9 恋の嵐
ローディン大使館に戻ったジョンは建物裏口をすり抜け足音を偲ばせて自室に入った。浴室で労務者から大使館員ビル・サイアーズの姿にやっと戻ることができた。
使用人の通用門から敷地内に入ったため掃除夫に間違えられ、裏口の清掃とゴミ出しをする羽目になってしまったが、彼の素性を疑われることはなかった。
自室のベッドに寝転がり、ローディンの王弟は今夜のことを思い返した。
「接触ポイントは確認した。あとは、どれだけ監視者の目をかいくぐって現地組と合流するかだな。監視は一日中続いているようだし」
その場合の連絡ルートも確保してある。まだ作戦は始まったばかりだ。
自身を落ち着かせるように思考を切り替えたジョンは、謎の監視者へと興味を向けた。
「僕の認識阻害をすり抜けるような監視網だったな。敵組織に個有者がいるのか?」
特殊能力『天賦』を持つ個有者はローディンの貴族階級にしか生まれない。かつてはその力が敵対国に渡るのを防ぐため、国外の貴族との婚姻を禁止した時代もあったが、今はそれも難しい。
「ローディン以外の者との婚姻で個有者が生まれる確率はごくわずか。それも発現しない微弱なものがほとんどのはず」
それなら、あの監視に特化したとしか思えない天賦の所有者は誰なのか。
「亡命貴族か? 記録を調べてみるか…」
対策を考えながら、彼は数通の手紙を書いた。
ロッサフエンテ宮殿には華やかな嵐が訪れていた。第一王女であるウィルタード公爵夫人ビアンカ、第二王女ジョレンテ侯爵夫人レオノール、第三王女エスピノサ伯爵夫人コンスタンサ。
三輪の薔薇にたとえられ、社交界の花形である彼女たちは美しい顔に心配そうな表情を浮かべていた。
「どういうことなの? カイエターナの気分が優れないなんて」
「前夜祭で事故に遭ったと聞きましたけど本当なの?」
「カルバーソ公子は何をしていたの?」
三人に質問攻めにされた第四王女の侍女パロマは必死に説明した。
「王女殿下はお怪我もなくご無事に保護されました。ただ、昨夜からすっかり上の空で、お食事も摂られなくて」
ただ事ではないと、三人の王女は妹の部屋に乱入した。
「カイエターナ、姉様よ」
「可哀想に、何があったの?」
突然現れた姉たちに、愛犬を撫でながらぼんやりしていた第四王女は顔を向けた。
「姉様たち……」
心ここにあらずという風情の彼女に姉たちは首をかしげた。やがて、カイエターナはうっとりと語り始めた。
「ああ、私、出会ってしまいましたわ」
「…そうなの。何に?」
おずおずと尋ねるビアンカに、両手の指を組んだ末姫は爆弾発言をした。
「運命の人です! あの方に違いないわ!」
三人の姉は互いに顔を見合わせ、にじり寄るようにして妹を囲んだ。
「聞かせてちょうだい」
「昨夜は知らない場所で馬から落ちてしまって、どうしようかと思いましたの」
それを聞き、ビアンカが口元を引きつらせた。
「……カルバーソ公爵、失脚したいようね」
姉の不穏な決意に気付かないカイエターナは夢見るように続けた。
「みんなの元に戻ろうとしていたら、赤いおイモが三個、いえ、三人声をかけてきて手を引っ張られて困ってしまって」
「……どこの痴れ者なの、掃討戦が必要だわ」
レオノールが殺気をみなぎらせながら呟いた。第四王女はぱっと姉たちに顔を向け、両手で幾分くたびれた花飾りを差し出した。
「そうしたらあの方が私を連れてそこから離れて、抱きしめてこれを掛けてくださったのよ!」
「まあ、これを?」
赤い花の首飾りの意味を知らない者はいない。姉三人はうって変わって感動に打ち震えた。
「それでは、その方はイモではないのね?」
「ちゃんと人間に見えたの?」
最重要事項を確認され、カイエターナはにっこりと微笑んだ。
「はい、姉様」
「おお、何という情熱!」
「乙女を目覚めさせるのはやっぱり恋の嵐なのね!」
抱き合って喜ぶ四姉妹の元に、やはり心配して様子を見に来た国王夫妻と兄が訪れた。
「カイエターナ、具合が悪いと聞いたが…」
父王に皆まで言う暇を与えず、上三人の王女たちが興奮のままに報告した。
「お父様、お母様、お兄様、一大事ですわ!」
「私たちの愛する妹に運命の人が現れたのよ!」
急展開の事態に、両親と兄も劇的なリアクションで驚いた。
「これは奇跡だ!」
「きっと聖レティシアがもたらしてくださったのですわ!」
家族を代表する形でビアンカが懇願した。
「さあ、教えて。どんな人なの?」
見惚れるような笑顔で、第四王女は晴れ晴れと宣言した。
「神々しいほど素敵な方でしたわ。目が二つで、鼻が一つで、口が一つで……」
幸福そうに力説するカイエターナを前に、王家一同は全員無言だった。
聖フェリシア祭本祭の日、ローディン大使館は朝から騒がしかった。大使は盛大な祭りを宮廷の要人たちと過ごすため準備に余念が無く、大使館員たちもそれぞれに祭り見物を予定していた。
必然的に下っ端に雑用のしわ寄せが来るのだが、平大使館員ビル・サイアーズにとっては願ったりの状況だ。アグロセンに渡る前にくすんだ金髪をより目立たない薄茶色に変え、偏光性の眼鏡で目の色も茶色に変わるようにしていた彼は黙々と仕事をこなした。そして、アグロセンに滞在しているローディンの高官に届け物をするため大使館を出た。
供もない単独の外出だ。天賦「認識阻害」を発動させ、昨夜の強力な監視網がないことを探りながら歩く。二区画も行けば目的地であるフランシス・ゴードン卿の屋敷に着いた。
門の守衛に大使館員の身分証を見せると通行を許された。取り次ぎの者が卿の秘書に連絡し、ビル・サイアーズは大使から預かった物を彼に手渡した。
「ご苦労さまでした。よろしければ茶話室で休憩していってください」
もの柔らかな印象の秘書はメイドに彼を案内させた。恐縮しながらビル・サイアーズは従った。廊下の窓から見える庭には新品の自動車があった。昔気質で馬を愛する卿のものではない。一瞥で細かな特徴を頭に入れ、下っ端大使館員は茶話室に入った。
お茶を運んできたメイドが彼に微笑んだ。
「アリサと申します。こちらはローディンの老舗店のもので、お菓子は焼きたてですよ」
「わざわざありがとうございます」
濃い茶色の髪を二つに結んだメイドに丁寧に礼を言い、ビル・サイアーズは小声で尋ねた。
「来客か?」
「マルケス社の社長夫妻」
彼にしか聞こえない声でメイドは答え、にっこりと笑って退室した。
しばらくお茶を堪能し、彼は屋敷を出た。派手な自動車はまだ庭に停まっている。
――マルケス社。石油開発に力を入れている新興の会社だったな。業績は急激な右上がりで、どこかの政府がバックに着いている可能性あり。
石油開発は、動物性の油に変わる灯油原料の安定供給のために始まった事業だ。それが灯油の精製過程で廃棄してきたものを内燃機関の燃料に使えることが判明し、原油の用途は一気に広がった。
今や、地質調査と試掘は西方大陸だけでなく、植民地大陸と呼ばれる南方大陸まで広がっている。
ジョンが手に入れた情報と脳内の資料を照らし合わせながら門まで来ると、さきほどの守衛がニヤニヤしながら紙片を渡してくれた。
「アリサからだ。見かけによらないな」
苦笑気味に礼を言い、彼はそれを内ポケットに収めた。
大使館に戻り開いた紙には時刻と場所が書いてあった。懐中時計を取り出して確認し、サイアーズ三等理事官は着替え始めた。