65 一発勝負
遠心力の助走付き跳び蹴りは、敏腕諜報員をうずくまらせた。黒衣のローザは呻き、手にしていた拳銃が手の届かない場所に投げ出されているのに舌打ちした。
加害者の方は全く悪びれた様子がなかった。足下に落ちていた黒いレースの手提げ袋に目を留め拾い上げる。引きつるような呼吸をし、ローザは反射的に手を伸ばそうとした。男性が興味深そうに言った。
「拳銃よりこれを優先するとはな」
彼は無遠慮に袋を探り、一つずつ取り出しては甲板に放った。口紅を手にした時、ローザの瞬きが増えたことに男性――ローディン王弟ジョンは気付いた。筒状の容器を振ると、微かに音がする。恐らく極小サイズのフィルムだろう。
「機密事項はこの中か」
ジョンはシャツの内側にある隠しポケットにそれを収め、残りはまとめて海に放った。飄々と証拠隠滅すると、王弟は背後の人影を振り向いた。年齢を感じさせない動きで甲板に降り立ったカランサ将軍がいた。ジョンは彼にローザを紹介した。
「ザハリアス皇族暗殺未遂犯ですよ、将軍」
「そうか、それは確保せねばなるまい」
老将軍はローザを引き起こすと、突然の事態の変化に狼狽する乗員を呼びつけ拘束を命じた。連行されていく彼女に、王弟はザハリアス語で別れを告げた。
「さようなら、カラミティ・ローザ」
はっとローザは振り向いたが、既に彼は視界から消えていた。
続いてジョンは、甲板上に座り込み震えているデュカキス大公に声をかけた。
「ご無事ですか、大公殿下」
「……き、君は?」
「ローディン海軍大尉、ビル・サイアーズです。『スリアンヴォス』の非常事態に友軍として駆けつけました」
「そ、そうか」
騎兵将校の大礼服でも地味に見えそうなほど金モールだらけの服は、すっかり煤けてしまっていた。しかし、丁重に扱われたことで大公は自尊心を取り戻したようだ。
「大義であったな。あの女は?」
「確保しました。拘束の上監禁されるでしょう」
危機が去ったことを実感し、大公は露骨にほっとした顔になった。
甲板では東部戦線の軍神が的確に消火と救助を指示し、混乱を収めつつあった。
「大公殿下、こちらでしたか」
艦長が暴発騒ぎではぐれた皇族の無事を確認し、心底安堵した顔で喜んだ。
「うむ、心配かけたな。この、ローディン海軍の者が助けてくれたのだ」
大公が示す先に人影はなかった。怪訝そうな顔をする艦長に、彼は焦りながら説明した。
「本当だ、さきほどまでいたのだが…」
その人物の特徴を説明しようとして、何も出てこないことにデュカキス大公は唖然とした。
ザハリアス海軍戦艦『スリアンヴォス』は、魚雷を受けるわ主砲砲塔を暴発させるわと踏んだり蹴ったりの有様だった。死傷者が少なかったことだけが幸いという状況だが、観艦式に水を差す訳には行かない。ザハリアス艦をカバーするように模擬海戦は熱を帯びた。
沿岸の見物人には『スリアンヴォス』の状況が分からず、模擬海戦の一環と思う者が大多数だった。
「凄いな、本物の爆発に見えたぞ」
「お、『グローリー』が斬り込みをかけた!」
「じゃあ、やっぱり爆発に見せかけてたんだな」
「十年ぶりの国際観艦式だ、凝ってて当たり前さ」
群衆がのんびり見物する中、後方で見ていたラモン・セスコは表情を険しくした。
「爆発なんて計画になかったぞ。ローザからの信号は来ないし、どうなってるんだ?」
見物人の群れから離れ、彼はそっと入り江に戻った。双眼鏡越しに一連の行動を観察していた者が、カサアスールに向けて小型投光器で合図した。
『グローリー』からの信号に気付き、ジョンはカランサ将軍に告げた。
「私は艦に戻ります。『エンベスティダ』に状況説明をお願いできますか?」
「お任せを、殿下。さすがのご活躍でしたな」
「内密にしてもらえると助かります」
そう言い残して再度ロープで王弟は帆船に帰還した。老将軍は腕組みしながら惚れ惚れと呟いた。
「噂どおり謙虚なお方だ」
帆船と反対側の舷側にアグロセンの戦艦が接近しているのを見て、彼は甲板を歩き始めた。
『グローリー』に戻ったジョンは、心配そうに待機していた副官のジェフリーにそっとローザの口紅を渡した。
「『カラミティ・ローザ』の持ち物にあった。フィルムだろうから慎重に取り出し現像してくれ」
「了解」
丁寧に受けとり、ジェフリーは陸からの信号を報告した。
「あの崖の向こうの入り江にラモン・セスコらしき人物が潜伏している模様です」
「仲間と落ち合うためか? やはり潜水艇は〈レイヴン〉か」
「どうしますか」
「逃がす訳には行かないだろう」
王弟は手短な指示にを与え、全員が即時実行にかかった。帆船の後方でこ控えていたローディンの新型戦艦『インヴィンシブル』に信号が送られ、『グローリー』は転進した。
沿岸の見物人は、ローディンの新旧二隻の戦艦がすれ違うように操船するのを見てざわめいた。
「お次は何だ?」
「舷側晒すなら砲撃だろ」
「見ろよ、『グローリー』の砲蓋が開いたぞ!」
いにしえの馬上槍試合のように、両艦は接近し砲撃を始めた。
「パロマ、これを三層に持っていって。チキティート、この袋は向こうにお願い!」
『グローリー』の火薬庫から火薬袋を受けとった第四王女カイエターナは、侍女と愛犬に手渡した。
『スリアンヴォス』に行くジョンに同行できなかったことで拗ねていた彼女だったが、砲撃戦のパウダーボーイ役を進んで引き受けたのだ。
やがて帆船が砲撃を開始した。弾丸は張りぼてだが発射音は凄まじく、船が傾ぐほどの衝撃があった。
「凄いわ、昔はこんな風に戦っていたのね」
感心したように呟いた後で、カイエターナはジョンの姿を探した。火薬庫に来ると、ローディン語の会話が聞こえてきた。
「これを甲板の王弟殿下に」
「それはジョン様がお使いになるの?」
いきなり問われた水兵たちは、美貌の王女にかくかくと頷いた。カイエターナは当然のように袋を受けとった。
「私が持っていきます。おいで、チキティート」
喜々とした足取りで王女は火薬袋を甲板に運んだ。
「王女殿下?」
当然ながらロイヤルなパウダーボーイにジョンは呆れ顔だった。
「模擬戦と言っても火薬は危険ですよ」
「お役に立てるなら何でもありませんわ」
そして彼女は不思議そうに甲板を見渡した。
「ここに大砲はありましたかしら?」
「艦主砲が一門だけありますよ」
言われて彼女は前方に首を巡らした。確かに、バウスプリット付近に大砲が据え付けられている。砲口がほぼ固定されている砲門層の大砲と違い、仰角に制限がないただ一つの砲だ。
そこでは、計測員が精密に発射角度を測定していた。
カサアスールの端に見える崖を彼らは注視していた。何があるのだろうとカイエターナが目を眇めると、崖付近で光が点滅した。
「あれは……」
不思議そうな彼女の横で、士官たちが光信号を解読した。
「崖向こうの入り江に集結しているようだ」
「捕縛部隊を向かわせても間に合いそうにないな」
「なら、手段は一つだ」
そう言って王弟は確認した。
「入り江に民間人は?」
こちらからの質問に、崖の光が答えた。
「いません、みんな崖の上から観艦式に夢中になってますよ」
苦笑した後でジョンは表情を引き締めた。
「一発勝負だ。絶対に崖の人たちに被害を出すな」
「アイ・サー!」
脇を締める海軍独特の敬礼をして、砲術士官たちは年代物の大砲に取りかかった。
「仰角プラス5、火薬量は通常砲弾で」
大砲の口に火薬袋が押し込まれ、その後から砲弾が入れられる。装填を確認すると導火線に火が付けられた。
「発射!」
かつて激戦の中で敵戦列艦を屠ってきた大砲が火を噴いた。




