粧みたいな? まぁそちらはよろしくお願いしますね」
簡単な説明だけして削る方はトリスタンに任せ、ローズマリーは材料を揃えてゆく。
粉砂糖とハチミツ、それと少しのミルク。 それからポケットにしまったままのレモンを上着から取ってくる。
レモンは表面をよく布で拭いて、皮を薄く削ぎみじん切りにする。中身は汁を絞り、揃えた全てを鍋に入れ火にかけた。
溶けて透明になるまでゆっくりとかき混ぜてから、それを表面の削られたケーキへとかける。少し残して置いたレモンの皮のみじん切りも忘れずに。
「出来ましたよ。これなら見た目もバッチシです!」
ドヤっと、焦げた痕跡などわからなくなったレモングレーズがけの蜂蜜酒ケーキを、ドンッとトリスタンの目の前に置けば、へぇと感心したように頷く。そして、「でもこれすごく甘そうだよね?」の声には取りあえず笑顔を向けといた。
ケーキが甘さたっぷりなので、ここはあっさりとダージリンのストレートティー。切り分けたケーキとカップを並べる。
二階にいる二人はまだ降りて来ない。なので先に席についた。
そして早速トリスタンが口を開く。
「あいつがロージーの恩人?」
「そうですよ」
「あの言い方であれば人ではないってことだよね?」
「あー……、そうですね。 ヴァルは狼なので」
「狼人間ってこと?」
「ちょっと違うかも。ヴァルは狼である方が本来の姿らしいので」
どうせ隠しても何れバレるとそんな話をすれば、男はふーん…という顔をする。
「どちらにしても人間ではないのか……」
「そうです! そもそも人なのにここにいるトリスタン様がおかしいんですからね!」
「はは…、そうだね」
「――ああ、そうだな」
最後の声は部屋に入ってきた人物から。
シャツとズボンと靴という最低限のものを身に付けたヴァンは相変わらず鋭い眼差しでトリスタンを見る。
「それについて俺も詳しく話が聞きたいのだが?」
空になったカップにローズマリーは自ら茶を注ぐ。さっきから部屋に充満する重圧な空気に喉が渇いてしょうがない。
ナルなんてケーキだけ持ってさっさと厨房へと逃げた。ずるい。
ナルにもある程度話しは聞いたのだと思うが、わたし達からの話を聞き終えたヴァルは沈黙を落としたまま。
いい加減たえられなくなって口を開こうとしたら、先にヴァルが深くため息を吐いた。
「人間とはやはりどこまでも傲慢な生き物だな……」
「………ヴァル?」
低く吐き捨てるような物言いにローズマリーはそろそろとヴァルを見る。だけど金色の瞳は目の前に座るトリスタンだけを見据えていて。その視線を受けているはずの男は、だけど気にする様子もなく優雅にお茶を飲む。
ある意味凄いなとローズマリーは感心する。ヴァルが放つ威圧感は半端ない。森の王者である狼そのものだ。わたしなんて完全にとばっちりだけど、もう逃げたい。ホントに。
トリスタンの態度についてはヴァンも同様に感じたようで、口の端を少し上げた。
「気にかけることもないか……。なかなか胆の座った人間ではあるな」
「それは誉めていただけたと?」
「いや、ただの感想だ」
「なるほど」
二人の視界にわたしは入ってはいないようだ。なので逃避するようにケーキを食べる。だけど折角美味しい(癪だけど)ケーキなのに、堪能することも出来やしない。
「ところで人間。お前が作った魔導具というものがあればどんな封じられた地にも人は入ることが可能なのか?」
「………可能、でしょうね。それに合わせていくらでも変更は可能なので。 それに俺がそれを作らなくても何れ誰かが作るでしょう。 人は未知のものに恐怖しながらも惹かれる生き物だ。きっとそれが性なのかと」
「今の言い方で言えばお前は作る気はないと?」
「ええ、これ以上もう必要ないので」
「これ以上?」
問われて。トリスタンは柔らかな笑みを浮かべてわたしを見た。頬張っていたケーキが喉に引っ掛かる。
「いばらの森でずっと会いたかった人に会えた。だからもういい。 俺の未知の地への情熱はその為だけにあったのでこれ以上はいらないんですよ」
ああでも、ものへの探求は捨てはしませんが。と、ちゃっかり付け加えるとこは流石だ。
そのトリスタンの視線を追ってヴァルの視線もわたしへと流れる。何か言いたげに細められる瞳。
何だかとってもいたたまれない。なので。
「あ、わたし、ナルと夕御飯の話ししなきゃいけなかったんですよね!」
すごく下手くそな言い訳であるが仕方ない。これはもう不可抗力だ。
ローズマリーは「ヴァルも食べていってね!」と言い残しそそくさと席を立った。
そして残された男達。
「――…ヴァル、ね。なるほど、狼の王ですか?」
声は冷たく低くなる。
「………?」
「ヴァナルガンド、北欧の神話の狼。狼人間ではないのでしょう。ああ、それかリュカオンですか?」
「ほぅ、そんなものよく知っているな。
……しかし、そんな話を信じるのか?」
「この場所ではあり得ないこともないでしょう」
その即答に、向けられた皮肉な笑み。
「…………――ふ、滑稽だな」
「……何?」
「もうひとつの世界を暴いた男がそれを言うのか」
「……? それは……?」
「覚えておけ人間。俺やローズマリーを殺すのはお前だ。お前が俺達をヘルヘイムへと送る」
金の瞳には何の感情もない。ただ事実を告げるのみ。
「は…、何を言ってる……? 俺が? 何故…?」
「何れわかるだろう」
男はそれだけ言うと少女と同じく席を立った。
そして、最後に残された男。
「俺が……、彼女を? あり得ないだろう…」
トリスタンのその呟きに返すものはいない。




