3 絢爛たる薔薇
喪服の王太后を中心とした一団は、ゆっくりと国王の前に進み出た。彼女たちの周囲から色彩が消え失せたような錯覚をもたらしながら。
さっきまで軽口を叩いていた貴公子たちも無言で礼をとった。
王太后エレノアは我が子である国王アルフレッドに告げた。
「私はそろそろ宮に戻ります。あなたは特使の方々に失礼の無いように」
「分かりました、母上。盛況に祝ってもらえたことを感謝しております」
丁寧な謝辞に、王太后は侮蔑の視線を投げつけることで答えた。
「盛況? 次官級しか寄越さない国もあるというのに。あなたが軽く見られるからこの程度の祝宴しか開けないのですよ。ゆめゆめ忘れぬように」
アルフレッドの表情がゆっくりと消え、視線が床に落ちていく。それを引き戻したのは華奢な手だった。彼の腕にそっと手を添え、婚約者となったウェリントン伯爵令嬢マーガレットが王太后をまっすぐに見据えた。
「結婚式では元首、国主が居並ぶことでしょう。婚約の段階でこれほどの来賓に祝っていただけて満足しております、陛下」
「そなたの高望みが失望に変わらないことを祈るとしましょう」
それだけ言うと王太后は侍女たちを引きつれて一角竜の間を出て行った。マーガレットはアルフレッドの手を優しく包み、手のひらに爪を食い込ませる力を和らげた。彼は婚約者に感謝するように頷いた。
兄がこの令嬢を得られたことは僥倖だ。そう実感するジョンに、アルフレッドが声をかけた。
「母上は、その……」
心配そうな彼に、ジョンは首を振った。久しぶりに顔を合わせた今夜のパーティーで、王太后は次男に視線を向けることすらなかった。
彼女が長男に与えたのは圧力と支配だったが、次男への対応はただ一つ、無視のみだった。
ジョンは物心ついた頃から公式の場以外で母親の顔を見たことはない。出産後に育児室を訪れたことすらないのは宮中の女官の間では有名だった。
彼にしてみれば今更すぎることだ。別に寂しくもない、悲しくもない。
王家の人々を遠目に覗う貴族たちの中から、王弟と王太后の噂通りの冷え冷えとした関係に驚く声がした。
「王太后陛下は王弟殿下の何がお気に召さないのやら」
「国王陛下と比べて見劣りするのは仕方ないとしても、あれほど露骨に無視されるとは」
「王位継承権第一位の王族に伯爵位しか与えないのだからな」
王妃時代から、エレノアはアルフレッドを溺愛しジョンをいない者のように扱ってきた。
これほど待遇の違う兄弟仲が良好なのは、ひとえに母親に対する反感からだ。アルフレッドは弟に対する冷淡な扱いに胸を痛め、ジョンはなまじ期待されたせいで親を見限ることができない兄を気の毒に思ってきた。
だが、時が状況を変えようとしている。母太后に押さえつけられてきたアルフレッドは伴侶を迎え、母の影響を振り払うつもりなのは明らかだった。いつまでも「幼い国王」ではないことを国の内外に示そうとしている兄を、ジョンは全力で支持するつもりだ。
国王アルフレッドが溜め息をついた。
「母上もどうかしている。父親に似なかっただけで我が子の存在すら認めないなど」
それにはジョンは苦笑するしかなかった。
「父上は若くして亡くなられたし、母上との大恋愛は今でも語り草だからな」
アルフレッドへの過大な期待は、父親の血を濃く受け継いだ端正な容姿も原因の一つだろう。ジョンの方はどうやら父方の祖母に似ているらしい。母との嫁姑関係は険悪だったと聞いたので納得できる話ではある。
「僕は気ままに動けることをむしろ幸運だと思っているよ。伯爵位なら外国でも不自由なほど警護されなくて済むし」
王弟であるジョンに与えられた爵位は王族に用意されたもののうちで最も格が低く、捨て扶持同然とすら言われるほどだ。実質的最高権力者である王太后に見放されたような状況では、好んで寄ってくる追従者もいない。当の本人は、そんな者がいればクーデター要員のブラックリストに入れてやるのにと密かに残念がっていたが。
傍目には和やかに語り合う兄弟の元に、海軍の制服を着た人物が歩み寄ってきた。彼は敬礼をすると報告を始めた。
「失礼します、王弟殿下。情報部より通達です。A国に異変あり、翌朝07:00に出頭せよと」
「了解」
答礼し、ジョンは国王の前を辞去した。一角竜の間を出ると待機していた副官と護衛が影のように後方に付き従った。
「何か聞いているか? 今夜の捕り物の成果にしては速すぎるが」
王弟に尋ねられ、副官の海軍中尉ジェフリー・クーパーは難しい顔をした。
「アグロセンとの関係は良好ですし、王室内も安定していますし」
「大きな事件事故の速報も入っていません」
護衛の海軍少尉ロイド・スコットも困惑を隠せなかった。ジョンは頷いた。
「非常招集でないなら緊急事態ではないということだろう。明朝になれば分かることだ」
彼らは王宮の回廊を進んだ。ジョンが後にした一角竜の間では、王弟がいなくなったことに気づく者はほとんどいなかった。
アグロセン王国の首都エスペランサ。その郊外にある広大なロッサフエンテ宮殿は壮麗な薔薇庭園で有名だった。中でも王族とごく限られた者のみが入ることの出来るハルディン・レアール。
色とりどりに咲き乱れる大輪の薔薇の中、東屋の長椅子に一人の年若い女性が座っていた。第四王女カイエターナ・テレサ。艶やかな黒髪と情熱的な黒い瞳の、西方大陸随一の美形王室と謳われるアグロセン王家の名に恥じない美貌の持ち主だった。
彼女は今、目の前にひざまずく青年に懸命に集中しようとしていた。
――頑張るのよ。今度こそちゃんと相手を認識しなければ失礼だわ。この方は人間なのだから。そうよ、目が二つ、鼻が一つ、口が一つ……。
王女の内心の珍妙な葛藤に気付くはずもない貴公子は、悩ましげな表情を見せる相手にありったけの美辞麗句を捧げた。
「ああ、これほどの絢爛たる薔薇の中にいても、あなたの美しさにかなう花などありません、カイエターナ王女殿下。その見事な黒髪、燃えるような黒い瞳は薔薇の色彩などかき消してしまう。私の心も同じ、あなた以外の人など目に映りません。どうかこの気持ちを……」
長々とした賛辞は聞き覚えがあるばかりか毎日言われていることと大差なく、王女は何千回目だろうかとつい気をそらしてしまった。その途端、恋心を訴える青年の頭部が彼女の視界でイモに変化してしまった。
――……まただわ。
小さく溜め息をつくと、求愛中の貴公子は大げさに両腕を広げた。
「どうかそんな悲しい顔をなさらないでください。私の想いを伝えるのに言葉は不自由すぎる。ぜひこの愛を……」
「王女殿下はご気分が優れないようですので」
彼の台詞を遮ったのは王女付きの侍女だった。むっとした青年が邪魔者を排除しようと立ち上がった時、長椅子の背後から剣呑な唸り声がした。
のそりと王女の前に歩み出たのは大型の銀灰色の猟犬だった。鼻にシワを寄せ、牙を剥きだして威嚇する姿を見て、貴公子は非常に素早く王女から距離をとった。
「そ、それでは失礼します」
慌てて庭園から逃げ出すのに、侍女が呆れた声を出した。
「長口上の割に呆気なかったですね」
王女は困ったように彼女に言った。
「どうしましょう、パロマ。あの人もイモに見えてしまったわ」
「仕方ありませんね。私でもさっさと求婚者リストから外しますよ、あんな口先男」
「でも、お父様やお母様をまたがっかりさせてしまうわ」
「皆様は気にされませんよ。カイエターナ様のお目にかなわない者が一人二人消えた所で」
辛辣に励ます侍女の言葉にカイエターナは苦笑した。手にざらりとした感触がし、彼女はその方に目をやった。愛犬が慰めるように手を舐めているのに微笑み、その頭を撫でて王女は立ち上がった。
「部屋に戻りましょう、チキティート」
侍女とアグロシアン・ウルフハウンドを連れてカイエターナは王宮の中へと入っていった。