44 主に逃走手段
サーキットでは、各メーカーが満を持して送り込んだレーシングカーが爆音を蹴立てていた。グランドスタンドに詰めかけた観衆はアグロセンのみならず西方大陸じゅうの耳目を集める大レースに既に興奮状態だった。
ヴァルヴェルデサーキットは大雑把に言えば、二つの首が向き合う双頭竜の紋章に近い形をしている。1マイルを超えるグランドスタンド前のホームストレートや高速コーナー、ヘアピンなど、車とドライバー双方の性能技術が試されるサーキットだ。全長4.516マイルのコースを最も速く33周するか、レース開始から二時間を超えた時点で最高周回数の車が勝者となる。参加車の給油、給水、簡単な修理などを行うピットでは、ドライバーの交替も許されている。
各レーシングカーが一旦ピットに戻り、大会役員がレギュレーション違反がないかを調べていた。プエンテック社が誇る最新型マシン、『ドラゴネグラ』号も役員の検査を受けた。その最中に、タイヤや排気量などをチェックしていた検査員が慌てた声を出した。
「すみません、鉛筆がボンネットの中に」
「何だと? ああ、いや、こっちで探す」
異物がエンジンを傷つけないよう、ピットクルーたちが急いでボンネット中を覗き込み必死で探した。
検査員はおろおろした様子をみせながら、ハンドル横のセルモーターの絶縁部を素早く傷つけた。そして何食わぬ顔でピットクルーに質問する。
「この部分が剝がれていますが、大丈夫ですか?」
エンジニアはセルモーターの部分だと知って慌てた。
「おい、交換部品を持ってきてくれ」
「どうした?」
「この箇所から剝がれてきてる。直すより丸ごと取り替える方が早い」
予備の部品を入れた箱からセルモーターを取り出し、彼らは手早く取り替えた。それを見届けて検査員はチェックを入れた。
「はい、これで合格です」
検査合格証をチーフエンジニアに渡し、役員の後に続いて係員はピットを出た。ちらりと振り返った彼――ラモン・セスコの上着ポケットには小型の部品が入っていた。
それは『ドラゴネグラ』のセルモーターだった。鉛筆騒ぎで周囲の注意がボンネットに向けられたわずかな隙に予備部品の正規品とすり替えたのだ。
「これでプエンテックはおしまいだな」
レースを見届け任務を完了すれば、総帥からの評価が上がる。大鴉〈レイヴン〉での再起を果たせる。
彼の脳裏に苦い失敗の記憶が甦った。せっかく見つけた潜在的個有者を易々と見抜いたローディン王弟。貴賓室で見物する王族が自国が出資した会社の不様な敗北に絶望する様を直接見られないのは残念だが、いずれ新聞の一面でも飾るだろう。
内心の嘲笑を隠しながら、『クエルヴォ』ことラモン・セスコは足早にピットを後にした。
点検員が去った後、プエンテック社のピットに若い社員が訪れた。
「やあ、ミゲル。社長の機嫌はどうだ?」
整備員に声をかけられたミゲル・ベセラは小さく笑った。
「ローディンの王弟殿下と第四王女殿下が来られてるから忙しいですよ」
「そうか、王族まで観戦してるんだから盛り上がるよな」
「以前もお見かけしたけど本当にお綺麗な王女殿下ですね」
隣にいる王弟が平凡な容姿なため余計に目立つのだとは、流石に誰も言わなかった。
誤魔化し笑いをしながら、ミゲルは抱えてきた木箱をピットクルーに渡した。
「社長からです。優勝の祝杯に使うようにと」
木箱には有名なクリマ酒のメーカーの刻印があった。整備員たちは歓声を上げた。
「よしっ、頑張るぞ!」
歓声が続き、ミゲルは礼を言われながらピットを出ようとした。レースを待つ車の横を通り過ぎた時、彼はふわりとした違和感に囚われた。
「……何だろ?」
目の前の光景の一部分だけが何かと入れ替わっているような不思議な感触は一瞬で焼失した。首を振り、ミゲルは歩き出した。
グランドスタンド前に来ると、賑わいと興奮の渦が待ち構えていた。入場チケットは早々に完売し、あぶれた者は周辺の即席屋台通りで憂さ晴らしをしている。並ぶのは飲食物の店だけでなく、賭け屋までが堂々とレース表を貼りだして商売をしていた。
「プエンテックが2.5倍! アコスタが2.7倍! さあ、賭けた賭けた!」
「ちょっと渋すぎねえか? もっと配当がいいの出せよ」
「しょうがねえな、じゃ、大穴でガンゾ!」
「聞いたことねえよ、そんな車」
怒鳴り声と笑い声をすり抜けて歩いていたミゲルは、突然立ち止まった。彼の目は前方を歩く人物に釘付けになった。後ろ姿しか見えないその男性をミゲルは必死で追った。
「……ラモン!」
だが呼びかけは喧噪にかき消されたのか、男性は間もなく視界から消えてしまった。若い社員は呆然と立ち止まった。
「いや、そんなはずはない。ラモンはもう……」
破壊工作に加担し、憲兵に逮捕された後に死んでしまったはずだ。似た人を見間違えただけだと自身をどうにか納得させ、ミゲルは社長たちがいる部屋に向かった。
グランドスタンド内の貴賓室に通されたローディン王弟ジョンとアグロセン第四王女カイエターナは、それぞれの随員と愛犬と共に大きな窓からヴァルヴェルデサーキットを眺めた。このレースの主催者ホセ・ビセンテが緊張気味に二つの国の王族にコースの特徴を説明した。
「このグランドスタンド前の直線は、最もスピードが出る区間になっております。どの車も時速60マイル以上で突っ込んできますよ。直線の終わりにはほぼ九十度近い右コーナーがあります。下り勾配のカーブですので減速のタイミングが難しくなっています」
ジョンは双眼鏡で、カイエターナはオペラグラスで長いストレートの先を見た。一見兵站に見えるコースは元の地形を生かしたアップダウンがある。ビセンテは説明を続けた。
「第1コーナーを抜ければ高速ロングコーナー、180度コーナーが待っています。ヘアピンの後のコーナーで下りと上りの勾配があり、中盤の高速コーナーに繋がります」
その先にはバックストレートがある。スピードの見せ所のようだがスタンドがなく吹きさらしなため、風の影響を受けやすそうだとジョンは推測した。
直線の先には右に左にとせわしなくコーナリングしなければならない2連ヘアピンがある。更に高速コーナー二つを乗り越えてホームストレートに戻るレイアウトだ。
――見た目はそこまで複雑そうではないが、勝つためにはスピードだけではなくブレーキングやコーナリングなど総合的な高性能を要求されそうだ。まあ、背後から撃たれる心配がないだけ運転に集中できそうだが。
任務中における自動車は主に逃走手段だったことをジョンは思い出した。車種を問わず乗りこなせるようになった彼には、車の性能とドライバーの技術のみを競うというのは新鮮に映った。
その隣で説明を聞いていた第四王女は、ともすればコースよりも王弟の方にオペラグラスを向けかけては侍女に注意される始末だった。
「失礼ですよ、姫様」
小声で注意するパロマに、王女はやはり小声で言い訳した。
「だって、より近くで拝見したいのですもの」
侍女が溜め息をついた時、貴賓室におずおずとしたノックの音がした。
「失礼します。社長、ピットに祝杯用の箱を届けてきました」
プエンテック社の若い社員、ミゲル・ベセラだった。エステベス社長は彼に笑顔を向けた。
「外の様子はどうだった?」
「凄い人出です。入れない人も屋台で飲み食いしたり賭けをしたり…、あ、失礼しました、殿下」
王族一行に気付いたミゲルは慌てて頭を下げた。構わないとローディン王弟は彼に声をかけた。
「『グローリー』号でみかけた人だね。体調を崩していたようだったが」
「は、はいっ、もう大丈夫です」
直立不動になるミゲルに、周囲から笑いが漏れた。その後、青年は急に表情を曇らせた。
「どうした、ミゲル」
エステベスに問われ、若い社員はぽつぽつと答えた。
「いえ、ちょっとラモンに似た人を見かけて思い出してしまって…」
「そうか」
慰めるように社長は彼の肩を軽く叩いた。ジョンは素早く副官と護衛に視線を送った。彼らは無言で小さく頷いた。




