7 聖レティシア祭
アグロセンの夏到来を告げるのは、初夏に行われる聖レティシア祭だ。芸術家の守護者である聖女を称える祭りであり、いつもは劇場を沸かせる多くのアーティストが特別に街角で技能を披露することでも知られている。
この日に街に繰り出す人々はアグロセン伝統の夏のお祭り衣装を身にまとう。街中が鮮やかな色彩に満たされる光景そのものが芸術だと語る者もいるほどだった。
聖レティシア祭の前夜祭を迎え浮き足立つのは、王家の人々が暮らすロッサフエンテ宮殿も例外ではなかった。この夜は、特別に王族のお忍び歩きが大目に見られるのだ。勿論、高貴な人々に危害を加えられることのないよう充分な護衛を付けての行動になるが。
宮殿の奥、王女宮は目を瞠るような華やかさだった。色とりどりの伝統衣装が広げられ、第四王女カイエターナを最も引き立てるのはどれかと侍女たちがそれぞれの主張を繰り広げている。
「殿下、この金糸の刺繍はきっと街灯の中で映えますわ」
「それなら、この銀糸を織り込んだ青いお衣装の方が更に華やかでしてよ」
「あら、やはりこちらの深紅のお衣装が何より御髪の色と合いますわ」
誰もが一歩も引かない中、カイエターナ本人はおっとりと愛犬の頭を撫でていた。
「どれもとても綺麗ね。でも、街を歩くのはほんの少しの間なのでしょう?」
侍女たちは一斉に首を振った。
「短い時間だからこそです、姫様」
筆頭侍女のパロマが第四王女に衣装を当てながら答えた。
「その中で強い印象を与えれば、運命の人を見つけられるかも知れませんよ」
「運命の人……」
うっとりと、夢見る乙女の口調でカイエターナは繰り返した。
「本当に見つかるのかしら、そんな人が」
「聖レティシアのご加護があれば」
「今夜は街のあちこちに辻楽士に扮した音楽家たちが立って演奏するのですよ」
「妙なる調べが導いてくれますわ」
侍女たちに促され、カイエターナは結局深紅の衣装を選んだ。早速メイドたちが着付けに取りかかり、第四王女が美しく準備を整える。侍女たちは今度は宝飾品の選定でさらなる激戦を繰り広げるのだった。
聖レティシア祭のことはアグロセンの知識としてジョン――ビル・サイアーズの頭に入っていた。前夜祭は貴族王族までもが街に降りて祭りを楽しむことも。
「そのあたりとの接触は避けるべきだな」
自室でジョンは今夜の計画を脳内で検証していた。まさかれっきとした王弟が下っ端大使館員としてこっそり入国していたとは思わないだろうが、万が一を考えるべきだ。公式訪問時に王宮などで顔を合わせる可能性がある者と出くわさないよう、彼はルート選定で神経を使った。
「高位貴族クラスでは街歩きと言っても富裕層の区画付近だ。そこを外した通りを繋いで接触ポイントに行けばいい」
市街地図をしっかりと頭に叩き込み、彼は大使館員ビル・サイアーズから更に姿を変えた。きっちりなでつけていた薄茶の髪をぐしゃぐしゃにして偏光性能のある眼鏡を外し、代わりにくたびれた帽子を目深に被る。丈の長い汚れた上着を加えれば祭りも関係なく日銭を稼ぐ労務者のできあがりだ。
そのままジョンは大使館を出た。台所から裏門を通るまで数人とすれ違ったが、一人として彼に目を留める者はいなかった。
ロッサフエンテ宮殿では、王宮のバルコニーに王家の人々が勢揃いした。彼らは開放された宮殿の庭園に集う人々に手を振った。
西方大陸一と称えられる美形揃いの国王一家に、民衆は熱狂的な歓声を上げた。やがて首都エスペランサ中の教会の鐘が一斉に鳴り始める。聖レティシア祭前夜祭の始まりを告げる鐘だ。
ミシニョーラ大聖堂の大扉が開き、竪琴を手にし花冠を戴いた聖レティシアの象が豪華な輿に乗せられて出発した。
輿を担ぐのはそれぞれの地区から選ばれた若者で、栄誉ある役目を興奮気味にこなしている。聖女の像は首都の市街地を練り歩き、市民はその後を追った。徒歩の者や馬に乗った者などで通りはごった返していた。
この祭りは芸術家の腕の見せ所だった。持物に竪琴があるように、聖レティシアは芸術家の守護者として知られるためだ。街のあちこちで即興の演奏や歌声が聞こえ、広場がチョークの絵で埋め尽くされるのもこの祭りの風物詩だった。
離ればなれになった恋人たちを竪琴を弾いて巡り合わせた逸話から、聖女は恋を叶えるとも信じられている。そのため、彼女の花冠にちなんで男女が花の首飾りを贈り合う風習が生まれた。花の種類や色によって意味合いは様々だが、最も多いのが求愛の赤い花だ。人気のある娘や青年が贈られた花に埋もれそうになるのも、祭りでよく見かける光景だった。
今夜は王家の人々も市民と同様に伝統衣装に身を包んでいた。無論、形は庶民と同じでも王族に相応しい高価な生地や刺繍の入ったものだが。男性は膝までのズボンと短い上着、三角の黒い帽子。女性はスカートと袖に沢山のフリルが付いた華やかなドレスになる。その上に男性はマント、女性はこれまた鮮やかな刺繍入りのストールを羽織るのが通例だ。
深紅の絹地に金糸の刺繍が入ったドレスを着た第四王女カイエターナは、会う者全てから降るような賞賛を浴びた。
「何てお美しいのでしょう」
「まさに名花だ」
「これは求婚者の方々も張り合いがありますわね」
それらにあでやかな笑顔を向け、カイエターナは国王夫妻と王太子夫妻の後に続いて王宮の門を出た。市民たちと共に聖女の輿を見物する行事が始まる。
街歩きといっても警備上の問題もあり、宮殿周囲を少し歩くだけなのが実情だった。それでもエスペランサ市民たちは国王一家を取り巻き祭りの始まりを祝った。
「綺麗……」
花に飾られた聖女像を見て、カイエターナは夢見心地で呟いた。輿の行列が通り過ぎると国王一家は庭園に戻った。日が暮れると聖女の通り道にロウソクが並べられ、光の道を作る。その中を共に歩き、馬に乗る恋人たちは聖女の祝福を得られるという。
名残惜しそうに門の外を見るカイエターナに、兄であるフェルナンド王太子が声をかけた。
「カルバーソ公子が祭り見物の同伴を申し出てきた。疲れているなら…」
「行きたいです、兄様」
顔を輝かせて即答する妹に、心配そうに兄が注意した。
「馬に乗ることになるが、大丈夫か?」
「お任せください、殿下。私が責任を持って王女殿下をご案内いたします」
胸を張って王太子に主張するカルバーソ公爵家の長男は、金糸銀糸の刺繍に埋め尽くされたような衣装だった。
――まあ、とても綺羅綺羅しいおイモだわ。
感心するカイエターナの視線を見とれていると思い込み、公子は花飾りを付けた馬を用意させた。従僕を四つん這いにさせ、その背を踏み台にして騎乗する。王女の背後で眉を顰めた侍女のパロマが素早く護衛に指示を出した。
長身の護衛が王太子に一礼し、華麗な王女を軽々と抱き上げて馬の背に乗せた。パロマは小声でフェルナンド王太子に告げた。
「私とチキティートも随伴します。決して二人きりにはさせません」
「頼んだぞ」
幾分気を削がれたような顔をした公爵家の嫡男は、鞍の前に横乗りする王女を見て機嫌を直した。彼の頭には父公爵からの助言――『この祭りでは多少強引な求愛は大目に見られる。二人になればこちらのものだから首尾を遂げろ』という言葉が駆け巡り、自然と鼻息を荒くしていた。
王女の兄姉に知られれば即刻銃殺されかねない下心を乗せて、装飾過剰な芦毛馬はしずしずと出発した。