6 理想的な才能
ローディン王国、ヨーク川河口のバージェス港。夜明け前のぼんやりと薄明るい空の下、王弟ジョンは三等理事官ビル・サイアーズとして客船『ゴールドディガー』に乗船した。
アグロセン王国の港町カサアスールまで一日足らずの船旅の間、ジョンは用意された船室にこもり失踪した情報部員の資料に目を通した。
件の情報部員が最後に目撃されたのは情報部の支局でも支援基地でもなく、アグロセンの首都エスペランサにある高等裁判所付近だった。
「裁判所……、スパイの処刑が決定した話は聞かないな」
しばらく可能性を見当したあと、彼は書類をトランクに戻した。船窓からは西方大陸に続く北西海が広がっている。好天に恵まれ波も穏やかな海を汽船は快走した。
自分が不在中のローディンのことをジョンは考えた。
海軍情報部での仕事を優先し、王族としての公式行事は最小限だった。正式にアグロセン訪問をするまでの間は、心得た侍従たちが上手く取り繕ってくれるだろう。
やや透明度が低い窓ガラスには海の他に自身の顔が映っている。これと言った特徴に乏しい地味で平凡な容貌と言われ続けた顔だ。加えて存在感の薄さが『真昼のランプ』と揶揄される原因だった。
もっとも、誰かが口にした言葉を利用できると判断して積極的に広めたのは他ならぬジョン自身だったが。
第二王子が異常なまでに他人に認識されにくいことが容姿だけの責任では無いことは、王立化学超の研究院が指摘したことで判明した。それには彼の天賦が加担していたのだ。
天賦はローディンの貴族階級に見られる特殊能力であり、それを持つ者は固有者と呼ばれる。能力は様々だが主に知覚や勘が鋭敏になり、透視や読心ができる者もいる。
王族に発現することが多いのは精神操作系で、開祖の大アルフレッドなどは戦場で敵を睨みつけただけで降伏させたという伝説がある。ジョンの場合は「認識阻害」の天賦だ。
「それが武器になる世界があるとは、昔は想像もしなかったな」
当時の海軍情報部長に殿下は理想的な才能をお持ちだと感激されたことを思い出し、平大使館員に扮した王弟は苦笑した。世界の全てが自分だけに気付かず通り過ぎるような不安にかられていたかつての第二王子に、いつか必要とされる人々に出会えるのだと教えてやりたいくらいだ。
「王国創世記には岩を動かしたり炎を操る者もいたとあるが、どこまでが真実なのか疑わしいな」
ローディン王国の伝説にあるような物理的に影響を与える天賦は顕在しない。権力者が自己神聖化のために話を盛ったいう推察が正しいだろう。
ジョンには月の竜の話も信じられないのだが、これはローディンだけでなく西方大陸各地に共通する逸話が残っている。
「それも約二百年前に揃えたように消えてしまっている…」
奇妙なことだと思いながら色々と仮説を立てるうち、船内アナウンスが聞こえた。
『当船はまもなくアグロセン王国カサアスール港に到着します。お客様は降船のご準備をお願いします』
思索に耽るうちに外の景色は夕闇に変わっていた。ジョンは手早く服装を整え、帽子を被り、トランクを片手に乗降デッキに出た。
港の入国審査棟に入った彼はビル・サイアーズ名義の旅券を見せた。大使館員用のそれは効果絶大で、手荷物の検査免除でジョンは審査を通った。建物の外には迎えの車が来ていた。
「自動車を寄越してもらえるのか」
驚くジョンに、運転手が笑った。
「ここは次世代自動車の激戦地ですからね。蒸気エンジン派も石油燃料エンジン派も、自社製品アピールで色んな省庁に貸し出してくれるんです」
大陸での生活にいつまでもローディンでの気持ちを引きずってはならない。そう自戒して二等大使館員ビル・サイアーズは首都直行の車に乗り込んだ。
アグロセン王国首都エスペランサに到着した時は既に日付が変わっていた。
大使への着任挨拶は翌朝の予定だったので、ジョン――ビル・サイアーズ三等理事官は割り当てられた部屋に入った。
大使館の中でも雑事を担当する平職員の部屋は、広くはないが必要なものは一通り揃っていた。海軍情報部訓練員時代の寮とどっちがましだろうかと考えながら潜入任務中の王弟は荷物を片付け就寝した。
翌朝、ジョンはきっちりと日の出と共に起床し着替えた。王宮では何人もの侍従に傅かれてきたが、海軍寮と数々の任務は彼に使用人なしの生活も可能にさせた。
申告の時間五分前に、新任の大使館職員は大使執務室のドア前に待機した。そして、廊下の柱時計が鳴ると同時にドアをノックした。
「三等理事官、ビル・サイアーズ入室します」
中に入り一礼すると、大きな机の前に座る在アグロセン大使、オリバー・タウンゼントが困惑気味に彼を眺めた。この大使館で唯一、『ビル・サイアーズ』の正体を知る人物だ。
「ようこそ、アグロセンへ。……ミスター・サイアーズ」
迷った末に大使は通常の新任職員に向ける態度を選んだようだ。ジョンは穏やかとも茫洋とも言われる表情で彼に着任を申告し、大使は辞令を渡した。これでビル・サイアーズはローディン大使館の下っ端職員として活動できる。
――まずは、現地の情報部員と接触することからだな。
今後の計画を頭の中で組み立てていると、大使が咳払いをした。
「君の事情のため、職務は外部との連絡事務が多くなるが、くれぐれも他国人と安易な関係を結ばないように」
ごくわずかに眉を上げ、面白そうに新任の三等理事官は答えた。
「ああ、前任者のドワイト・アンダーソン卿は任地で作った愛人が三人、うち一人は帰国後も続いていましたね。確か、ザハリアス帝国の仕掛けたハニー・トラップでしたか」
失脚した前大使の名を出され、タウンゼント大使は顔を引きつらせた。
「大した情報収集ぶりですな。だがここでの誘惑は情交だけではなく、様々な産業が絡む買収もあるのでご注意を。特に、自動車開発競争には。まあ、海軍にはあまり関係ないことでしたな」
ジョンはすっと目を眇めた。その途端、大使は急激に背筋が冷たくなるのを感じた。全く表情を着替えないまま、ローディン王国王弟は語った。
「そのとおり、海軍はどこが勝とうが破滅しようが関知しない。ただ勝者と手を結ぶだけだ。ただし、真に優れたもの以外を勝者と認めるつもりはない。不当な競争で成り上がった欠陥品を掴まされるなどあってはならないからな。ローディンの国防のために」
どれほど植民地が増えようと、本国が島国のローディンにとって海軍は国防の要であり続けた。無意識に大使は背筋を伸ばし、若い王族の言葉を頭に染みこませた。
ふっと、ジョンがいつもの地味で曖昧な笑顔に戻る。
「それでは、ビル・サイアーズ三等理事官は職務に就きます」
彼が去り、扉が閉まる音を聞いてやっと大使は息を吐いた。肩が痛みを覚えるほど硬直するのに気づき、大使は顔をしかめた。
『サイアーズ三等理事官』は大使館内を歩き、事前の情報と相違ないことを確認した。途中で幾人かの大使館員とすれ違った。
「誰だ?」
「新入りじゃないのか?」
「多分。名前は知らないけど」
彼らの囁きを耳に留め、ジョンは薄く笑った。いてもいなくても不審に思われない状況を今回も上手く作れたようだ。