47 サイド・バイ・サイド
「何があったのかしら」
ピットの異変は貴賓室からもうかがえた。第四王女カイエターナは心配そうにオペラグラスをプエンテック陣営に向けた。ドライバーがフラフラと降りてしまい、空の車をクルーが必死でエンジンスタートさせている。
「ドライバーが怪我でもしたのでしょうか」
侍女のパロマが首をかしげる中、『ドラゴネグラ』はドライバーを迎え、ようやくリスタートした。
「姫様、また走り出しましたよ」
安心させるような言葉はカイエターナに聞こえていなかった。彼女は食い入るように『ドラゴネグラ』のコクピットを見つめた。
「……ジョン様…」
運転しているのはローディンの王弟だ。王女はそう確信した。
「何があったの? ……でも、素敵…」
結局そこに帰結する彼女だった。
『ドラゴネグラ』のドライバー入れ替わりに気づいた者はいなかった。サーキットを見下ろしていた主催が呟いた。
「レースも後半か、そろそろ表彰式の用意をしなければ…」
それを聞きつけたカイエターナが彼の方を振り向いた。
「表彰式?」
「優勝者を称えるのですよ。上位入賞者がクレール産の発泡酒をかけ合ったり、賑やかなセレモニーです」
「そうですの」
王女の脳裏には凜々しく勝者の冠を戴くローディン王弟の姿が浮かんだ。他の会社役員が思い出し笑いをしながら語った。
「ライアンが前のレースで勝った時は凄かったな。ご婦人のファンが競って花輪を掛けたりキスの嵐で」
「……キス?」
ただならぬ単語を聞きつけ目を瞠る王女に、役員たちは慌てて言い訳した。
「いや、決して公序良俗に反するものでは……」
焦る彼らをよそに、カイエターナは夢のような光景に浸りきっていた。
――そんな、優勝したジョン様に堂々とキスが出来るなんて…。
彼に黄金の薔薇を捧げ、キスをする。そして思いのたけを打ち明ければ……。
黒い瞳を輝かせ、カイエターナはパロマが抱える箱を指さした。
「姉のジョレンテ侯爵夫人から勝者への花束を預かっています。表彰式でお渡ししてもよろしくて?」
予想外の提案に、主催たちは驚きつつも喜んだ。
「勿論です。大変光栄なことです」
そうと決まればここで座して結果を待つなど王女には考えられなかった。彼女は立ち上がり、侍女と愛犬に声をかけた。
「行きましょう、パロマ、チキティート」
意気揚々と、第四王女は運命の人の勝利を疑いもせずに表彰会場へと向かった。
プエンテックのピットでは、クルーたちが不安げに『ドラゴネグラ』の走りを見つめていた。
「大丈夫かな、ライアンの奴」
「リスタートの1週目はあまりコースが掴めてないように見えたが」
「いや、徐々に走りが鋭くなってきてますよ」
「チーフ、先ほどの周回で『ボパールロボ』との距離が初めて縮まりました!」
計測員の言葉がピットの陰鬱な空気を吹き飛ばした。
「これなら、まだ優勝は射程範囲内だぞ」
「頼むぞ、ライアン!」
ピットクルー全員が拳を突き上げ、ドライバーを激励した。
『ドラゴネグラ』のコクピットで、ビル・サイアーズは次第に馴染んでくるハンドルからの手応えを感じていた。貴賓室から見たコースレイアウトとの印象修正も数周で完了した。
「そろそろ交換したタイヤも暖まったし、燃料を消費して車重も軽くなってきた。本気で追撃するか」
彼が車の運転で慣れているのは逃走だけではない。逃げる敵対組織の者を車で追跡し強引に停止させたことも何度もあった。
「山野も街中も関係無しのカーチェイスが役に立つとはな」
ペダルを踏み込むと、黒い竜を描いたレーシングカーは猛然と前方の蒸気車を追いかけた。
「『ドラゴネグラ』が追う! 凄い追い上げだ! さあ、逃げ切れるか『バポールロボ』! 残り5周を切ったぞ!」
実況が声をからして絶叫するのを聞きながら、各紙の記者たちは必死でペンを走らせた。コース近くでカメラを構える者たちの間では、ちょっとした混乱が広がっていた。
「なあ、後半になって『ドラゴネグラ』がやけに撮りづらくないか?」
「お前もか?」
「俺もだ。何なんだよ」
ローディン王弟の天賦「認識阻害」を知るよしもない彼らは、必死でピントを調整した。
「あそこが表彰会場なのね」
会場と言うより表彰台などが置かれた一区画という印象の場所だったが、第四王女にとっては王宮の大広間よりも光り輝いていた。
――黄金の薔薇を抱くあの方はどれほどきらめいて見えるかしら。いけないわ、見とれて何も言えなくなっては意味がないもの。しっかりとあの方に思いを告げるのよ。
脳内で懸命にシミュレーションを繰り返すカイエターナの横で、侍女のパロマは薔薇の箱を抱えたままきょろきょろしていた。
「王弟殿下はどこに行かれたのでしょうか」
「あら、あの方なら」
カイエターナの言葉は、周囲の怒濤のような歓声にかき消された。
「『ドラゴネグラ』が追いついた!」
「どっちも譲らないぞ!」
「嘘だろ、二台並んで『シージャ』に突っ込んでったぞ!」
「見たことないぞ、こんなの!」
グランドスタンドは興奮のるつぼと化した。
すぐ目の前に『バポールロボ』の白い水蒸気が見える。先行する蒸気車が動揺したのか、わずかに右に寄った。すかさずビル・サイアーズは自分のマシンの鼻面を左スペースにねじ込んだ。驚いた様子の蒸気車は本能的に回避し、二台は真横に並んだ。
――この先は、高速コーナーか。
サイド・バイ・サイドにも頓着せず、ライアン・スミスに偽装したドライバーは迫るコーナーに備えた。『バポールロボ』がセオリー通りに減速し、回頭しようとする。その外側から『ドラゴネグラ』が鼻先を押さえるようにして大きくテールを振った。ノーブレーキで突っ込む石油燃料車はタイヤをきしませながら車をスライドさせ、ライバルの頭を押さえたままコーナーを回った。
実況者が顔を真っ赤にしながら叫んだ。
「何てことだ! 『ドラゴネグラ』が『バポールロボ』を押さえ込んだまま『シージャ』を回っていった! 信じられない!」
コーナーが終わると同時にペダルべた踏みで『ドラゴネグラ』が先に抜けていく。
「『ドラゴネグラ』が抜き去ったあ! 『バポールロボ』は二位に後退!」
絶叫実況を耳にした賭け屋は商売を忘れて呆けていた。
「おい、オッズは?」
「そんなことより、レースだ!」
誰もがコースが見える場所に殺到し、場外も大混乱となった。
「何なんだよ、あの野郎っ!」
『バポールロボ』のドライバー、オルテガは血走った目で先行車を睨んだ。ドライバーとしての技量は自分の方が上だ。ライアンなどたまたま車に恵まれたに過ぎない。
そう思うことで保ってきたプライドが崩れようとしている。せっかくピットインで得たアドバンテージを失い、あり得ないオーバーテイクまでされてしまったのだ。
「…あいつに、ゴールなどさせるかっ!!」
完全に逆上したオルテガはボイラーの限界を超えるイピロス炭の投入スイッチを押した。
ミラーで後続車の変化に気付き、ビル・サイアーズは溜め息をついた。
「簡単に勝たせてはもらえないか…」
『バポールロボ』の走りがどこか狂気じみてきた。これは距離をとるのが最善策とペダルを踏み続けるが、狙ったほどの差は開かない。
――パワーが上がってるのか? 石炭が変わった?
危険な予感が脊椎を駆け上るのを彼は感じた。背後にぴったりと貼り付かれるのは結構なプレッシャーだ。直後、後部に衝撃があった。
――ぶつけてきた?
一歩間違えれば自分もただでは済まないのに、見境がなくなっているらしい。
――こうなったら我慢比べか。
後続車とわずかな距離を稼ぎ、『ドラゴネグラ』は最終ラップに入った。




