24 いつものポジション
帆船『グローリー』号の訪問当日、第四王女は朝から何も手に着かない様子だった。
「嬉しいわ、パロマ。またあの方にお会いできるのよ!」
「ええ、絶好のチャンスです。誰よりも美しい姫様を見せつけて差し上げましょうね」
侍女は今日のために選んだ白と水色のドレスを広げ、カイエターナは愛犬を撫でながら言い聞かせた。
「今度はお船に行くのよ、チキティート。もうあの方を困らせないでね」
優美なアグロシアン・ウルフハウンドは主の手を舐めて承知したように吠えた。
青空を背景にして白い帆が膨らむ。4本マストの大型帆船『グローリー』号は出港準備の慌ただしさの中にあった。
出港といってもカサアスールの港周辺を一回りするだけだ。アグロセン王家の人々が歴史的軍艦を表敬訪問するのに合わせての遊覧航行とも呼べる。
とはいえ、駆動機関を持たない帆船は風を捉え動力源とするための様々な準備が必要だ。マストに張る帆の一枚一枚には全て個有の名があり、各帆には担当の水兵が着いている。展帆も縮帆も人力で行うため、甲板長の号令一下で持ち場のロープを引く作業が船のあちこちで見られた。
特にフォアマスト最下段の大横帆クロジャッキには、最も多くの水兵がロープを引く姿が見られた。大きな帆が広がった時、今日も港に集まる見物人のから歓声が上がった。
ロープを固定する作業が終わると、水兵たちは客人を歓迎するためクロジャッキの帆桁に登った。シュラウドをするすると登った水兵が後から来る者に手を貸した。
「ありがとな、…えっと……」
引き上げてもらった水兵は礼を言おうとして口ごもった。隣の者にこっそりと尋ねる。
「あいつ、誰だったかな?」
仲間も首をかしげた。
「えっと……? ま、同じ班だろ」
名前も顔も出てこないがとりあえず同僚だろうとかれらはあやふやな結論に至った。それを聞いていた水兵姿のローディン王弟ジョンは笑いを堪えた。周囲から認識されないが受け入れられるいつものポジションに、彼はえも言われぬ安心感に包まれていた。
――うん、落ち着く。
ロッサフエンテ宮殿での予想外の出会いから注目の人物となってしまった不本意な状況を、ひと時忘れさせてくれる憩いの時間だ。
港が騒がしくなった。見物人が兵士に道から退散させられている。王家の馬車が到着したためだった。人々は降りてきた国王夫妻と王太子、そして美しい第四王女に沸き立った。
――そろそろ戻らないとジェフリーが拡声器を持ち出しかねないな。
そう考えていた彼は、いきなりのコールに危うく帆桁から滑り落ちそうになった。
「ご機嫌よう、ジョン様!」
日傘を手に、明らかに王弟に向けて手を振るのは第四王女カイエターナだった。
――何故分かるんだ……。
しばし呆然とした後、周囲がざわつくのに彼は気がついた。さっきまで当たり前のように一緒に帆を張っていた水兵たちが、怪訝そうにこちらを見ている。
「……あのお姫様、さっき、ジョン様って」
「それって、王弟殿下?」
「まさか……」
これ以上の擬態は不可能と判断し、ジョンは仕方なく手近のロープを掴むと甲板へと滑り降りた。
そして何食わぬ顔で艦長が出てくる階段横に控えるのだった。
煙もなく、石炭の臭いもなく、船首から船尾にかけて並ぶ4本のマストに張られた帆だけで航海する帆船。
『グローリー』号を前にした国王は、息子同様に目を輝かせて戦列艦に見入っていた。
「我が国も一隻くらいは残しておくべきだったか…」
残念そうな国王の隣で、王妃は船首にある海竜像を感心しながら眺めていた。
「ローディンに降臨した月の竜はあんな姿をしていたのかしら」
二百年近く昔、西方大陸の強国に新王が即位すると月から降りてきて祝福を与えたという竜は、様々な形状をしていたと言われる。その恐ろしくも勇壮な姿を家紋にする貴族はアグロセンに多かった。
水かきのある足と魚のようなひれの付いた尾。バウスプリットに巻き付くように作られた海竜の像は王家の人々にも珍しく映った。
両親と兄とは違い、第四王女は港に到着した瞬間からひたすら「運命の人」を探した。そして、大きな帆桁に並ぶ水兵の中に間違えようのない顔を見いだしたのだ。
「…どうやって見つけたのですか?」
「だって人のお顔をしていますもの」
侍女の質問にカイエターナはあっさりと答えた。白い服の水兵たちは顔まで白一色に見える中、一人だけちゃんと顔があるのだから誰にでも分かるというのが彼女の言い分だ。
そんな中、甲板が騒がしくなり笛が鳴った。艦長が姿を見せたことを知らせる笛だ。
『グローリー』号艦長ダグラス少佐が副長たちを引きつれてタラップを降り、国王夫妻に敬礼した。
「国王陛下、王后陛下、お目にかかれて光栄であります」
艦長に答礼し、国王ファドリケがほれぼれと帆船を見上げた。
「こちらこそ、歴史に名高い戦列艦に乗船できるのを待ちわびたよ」
「いつでも出発できますよ」
「それはありがたい……?」
上機嫌の国王はいつの間にか水兵が自分たちに混じっているのに気付いた。それがローディンの王弟だと更に気付くのに数瞬かかった。
「王弟殿下…」
お気になさらず、とジョンは片手をヒラヒラさせた。
「ああ、これは水兵に混じって訓練を受けてました。普段怠けているもので」
「…そうですか」
芸の無い返事しか出来ない国王の代わりに賛美の言葉を向けたのは第四王女だった。
「外国に来てまで鍛錬なさっているのですね、流石です!」
「い、いえ、訓練してようやく人並みと言うだけで…」
軌道修正を試みるも、王女の黒い瞳の輝きは衰えることはなかった。ちらりと見た副官と護衛の顔は諦めようと語っている。ジョンは素直に従った。
「では、こちらへ。陛下の訪問を『グローリー』号乗員一同歓迎します」
絨毯が敷かれた特別なタラップが舷側に掛けられ、艦長と王弟は国王一家を導いた。王妃のみが侍女たちと一緒に馬車で待つことは通知されている。
カイエターナは兄王太子の腕を取り、父親と語りながら先を行く王弟をうっとりと見つめた。その後に王家の護衛と王女の侍女が続く。侍女は王女の愛犬の引き綱を持っていた。
帆船はその大きさもさることながら乗員の多さも王女を驚かせた。
「何て沢山の人がいるのかしら」
「この人数が帆船の航海には必要なのですよ」
目を瞠ったカイエターナはにっこりと微笑んだ。
「でも、ジョン様のおられる所なら一目で分かりますわ」
「…そうですか」
必死で愛想笑いを浮かべながらも、王弟の内心は穏やかではなかった。
――目立たず周囲に溶け込む諜報活動の基本が……。
実績と共に築いてきたはずの自信ががらがらと崩れかけるのを懸命に押しとどめるジョンだった。
彼らの背後に控える侍女のパロマは、大型猟犬を珍しげに見る水兵たちの視線を無視し王弟の言動を脳裏に刻み続けた。不意に、彼女は行く手を遮られ立ち止まった。
「失礼。そちらは予備ロープの箱がありますので気をつけて」
筋骨たくましい将校服の男性だった。暑い中でも白手袋を嵌めた手で誘導してくれる。
「ありがとうございます。殿下の護衛の方ですか?」
「はい、スコット少尉であります」
堅苦しくロイド・スコットは答えた。こっそりと王女付きの侍女は彼に尋ねた。
「王弟殿下はどのような女性がお好みなのでしょうか」
ロイドは固まった。溜め息交じりに侍女パロマは語った。
「我が王女殿下は近隣諸国にまで名高いほど美しく情の深いお方です。言い寄る貴公子に目もくれなかった殿下にあのように思いを寄せられているのにつれないのはどうしてでしょう」
「……小官は関知しておりません」
「でしょうね」
あっさりと肯定し、パロマはチキティートを連れて甲板を歩いた。




