64 どうしようもないクズ
ザハリアス帝国の皇族、デュカキス大公の怒りは出会って間もない未亡人にも向けられた。彼女の肩を掴み、海を指さし怒鳴り散らす。
「あれはどういうことだ! 謎の潜水艇を撃沈し栄誉を得るのはこの艦のはずではなかったのか?」
正確には、小回りの利かないデカブツがチンタラと砲撃するのに合わせて自沈するはずだったのだと、喪服姿のローザは口の中で呟いた。表面上は申し訳なさそうな声と態度を貫いたが。
「ああ、殿下。色々と手違いが起こってしまったようです。決して貴方様に恥を掻かせるつもりなどございません」
涙ながらにへりくだる彼女を見るうちに、大公は多少頭が冷えたようだった。
――やっぱり、どう見ても皇帝の器じゃないわね。
ローザは内心で冷静に彼を観察した。
ザハリアスの大公と現皇帝と、〈レイヴン〉にとってはどちらに加担しても損はない。勝った者に自分達の力のおかげだと恩に着せればいいだけだ。皇帝は若く病弱だが帝国内最大貴族の後ろ盾があり、名のみで借金まみれの大公と比べれば地位は盤石とすら言える。
――一発逆転の機会を与えたやったのにモノにできないなんて、運も持ってないようだし、これはこいつを始末して皇帝に貸しを作る方が得策だわ。
あっさりと方針転換すると、ローザは艦内に潜入させていた部下に合図をした。
彼女の思惑に気づくこともないデュカキス大公は、謎の潜水艇から離脱した救命艇を双眼鏡で見つけ、艦長に怒鳴った。
「まだ攻撃者の一味がいるぞ! あれにとどめを刺すんだ!」
『エンベスティダ』にばかり活躍させるものかと、彼は砲撃を命じた。
「お待ちください、主砲を使うおつもりですか?」
いきなり艦の指揮権を奪う行為に出た大公に、艦長が慌てた声を出した。
「殿下、アグロセンの領海で戦闘行為と受けとられる行動はいかがなものかと」
柔らかく咎める言葉を、煌宮一の美男子と呼ばれた大公は歯牙にも掛けなかった。
「そのようなこと、アグロセンの戦艦を救ってやったのだと言えばいいことだ。この艦と私こそが、観艦式の主役なのだからな!」
秀麗な大公の周囲に黒ずみ淀んだ空気が湧き上がるのを視認できた者はいなかった。ただ、鋭敏な感覚を持つ者が数名、漠然とした不快感を覚えるだけで。
黒い貴婦人ローザは内心舌打ちした。今頃になって潜水艇の残骸を砲撃しても意味などないし、それで観艦式を救ってやったと大きな態度をとるなど愚の骨頂だ。
「これだから立場を弁えない馬鹿は……」
彼女は愚かな皇族をおとなしくさせることにした。心配するそぶりで大公の元に歩み寄り、次の餌を必死で要求する猫の目の前にこっそり釣り餌をかざして見せて大公の華美な軍服もどきに付着させた。毒爪で昏倒させ、さっさと退場してもらうためだ。
麻薬的な効果のある餌を奪われ、猫は禁断症状で牙を剥きだした。怒りにまかせて大公に飛びかかる。
「何をする!」
突然の攻撃に大公は必死で顔を庇った。防御する手を白い猫は手加減なく引っ掻いた。思わず悲鳴を上げた貴公子は、呆れた表情の海兵たちを見回し怒りを爆発させた。
「この悪魔が!」
金細工を施した拳銃を抜き、彼は猫に狙いを定めた。全身の毛を逆立て、目を釣り上げよだれを垂らしながら威嚇する猫は悪魔の名に相応しいほど化け物めいていた。
大公は白い猫目がけて銃を連射した。お粗末な腕前が幸いして、猫は余裕で避けた。だが偶然一発が首のあたりを掠めた。衝撃で猫の小さな頭からこれまでのこと全てが吹き飛んだ。身体の痛みと恐怖のみに支配された動物は死に物狂いで逃げ出した。
「マルガリテース!」
ローザの呼びかけも耳に入らない様子で猫は甲板を駆け抜けた。安心できる場所、狭く暗い片隅を求めて走り回った末に猫が選んだのは、筒状の金属の中だった。白い猫は筒の奥へと潜り込んだ。
それは、戦艦の第一主砲の砲身だった。
『スリアンヴォス』主砲の砲撃手たちは、突然の砲撃命令に驚きつつも準備を進めた。
「実弾使えだなんて、これ模擬海戦だろ?」
若い砲術士がぼやくと、すかさず上官の叱責が飛んできた。
「無駄口叩かず装填しろ!」
砲弾と火薬が手順通りに主砲に装填されていく。そんな中、砲身に潜り込んだ猫は出るに出られず、必死で泣き叫んだ。
砲術士があり得ない声に気付いたのは発射準備が完了した後だった。
「待ってくれ、何かが啼いてる。もし砲身にいるなら……」
彼の制止は届かず、艦橋から攻撃命令が下りた。
「発射!」
巨大戦艦の主砲が点火された。砲弾が問題の海域目がけて発射されると思えた瞬間、主砲は轟音に包まれた。甲板が一瞬で黒煙に覆われる。
「第一主砲、暴発しました!」
「砲塔が壊滅!」
「消火しろ! 誘爆させるな!」
阿鼻叫喚状態の中を海兵が行き交った。騒乱のさなかで事態が掴めていないデュカキス大公は棒立ちのまま呟いた。
「……何だ、何が起きたのだ?」
取り落とした拳銃を拾うことも忘れていた彼は、通り過ぎる海兵とぶつかってようやくあたりをきょろきょろと見回し始めた。手袋越しなのに猫の一撃を受けた手が妙にちりちりする。
黒い空気をかき分けるようにして彼に近づく者がいた。漆黒のドレスをまとった貴婦人、ローザだった。見知った顔に大公は安堵した。
「無事だったのか、すぐに安全な所に…」
彼女の背に腕を回そうとした大公の眼前に銃口が突きつけられた。ヴェールが吹き飛び、髪も乱れたローザは唇だけで笑った。
「あんたの馬鹿騒ぎに付き合うのはここまでよ」
うって変わった言葉に、ザハリアスの皇族は言葉も出なかった。ベテランの女スパイは顔色を無くす大公に侮蔑の視線を向けた。
震えながらもデュカキス大公は何とか相手を説得しようとした。
「お、落ち着かないか? 君は混乱しているのだよ。無理もない、こんな事になるとは…」
必死で舌を動かす彼の真横を弾丸が掠めた。小さな痛みと熱さに大公は頬を押さえて叫んだ。
「うわあっ!」
腰が抜け、不様に尻餅をつきながら彼は訴えた。
「だ、誰の命令なんだ? ヴァシリオスか?」
大公が口にしたのは現ザハリアス皇帝の名だった。ローザは鼻で笑った。
「それを知ってどうするの?」
「わ、私は、決して彼に…、陛下に背く気などない。そうだ、大公位を返上してもいい、だから助けてくれ!」
つい先ほどまで帝位から蹴落とす気満々だった者に必死で服従を誓う様を見てもローザの表情は変わらない。大公は別方面から謝罪を始めた。
「それとも、君の猫を撃ったことを怒っているのか? あれは事故だった。ほら、こんなに傷つけられたのだから、分かるだろう?」
急いで手袋を外し、大公は薄い筋が残るだけの手をかざして懸命に負傷をアピールした。しかし、彼にかけられた声は無慈悲そのものだった。
「あたしに分かるのは、あんたがどうしようもないクズだってことよ」
うんざりしたように吐き捨てたローザは、これ以上聞いていられないとばかりに引き金を絞ろうとした。大公は半泣きで顔を覆った。
その時、甲板に場違いなほど陽気なかけ声が響いた。
「ヨーホー!!」
黒煙の向こうの海から飛びだしてきた者が側面からローザに蹴りを入れた。まともに食らった彼女は吹き飛ばされ甲板に転がった。
「……何…?」
倒れたローザの目に入ったのは煙越しでも見間違えようのないものだった。白い帆とマスト。
「『グローリー』?」
いつの間にか、ローディンの伝説の戦列艦が傷ついた戦艦と舷側を並べていたのだ。何人もの水兵がマストからロープ一本で続々と乗り移ってくる。
「何なのよ、こいつら……」
部下に排除させようとしたが、彼らは逆にあっさりと制圧されていった。
呆然とするローザの前で、彼女に一撃を与えた者が軽々と着地し立ち上がった。これと言った特徴に乏しい顔立ちの若い男性だった。




