2 真昼のランプ
ささやかな困惑を引き起こしながら、王弟ジョンはグラストンベリー宮の大広間を進んだ。巨大なシャンデリアが輝く中、今夜の主役は中央で人々に囲まれていた。
ローディン国王アルフレッド二世。テューダー王朝の開祖であり大アルフレッドと呼ばれる伝説の王の名を受け継ぐ青年は、華やかな王宮に劣らぬ秀麗な容姿で知られる。
豪華な金髪と夏の海を思わせる青い瞳は幼少期から周囲の女性を騒がせてきた。彼に近づく女性は王太后が目を光らせていたため、遠巻きに眺めるしかなかった者が大半だったが。
若くして王位を継ぎ、浮いた話もないまま政務に没頭してきた国王の、突然の婚約の一報が世間を騒がせたのはひと月前。王太后すら寝耳に水の電撃作戦を知っていたのはジョンを始めとするごく一部の側近のみだった。当然王太后は激怒した。
これまで母親に服従を強いられてきたアルフレッドはこの件に関しては頑として譲らず、結局宰相の説得と譲位も辞さない決意に渋々王太后は婚約を認めたのだった。
兄の晴れやかな笑顔を見て、ジョンは改めて祝福する気持ちを抱いた。アルフレッドの選んだ相手――ウェリントン伯爵令嬢マーガレットは赤褐色の髪と青緑色の目を持つ穏やかな印象の女性だ。
視線が合うたびに微笑み合う二人はお似合いの一対で、婚約披露会場は乾杯の声がそこかしこから聞こえてきた。
弟の姿を目に留めた国王アルフレッドが、彼に声をかけた。
「どこに行ってたんだ?」
「少し用事が出来て。改めてお祝いを言うよ。兄上、レディ・マーガレット」
「ありがとう。今回は色々力を貸してもらえて助かった」
「大したことはしてないさ。母上の勘気を被っても諦めず戦ったのは兄上だ」
「お前の時は私が全面的に協力するよ」
「うーん、それより先に、王位継承権第一位から降りたいなあ」
暗に早く世継ぎを作ってくれと言われ、アルフレッドとマーガレットは同時に顔を赤らめた。
国王兄弟が談笑する様子を目にした来客の中には、こっそりと笑う者もいた。
「兄弟でもあれほど差があるとはな」
「本当に。いつ拝見しても麗しい陛下に比べ、実の弟なのにうだつの上がらないこと」
「王太后陛下が冷遇するのも無理からぬ事か」
「海軍と言っても、名誉職なのでしょう?」
「大学もいつの間にか放逐されたとか」
好き勝手な噂話の断片が耳に届いても、ジョンは眉一つ動かさなかった。
――よし、途中で抜け出したことは気付かれてないな。
学生時代から海軍情報部で活動してきたことも、大学の卒業式当日は任務で南方大陸にいたことも極秘事項だ。
――あの時は、危うく大型翼竜のエサになりかけたなあ。
洒落にならない修羅場をしみじみと思い出していると、壁に掛けられた大きなタペストリーに目が留まった。テューダー朝の開祖、大アルフレッドの戴冠を描いた力作で、この大広間が「一角竜の間」と呼ばれるゆえんだ。
それは、開祖の即位を祝うために月から降りてきた竜が織られたものだった。頭部に大きな角を持つ月の竜は翼を広げ、玉座についた王を守るように人々を圧倒していた。
かつて西方大陸の強国に新たな王が即位すると現れたという竜が伝説となって久しい。戴冠式に献上された南方大陸当たりの生き物を誇大広告してきたのではと、ジョンなどは密かに思っている。
幼い頃から見てきたタペストリーだったが、ジョンには一つ気になる所があった。
――月の竜の祝福を得た戴冠ならそれを強調しそうなものなのに、竜の姿がどこかぼやけて見えるのは何故だろう。
注意して見れば、竜の姿は全体が織物の中に収まっていない。巨大さを印象づけるために見切れている訳ではなく、輪郭がぼやけ尾にかけて薄れているのだ。
竜の神秘性を表しているなどという説もあるが、彼にはこの竜が幻であるかのように描かれていると思えてならなかった。
長年の疑問は、賑やかな笑い声にかき消えた。兄アルフレッドが親しい友人たちに電撃婚約を冷やかされ、マーガレットと一緒に笑っている。一時期、母太后に抑圧されていた頃の鬱屈した様子はかけらもないのにジョンは安堵した。ウェリントン伯爵令嬢と出会ってから、兄の表情は明らかに明るくなっている。
ウェリントン家は古くからローディンの海防を担ってきた一族だ。大海戦では常に一族の存亡を賭けて果敢に戦い勝利を収めてきた。特に、南方大陸の植民地反乱に加担したユドス連盟軍とのアヴァロン海海戦において劇的勝利を収めたウェリントン大将は有名だった。彼の戦術は、軍艦が帆船から蒸気船に変わった今も列強全ての海軍の教則として取り入れられているほどだ。
――おかげで、海軍ではこの婚約は熱狂的に受け入れられてるからな。
今から結婚式でどの艦が祝砲を撃つかについて激戦が起きている。身内ということで中立を貫くジョンは、若い海兵までが賭けの対象にする様子を面白がった。
不意に彼の目の前を外国の要人らしき者が通り過ぎた。彼が向かう先に目をやり、ジョンは知らず知らず眉間にシワを寄せた。
それはこの会場で異彩を放つ一角だった。華やかなドレスと礼装が溢れる中で沈み込むような黒一色の者。
ローディン王国王太后エレノア・アストリッド。早くに夫を亡くし幼い国王の摂政として辣腕を振るった女性だ、喪服姿の小柄な貴婦人が、大広間の半分近くを支配していた。
喪服の王太后に仕える侍女たちは皆灰色のドレスで、女主人の背後にひっそりと控えている。各国から訪れた大使や王族たちは若い国王に挨拶した後、まっすぐに王太后にご機嫌伺いをするのがローディンの王宮の日常だった。
二分化した宮廷の状況を、ジョンは醒めた目で眺めた。アルフレッドはまだ二十七歳。周囲からは母親の庇護下でぬくぬくと守られてきた若造と見られがちだ。
――そんなぬるま湯ではなかったのにな。
確かに王太后は長男に期待を掛けてきた。彼もそれに応えようとした。だが、必死の努力はいつしか終わりのない苦痛に変わった。エレノアは自らの理想からほんの少しでも外れることを許さなかったからだ。王太后が満足しなければ、それに費やされた努力も研鑽も無価値なものと成り果てる。弟の目から見た兄は暗闇の中で溺れかけているようだった。
今の国王の表情からは思いもつかないことだが。
兄の心がすり切れてしまう前に理想的な伴侶を得られたことに、ジョンはこっそりと感謝した。
レディ・マーガレットは『海の公爵』と呼ばれた名門貴族の令嬢であり、熾烈な戦いを生き延びた一族の姫君だ。芯の強さを内包した穏やかさで若い国王を支えていくだろう。
悪友たちのからかいに根を上げたアルフレッドが、考え事をしていた弟に助けを求めた。
「みんなあらゆる事を賭けの材料にするんだ、酷いだろう」
国王を取り巻く貴公子たちが一斉に笑った。
「海軍でも賭けているでしょう、王弟殿下」
「どの艦が祝砲の栄誉を賜るかなら、砲撃戦で決めればいいと思うけどね」
若い貴族たちは更に笑い声をたてた。無礼講を微笑ましく眺める者が大半だが、苦々しい顔をするご老体たちもいた。
「王弟殿下もいたのか。不謹慎を咎めるべき王族なのに情けない」
「無理もない、『真昼のランプ』だからな」
押し殺した笑い声も侮る視線も、ジョンはいつものように歯牙にも掛けなかった。彼らは知らないだろう。無意識に人々の注目から外れることこそが、数々の極秘任務を成功させてきた能力だということに。
やがて国王兄弟は、周囲の空気が変わった事に気付いた。高価な白大理石を敷き詰めた床を、黒い一団が音もなく近づいてきた。王太后が退去の挨拶に来たのだ。