46 リスタート
一人のクルーが整備員ビル・サイアーズに声をかけた。
「ビル、タイヤの点検を手伝ってくれ」
「はい」
スタート直前にふらりと入ってきた彼は、数分後にはピットの全員に本社が寄越した助っ人と認識されていた。部品にもエンジンにも詳しく細々とした雑用をこなす整備員を誰もが重宝した。
「コンクリート舗装だと摩耗が違いますかね」
「そうだな、ヘアピンなんかは安全性を考えて意図的に悪路にしてあるんだが」
これも未舗装道路を走るラリーと違う点だ。
「ライアンはコースへの対応が早い。きっとやってくれるさ」
『ドラゴネグラ』のテストドライバーも務めたライアン・スミスへの信頼は厚かった。ビル・サイアーズことローディン王弟ジョンはプエンテックの作戦を頭の中で整理した。
――ピットインは1回。そこで給油とタイヤ交換をすませてコース復帰。リスタートに使うのは……。
彼はエンジニアに尋ねた。
「ピットからのエンジン点火はクランク・ハンドル?」
「セルモーターだ。部品を交換して何度も試したが異常なかったからな」
「レース前なのに交換?」
「ああ、検査員が絶縁部の損傷に気付いてくれたからな」
検査員という言葉に、ジョンはミゲル・ベセラの発言を思い出した。
――なるほど、親切顔でわざわざ交換させた訳か。
何かがしかけてあるはずだが、ここでは対処できない。一介の整備員が作戦に口出しできるはずもなかった。
副官のジェフリーと護衛のロイド、そしてアシュリーが手配した者たちがコースの各ポイントで妨害工作を警戒している。何事もなればいいがと思いながら、ビル・サイアーズは交換用のタイヤを用意した。
「同じ所をぐるぐる回るだけなのね。順番も変わらないし」
何が面白いのだろうかと言いたげな第四王女に、主催者たちは苦笑した。
「そう見えますが、色々と駆け引きかあるのですよ」
「駆け引き?」
重々しく頷くと、主催はグランドスタンド前に並ぶピットレーンを示した。
「まず、各マシンはスタート前に作戦を立てます。路面の状況に合わせたタイヤを選び、燃料や水をどれだけ積むかを計算して」
「燃料は最後まで走れる分を入れるのではなくて?」
素直な疑問に周囲は微笑んだ。
「それでは車体が重くなってしまいますので」
「ああ、軽い方が速く走れるのですね」
「はい。そのためにピットインして給油とタイヤ交換をするのです」
「タイヤも?」
「コースは舗装しているので土の上を走るよりタイヤが摩耗します。増して、これほどの速度で直線やコーナーを走るのですから。このピットインをいつ、何回行うかで順位が変動しますよ」
「そうなの。大変ですのね」
ちらりとカイエターナはプエンテック社のピットに視線を流した。そこでは彼女が愛してやまないローディン王弟が忙しく働いている。
「私もお手伝いしたかったわ」
溜め息交じりの言葉は他の者の耳には届かなかった。
レースは周回を重ね、上位陣の順位変動はまだ見られなかった。プエンテック社の計測係がチーフエンジニアに時計を見せた。
「タイムが落ちてきてる」
「そろそろタイヤの踏ん張りが利かなくなってきたか」
「計算だと燃料も残り少なくなってます」
整備員の意見を聞き、チーフエンジニアは決断した。
「ボードを出せ。次の周でピットインだ。全員、持ち場に着け!」
ピットが一気に臨戦態勢に入った。マシンを誘導する者、停止させる者、給油、タイヤ交換、部品点検、様々な役割を持ったクルーが『ドラゴネグラ』を待ち構える。その端っこで、ビル・サイアーズはレーシングカーを凝視した。
――アコスタの『バポールロボ』も粘るな。外燃機関は動力の供給さえあれば内燃機関より安定性は高い。問題は、車体の軽量化に限界があり馬力を引き出せないことか。
彼の思索はピットのざわつきに打ち切られた。クルーはアコスタのピットに注目していた。そこにはボードを掲げた整備員がいた。
「あっちも同じ周にピットインさせるぞ」
その事実はいやが上にも緊張感をかき立てた。いかに速く最適な状態でマシンをレースに戻すか。どちらが速くリスタートするかでレースの流れが変わるのだ。
グランドスタンドも最大の山場が訪れたことに気付いた。
「おい、トップの二台が同時にピットインするぞ!」
「これで順位が変わるかな?」
「一度エンジンを止めなきゃならないからな」
観客たちは大声で語り合い、会場外の賭け屋は乱高下するオッズの書き換えに大忙しだった。
やがて『ドラゴネグラ』と『バポールロボ』の両車がホームストレッチ端に現れた。グランドスタンドの大歓声に迎えられた二台の車は減速し、それぞれのピットに滑り込む。
すぐさまジャッキで車体が持ち上げられ、タイヤ交換と給油が同時に行われた。チーフエンジニアがドライバーのライアン・スミスに尋ねた。
「調子はどうだ?」
「文句なしだ! 行けるぞ!」
目元を緩ませてローディン出身のドライバーは満足げに答えた。
「この調子で頼むぞ」
チーフエンジニアが彼の肩を叩いた。プエンテックは万事順調に思えた。
アコスタ側のマシンも戻ってきた。『バポールロボ』のタイヤを交換し、給水とボイラーへの石炭供給をした。
「こいつはとっておきのイピロス産だ。パワーがあるから振り回されるなよ」
チーフエンジニアがドライバーに囁いた。ドライバーはにやりと笑った。
「あの高火力炭かよ。反則じゃねえのか?」
「ここの検査員に石炭の区別なんか付くかよ」
笑いながらもチーフエンジニアはプエンテックのピットから目を離さなかった。
「奴ら、クランク・ハンドルを使わないようだな」
双方のリスタートが迫っていた。
全ての交換作業が驚異的なスピードで行われ、沈黙していた『ドラゴネグラ』は再度目覚めようとしていた。
「よし、行け!」
停止係が板をマシンの前から外し、ドライバーがセルモーターのスイッチを入れた。次の瞬間、コクピットに火花が飛んだ。
「うわあっ!!」
ライアンの身体が弾けるように痙攣し、ぐったりと力を無くす。プエンテックのピットは騒然となった。
「ライアン!」
「大丈夫か!?」
混乱するクルーを静かな声が制した。
「ミスター・ライアンを下ろして手当てします。その間にクランク・ハンドルで点火を」
飄々とした様子で彼らを自然に従わせたのは新参者の整備員だった。誰もが疑問にも思わずドライバーを車から降ろし、整備員ビル・サイアーズは彼に肩を貸してピットの奥に連れて行った。
我に返ったようにチーフエンジニアが怒鳴った。
「ビトはどこだ? すぐに用意を!」
控えのドライバーを呼んだが答えはなかった。震える声でクルーが報告した。
「まだ会場に着いてません。途中でトラブルにあったらしくて……」
背後の会話に耳をすませていた整備員ビル・サイアーズは、そっとライアンの身体をタイヤの陰に隠し作業着を一瞬で脱ぎ捨てた。その下にはライアン・スミスと同じレーシングスーツがあった。彼の帽子とゴーグルを拝借し、スカーフで顔の下半分を覆うと、彼は多少よろけながらマシンに戻った。
「ライアン!」
「おい、無理するな!」
大丈夫だと身振りで彼らを宥め、ドライバーに扮したビル・サイアーズはコクピットに収まった。その前をアコスタの『バポールロボ』が走り抜ける。
スタンドの実況が拡声器を掴んで叫んだ。
「順位が変わった! トップは『バポールロボ』! 『ドラゴネグラ』はアクシデントかまだピットから出られない!」
外の騒ぎに目もくれず、冷静にビル・サイアーズはハンドルを握った。
――基本はプエンテックのC-18と一緒だな。
それならばと一気にペダルを踏み込みゆっくりとピットを出る。コースに戻ると同時にレバーをトップに押し込み、轟音と黒煙を上げて『ドラゴネグラ』は戦線復帰した。
「ようやく『ドラゴネグラ』がレースに戻った! しかし既に『バポールロボ』は『アーダ』にさしかかっているぞ! 追いつけるか、ライアン・スミス!!」
気合いの入った実況に煽られるようにグランドスタンドが揺れた。




