35 脱兎のごとく
――ここで本物到着…。
ダンサーを装い尾行の目を誤魔化す計画が脆くも崩れてしまった。焦る内心を表面に出さず、ジョンは笑顔で演奏者に合図をした。音楽が流れる中、カイエターナに小声で告げる。
「適当なステップで出口に」
彼女は楽しそうに頷き、二人は再度踊り始めた。客たちの歓声が沸き、ダンサーと言い合いになった店主が混乱した様子で呼びかける。
「え? あんたら誰なんだ?」
偽カティア&マルシオはにこやかにアンコールに応えながら店の出入口に到達し、脱兎のごとく駆け去った。
「チキティート!」
王女が呼ぶとすぐさま銀灰色の猟犬が追いついてくる。強行突破に尾行者は慌てているようだ。
道の脇に停められた自転車を目にしたジョンは、カイエターナをそれに乗せ、立ちこぎで走り出した。尾行者の気配が遠ざかったのも束の間、背後から自動車のエンジン音がした。迷うことなく追跡してくるのに、ジョンは自転車を港に通じる下り坂に向けた。全速で走る先に馬小屋が見えた。
追跡車との距離、黒づくめの自分たちが夜に溶け込みやすいことなどを計算し、彼は同乗者に告げた。
「合図したら左側の藁山に飛び降りて」
「はい!」
自転車は尚も加速し、自動車の前を行く。タイミングを計りながらジョンは合図した。
「1、2、3!」
二人は馬小屋脇の藁山に飛び込み、空の自転車はそのまま坂を下った。自動車が通り過ぎるのを確認し、ローディンの王弟は王女に怪我はないかと声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「ええ、今夜は大冒険ですわ」
怖がる様子など微塵もない彼女に苦笑が漏れた。やがて自動車が引き返す音がした。
「こちらに」
彼らは馬小屋の影に隠れ、ジョンはシャツの内側から拳銃を取り出した。登坂する自動車に向けて発射すると前輪のタイヤが破裂した。
罵り声の後、自動車から発砲音がした。闇雲な乱射から逃れ、二人は囲い場の柵を見事な前傾姿勢で跳び越えた。猟犬も後に続く。
その先は崖になっていた。ジョンは海に向けて小型の投光器を点滅させた。すぐに海上から光が応えた。
岩場を避けて崖を移動し、高さはあるが安全な箇所を彼は見つけた。
「失礼」
王女を横抱きにし、ジョンは忠告した。
「しっかり掴まっててください」
「はいっ、喜んで!」
逃走劇の最中とは思えない元気な声が返ってきた。彼は続けた。
「大きく息を吸って、息を止めて。1、2、3!」
次の瞬間、二人は崖下へと飛び込んでいた。運動できて大喜びの猟犬も一緒だ。
落下の勢いに逆らわず、海中での沈降が緩やかになったところでジョンは浮上を試みた。二つの月があるおかげで海面は明るく、どうにか短時間で顔を出すことが出来た。
さすがに咳き込むカイエターナを気遣い言葉をかける。
「大丈夫ですか? 犬の首輪を掴んで浮いてるだけでいいですから」
「……はい」
間もなく小型船が彼らに接近した。
「ご無事で、殿下……、あの、そちらは…」
第四王女を見て固まるジェフリーに、ジョンは引き上げるように言った。
「説明は後だ。王女殿下を先に」
カイエターナの後で王弟が小型船に上がり、悠々と犬かきをするチキティートが最後だった。猟犬は海から上がるなり盛大に身震いし、周囲に海水を撒き散らした。
「王女殿下に毛布と飲み物、それからホテル経由でエスピノサ伯爵邸に連絡を」
ミロンガダンサーの衣装について問い正したそうな副官に何も言わせず、王弟は船を港に急がせた。
その後、大慌てで迎えに来た伯爵夫妻と侍女にカイエターナはしおらしく謝り伯爵邸へと戻っていった。王弟一行は多大な疲労感を抱えながらも、ようやく一日を終えることとなった。
散々説教を受けた後で就寝の準備をした第四王女は、一日の終わりの祈りをした。
「今日はジョン様と一緒に邪悪なクレーンを成敗して、お散歩中にジョン様に会えて、一緒に踊って逃げて海に落ちました。充実した一日をありがとうございます、神様」
窓から見える二つの月が祝福するかのように輝いていた。
翌朝、エスピノサ伯爵が苦笑交じりに妻と義妹に伝えた。
「ローディンの王弟殿下からお詫びの手紙が届いているよ。心ならずも王女殿下を危険な目に遇わせてしまったとね」
ストロベリー・ブロンドも眩しい伯爵夫人が華やかに笑った。
「義理堅い方ね。カイエターナが勝手に押しかけたのに」
そして、年の離れた妹に言った。
「ご迷惑をおかけしたことは分かるわね」
「はい、お姉様」
さすがに今日の彼女は神妙だった。伯爵夫人は不思議そうに尋ねた。
「どうしてメイドの服など着たがったの?」
「……それは、ジョン様がホテルのメイドと親しそうで…」
「メイドを大勢侍らせる趣味でもあるのかしら」
「一人だけでした」
「なら、その子と親しいというだけね」
むっとする妹の頬を両手で挟み、コンスタンサが笑った。
「そんな顔をしないのよ。元に戻らなくなったらどうするの? それに、王弟殿下がメイド趣味だったとしても、相手のホームで戦うなんて愚か者のすることよ。あなたはあなたが一番輝ける所で魅力を発揮しないと」
そう言って長椅子にしどけなく横たわり髪を掻き上げる伯爵夫人は、妹の目から見ても艶やかで大人の女性の魅力に満ちていた。
「私だって姉様みたいに美しければ余裕を持てました」
拗ねたようにカイエターナが言うと、コンスタンサは声を立てて笑った。
「今から花開く薔薇が何を言うかと思えば。さあ、王弟殿下にお返事を書いて安心させておあげなさい」
第四王女は侍女と一緒に部屋に戻った。
義妹を見送った伯爵が妻に言った。
「元気がないようだが、大丈夫かな」
「今夜の夜会にあの子の『運命の人』を招くと分かったら、すぐに元気になるわ」
麗しい伯爵夫人は夫の腕にもたれて微笑んだ。
ローディン王弟が滞在中のホテルでは、第四王女が怪我もなく元気だということでやっと平穏が戻ってきた。
「こう言っては何ですが、見た目からは想像も付かないほど健康で頑丈なお方ですね」
副官のジェフリーが感心とも呆れともつかない表現をした。ジョンは否定できなかった。
「確かに、妙に運動神経のいい王女殿下だ。」
初めてだったはずのミロンガの堂々たる踊りっぷりを思い出すと、クレーン大決戦が続いて頭に浮かんだ。
「あのクレーンをいきなり操縦するのは無謀もいいとこだが、コツを掴むのは速かったな」
全ての機械兵器を扱える天賦を持つ護衛のロイドが、ぴくりと反応した。
「やはり、ローディン王族の血がそうさせるのでしょうか」
「分からん。考えても埒があかない」
思い悩む彼らの元に、その第四王女からの手紙がもたらされた。凝った型押しの便箋から花の香りがした。手紙に目を通したジョンは部下に告げた。
「元気だから心配ないとある。それと、エスピノサ伯爵家の夜会に招待された」
ファイサン社交界へのお誘いに、ローディンの王弟は溜め息をついた。この場合行かないという選択肢は存在しない。相手は第三王女の嫁ぎ先なのだ。
「仕方ない。伯爵にも詫びねばなるまい」
この港湾都市ファイサンは伯爵家の領地であり、イービス造船は彼が都市の工業化の目的で招致した会社の一つだ。クレーンの損害もあるため、今は低姿勢でいくしかないと王弟は判断した。
招待への礼と夜会に参加する旨の手紙をしたため、ジョンは副官に渡した。




