29.甘い匂いは不穏と不審
家が見えて来たところでヴァルの歩みが止まった。
「ヴァル? どうしたの?」
グルルと小さな唸り声を上げて何故か慎重に家と近づくヴァルに尋ねてみる。時折匂いを嗅ぐような動作をするのでローズマリーもそれに倣ってみれば、冬の冷たい空気に混じるのは甘いバターの香り。
( ナルがケーキでも焼いてるのかな? )
そうこうしてるうちに家に着き、ローズマリーはヴァルから降りると玄関の戸を開けた。 途端、焼き菓子特有の甘くとてもいい匂いが強くなる。
そこに微かに混ざる蜂蜜酒の香り。今回作ることが出来なかった蜂蜜酒のケーキを焼いてくれているのか?
丁度よい、ヴァルもいるしお茶の時間にしよう!と、家の中へと入ろうとしたら後ろにグイッと引かれた。
振り返れば服の裾を咬んで引くヴァルがいる。
「ヴァル? どうしたの? ナルが蜂蜜酒のケーキを焼いてくれてるみたいだよ。一緒にお茶にしようよ?」
だけどヴァルは服を離そうとしない。なのでローズマリーは眉を下げる。
そこに「マリー? 戻ったの?」と声がして、居間の扉が開きナルが顔を出した。
「あのさ、今―――、…………は!? ヴァルさん!?」
こちらを見て暫く固まり、次に驚いたナルが駆け寄る。
その顔はさっきヴァルと会った時のローズマリーと一緒だ。
「何で!? いや、何でもいいけど、スゲー嬉しい! 今回は長く居るですか!」
そしてテンションも言葉もほぼ一緒だ。
気持ちはわかるよと、ウンウンと頷く。
その勢いに押されて服を離したヴァルに、ナルはまだ興奮気味に話しかけて。ローズマリーは先に居間へと足を進める。止めるように低く唸るヴァルの声を背に聴きながら。
居間でぐるぐる巻きの服を脱いでから、ケーキを確認しようと厨房へと向かう。
そしてナルではないがそこで固まった。
そうだ、すっかり忘れてた。
「やあ、お帰りロージー」
入ってきたローズマリーにそう話すのはトリスタン。
「今ね、前に君が言ってた蜂蜜酒のケーキを作ってみたんだ。もうすぐ焼きあがるとこだよ」
初めて作ったからどうだろうか?と、厨房に充満する匂いと同じ、甘い笑顔をローズマリーに向ける男。
「戻ってたんですね……」
「うん、今朝列車でプレタに着いてね」
「でもここまでの道中も雪で大変だったのでは? 王都は南にあるので雪はないんでしょう、ゆっくりして来たら良かったんじゃないですか」
「そうだね。でも君に早く会いたかったから」
「……………はぁ、なるほど」
気の抜けた返事を返すローズマリー。
いやいや、違う。そうじゃない。
今はそういう話をしてる場合でなくて。
窯の中の焼き加減を確認しているトリスタンに改めて声をかけようとして、それより先に低い声が響いた。
「……何故…、人間がいるんだ?」
一瞬びくんと身を竦め。
ああ……、どちらも間に合わなかったかと、ローズマリーは声の方を振り返る。
わたしの直ぐ後ろ、そこに居るのは見上げるほど大きな男。
銀髪に金色の瞳。整った顔ではあるが眼光の鋭さと醸し出す不穏な雰囲気がそれを台無しにしている。
ローズマリーは慌てて「ヴァル!」と声をあげれば、グイッと大きな背の後ろに隠された。
「ヴァル……?」
わたしが呼んだ名に反応したのだろうトリスタンの声が聞こえ、ローズマリーはヴァルの背から出ようとして今度は太い腕に阻まれた。
「ヴァルってば!」
「お前は何だ? 何故ここに人間がいる?」
「―――ねぇって!」
「………そんな格好の人に言われても?」
ローズマリーなど全く無視して交わされる会話。
ヴァルの腕の隙間から見えるトリスタンの紫の瞳に浮かぶものは不審だ。嘲るように告げられた言葉にもそれは伺える。
だけどそれは仕方ないと思う。だってヴァルは今上半身は裸で下半身は居間にあったタペストリーを巻いているだけだ。
ムッキムキの肉体を持つ美丈夫なヴァルとはいえ、この状況では不審者以外何者でもない。
実際は狼から姿を変えると裸となるからなのだけど。
そう、このヴァルと狼のヴァルは同じ。
「ヴァル! この人はトリスタン様って言ってここの領主様なの! 悪い人ではないよ!( ……たぶん )」
やっとヴァルがこちらを見た。
その瞳に浮かぶのはトリスタンと同じ不審。
わたしの心の声が聞こえてしまったか?
「領主……? だけど人間だろう? 何故ここに?」
「あー、うーん……、色々あって…?
それより! 服着てきなよ、ちゃんとヴァルの服置いてあるから――ナル!」
ここに居るしと、後からナルののん気な声。
「ヴァルの服、二階の納戸にあるから。わかるでしょ?」
「もちろん。 ヴァルさんついて来てよ」
促すナルに「だが……」とヴァルはわたしとナルを見る。そしてトリスタンへと向けられる視線。それはやはり厳しい。
だけど受けた男は何故かニッコリと笑い。
「着替えた方がいいだろうね。レディのいる前だ、その格好はいただけない」
至極全うな意見を言う。
けどわたしは大して気にしてない。ヴァルの場合は見慣れてるし、毛があるかないかの違いだろう。
でもそれを言うと何だかんだややこしくなりそうだったのでトリスタンに同意する。
「そうだよ、早く着替えてお茶にしよう」
「ああ、その方がいいね。 ケーキも―――あっ、」
慌てて窯の中を確認するトリスタン。
不服そうにナルに連れて行かれるヴァル。
ローズマリーはそれを眺めつつ、取りあえずホッと息をついた。




