秘密の発覚と『ひとみちゃん』
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
泣き声の入り混じった夢子の声を耳にした時は、「どんな惨状が……」と心中汗をかいた香穂子だが、落ち着いてみるとそこには意外な光景が広がっていた。
大木の桜の木の下。
すっかり歯を落として、木の下から空が見えるほどになった枝から午後の日差しが網目に差し込んでいる。
木のまわりのフェンスに腕を組んで寄りかかり、大口をあけて上を見上げている少年が一人。
そして、そこから少し離れた場所で向かい合う少年と少女。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい」
白いノートを小脇に抱え、拝むように手を合わせて頭上に掲げ、何度も頭を下げているのは夢子だ。
そしてその目前でにこにこと笑いながら頷いている坊ちゃん刈りの少年。
香穂子は、ぼんやりと上を向いたまま、まるで落ちくる枯葉を食さんとしているような月見里に近づいた。
「………枯葉っておいしい?」
「知るか」
手短に答えると、月見里は顔を下げた。
「それにしても……てっきり夢子、殴られでもしてるのかと思った」
「人聞きの悪いこと、言うんじゃねぇよ」
腕を組み、眉をしかめて言う月見里だが、どこか精彩がない。
「何? どうかしたの?」
下から覗きこむように香穂子が眺めると、バツが悪そうに月見里は他所を向く。
それでもなお香穂子が見つめていると、決まり悪げに右手で赤い髪をバリバリと掻いた。
「その……なんだ……泣かれるとよぉ。
まったくちょっと怒鳴っただけだってのに……くそっ。どうにも調子が狂うぜ!」
そのまま振り上げた右手を力なく、とフェンスに振り下ろす。
カシャン、という金属の軽い音がした。
困ったような、焦ったようなその横顔がおかしくて、香穂子は思わず頬を緩ませる。
「んなことよりっ!」
フェンスに寄りかかったまま乱暴に足を組むと、月見里は言い合う二人を見据えた。
「あの二人、なんとかしてやんねーと、永遠にあのままなんじゃねぇか?」
先ほどから「ごめん」「いいよ」「ごめん」「いいよ」の言い合いを続ける二人。
夢子と少年の頭が、シーソーのように順繰りに下がったり上がったりしている。
「よくもまあ……、あそこまでエンドレスな関係を維持しつづけられるもんだ」
呆れているのか感心しているのかよく分からない口調で言う月見里。
「まぁ、そうよねぇ。
……とりあえず、止めてくるわ」
長い黒髪を持ち上げるように頭を掻くと、香穂子は二人の方へ足を向けた。
香穂子が歩み寄ると、二人はぴたりと会話をやめ、顔を向けてくる。
「あー。二人とも、もういい?」
「香穂ちゃん……」
夢子に涙で潤んだ瞳を向けられ、香穂子は思わず「うっ」とうめいた。
(か……可愛い~!)
ふわふわとした天然パーマに色白の肌。
ふっくらとした頬が微かに上気し桜色に染まる。
ぱっちりと大きな目には、満点の星空のごとき煌き。……もっともそれは涙が反射しているだけなのだが。
「ぼけ。女が女に見とれててどうする」
ぱこんと乾いた音。何時の間にか香穂子の後ろに立った月見里が、生徒手帳で香穂子の頭を軽くはたいた。
「あ……月見里君」
途端にぴくっと頬をこわばらせる夢子。
その様子を見、月見里は軽く肩をすくませた。
「仁美……。こんなに謝ってるんだから、もういいだろう?」
一歩前に出て、少年が言うと月見里はそっぽを向いたまま答えた。
「あー、もういい。 なんか気が抜けた。
これからそんなモン作らねぇっていうんなら、俺はいいや」
「良かったね、夢ちゃん」
香穂子が夢子に抱きつくと、夢子はウンウン、と頷いた。
「本当にごめんね。月見里君、篠沢君。
もうしません。絶対」
「彼、篠沢君っていうんだ……」
名前を呼ぶと少年 ―― 篠沢浩二はゆったりとした笑みを浮かべた。
(うーん、こっちも男にしとくには、勿体無いほどの可愛さだわ~)
一筋の汗を浮かべながら会釈を返すと、香穂子は隣に立つ月見里を見上げた。
「んだよ」
見下ろす格好で(月見里の方が頭一つ分高いので、どうしてもそうなる)香穂子を見る月見里に、にんまりと笑った口で香穂子は言った。
「ところで……。仁美ちゃんって言うんだ、下の名前」
「…………!」
沈黙した月見里=仁美の頬がぴくりと引きつったのを、香穂子は見逃さなかった。
「そうだよ、月見里仁美って言うんだ。 知らなかったの?」
呑気に言う浩二に、夢子が真顔で頷く。
「知らないよぉ、皆下の名前で呼ばないし」
「いいじゃねぇか、俺の名前がなんだって。 なんかお前の人生に関係あるのかよ」
「ないよ」
ぴくぴくと頬の筋肉を痙攣させながら言う仁美に、香穂子はにっこりと笑う。
「でもねぇ。仁美ちゃんかー。へぇー」
「香穂ちゃん……」
腕を後ろ手に組み、珍獣を眺めるような格好で仁美を見上げる香穂子に、夢子は不安げな表情だ。
「ひっとみちゃん。可愛い名前~」
言いながらステップを踏むような足取りで桜の周りを歩き出す香穂子。
拳を腰のあたりで握り、仁美は一歩踏み出した。
「うるせぇっ! 俺を仁美と呼ぶな!」
「呼んだら……殴るの?」
「う……」
挑むような香穂子の視線に、仁美は言葉を詰まらせる。
握り締めた右の拳が、汗をかいて湿っている。
香穂子は首の後ろで腕を組むと、楽しそうに口笛を吹き始めた。
「香穂ちゃ~ん」
困ったような顔で少し離れた場所から香穂子を見つめる夢子の肩に、ぽんと手がのった。
「別に心配いらないってば」
振り向けば、浩二の大きい目が優しい笑みを浮かべている。
「仁美ってば、あれで別に小松さんの事、嫌いじゃないみたいだから。
本当に嫌だったら口もきかないよ、仁美は」
「そう……なの?」
不安そうな表情を浮かべる夢子に、浩二は大きく頷いてみせる。
「うん、だから中野さんも、そんなに怖がることないんだよ。
本当に怒ってたら、仁美は君のこと無視するだろうからね。
怒ってもらえたりしているうちは許容範囲。
存在を認めて貰っていることと、同義だからね」
「そうなんだ。 …………篠沢君は?」
「ボク?」
自分を指差し、浩二は目を丸く見開いた。
自分のことを聞かれるとは思ってもみなかった、という表情である。
「篠沢君は……やっぱり怒ると口をきかないの?」
「ボクはお喋りだから」
はにかんだように笑うと、浩二は右手の人差し指で頬を掻いた。
「怒ったら、言いたいことを全部言っちゃうと思うよ。素直にね、それがボク。
あ、素直で思い出したんだけど、一つ中野さんに言いたいことがあったんだ」
ポンと手を打つ浩二。
夢子はこくん、と唾を飲み込み、姿勢を正して浩二の言葉を待った。
「それ、よく出来てるねぇ!」
「……え?」
意外な言葉と浩二の指差す先。
そこには小脇に抱えた問題の白いノートがあった。
「中野さん、文章を書く才能があるんじゃないかな。とっても巧かったよ。
こんな物語を頭で考えだせちゃうもんなんだね!」
浩二は少々興奮した口調で続けた。
「うん、巧いよ本当に。読んでてその情景が頭に浮かんでくるみたいだった」
「本当?!」
思わず身を乗り出す夢子に、浩二も幾分身を乗り出して言葉を続ける。
「本当だよ。文字を書ける人は多いけど、文章を書ける人は少ないよ。
少なくともボクはいい文章だと思ったよ」
夢子の頬が上気する。
瞳は夢見ごこちに潤み、頬が緩んだ。
両手の白い指をそろえて胸元に組み、うっとりと上空を見つめる。
「ただね……」
申し訳無さそうに、浩二は言葉を濁らせる。
ハッと我に返って夢子は浩二を振り返った。
「ボク、やっぱり男より女の子が好きだから、できればそういう話には登場させないでね。
中野さんみたいな女の子が相手なら大歓迎なんだけど……、いくら顔がよくて可愛くても仁美じゃあねぇ」
「こっちから願い下げだっ!」
「可愛いっていう表現はどうなのかしら……」
『うわっ!』
話に熱中するあまりに背後に立った香穂子と仁美に気がつかなかった二人は、驚いて二、三歩下がった。
「というか、このノートを読んでその感想って……なかなか大物ね。篠沢君」
興味深い、とばかりに香穂子は真剣な眼差しを浩二に向ける。
照れたように「わはは……」と笑う浩二。
その横では、仁美が苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
夢子は思わずくすり、と笑いを漏らした時、四時の鐘が校庭に鳴り響いた。
「お……、なんだよもう四時かよ」
仁美が右手にはめた腕時計を見る。
ごつい腕にまかれたそれは、意外なほど華奢だ。白い文字盤に茶色の革バンド。文字盤はアナログで、十二時の場所に金色の線がついているだけだ。
「そろそろ帰ろうか」
にっこりわらって言う浩二に、つられて香穂子と夢子がこくりと頷いた。
「それじゃあ、鞄取りに行こうか。中野さんは持ってるから……僕らのは保健室だね」
四人は踵を返して保健室へ向かう。
と、行きかけた香穂子の足が止まった。
「どうしたの?」
夢子の問いに、香穂子は桜の木を指した。
「あそこ。桜の木の周りのフェンス。
下の方が破れてたのが直ってる。けっこうここの用務員さんマメだね」
桜を取り囲む青いフェンス。
転入二日目に香穂子がみつけた破れ目が、しっかりと補強されている。
かなり太い鉄製のフェンスだ。直すのは大変だっただろう。
「あ、なんか破れたところをうまくひねってあるよ」
近寄り、フェンスに顔を押しつけうようにして見る香穂子に、夢子は首を傾げる。
「そこ……破れてたの?」
「うん、あんまり大きな破れ目じゃなかったけど」
「ほら、気が付いてくれる人だっているじゃないか」
浩二の声に香穂子が振り向くと、肩を叩く浩二の手を振り解いている仁美がいた。
香穂子と目が合うと、カッと赤くなりそっぽを向く。
「……もしかして」
恐る恐る香穂子が指差すと、浩二は満面の笑みを浮かべて頷いた。
ハッとして香穂子は息を呑んだ。
あの日。校長室のガラスが不自然な割れ方をしたあの日。仁美はペンチを持っていなかったか?
工業用と思われる、赤い手のついたごついペンチを……。
「そうだよ、仁美が直したんだ」
「ばっ……、浩二、てめぇ余計なことを……」
胸倉を掴む仁美に、それでも浩二は嬉しそうな表情を見せた。
「だって、いつも誰も気が付かないってふててたじゃないか。
ほら、小松さんは気が付いてくれたよ。 マイペンチまで持ってきた甲斐もあったじゃないか」
「マイペンチ……って」
「うるせぇな! おら、早く鞄取りに行くぞ。
いつまでたっても帰れやしねぇ」
大股の蟹股で校舎に向かって歩く仁美を、浩二が慌てて追いかける。
正面玄関で執拗なまでにマットで上履きの汚れを落とす仁美の姿に、香穂子は自分の頬が緩んで行くのを抑えることができなかった。
(そうか、そんなところもあるんだ……!)
なぜか温かい気持ちが胸に浮かんでくる。
夕日を背に浴びながら香穂子はエントランスに向かって走る。夢子がその後に続く。
校庭では、紅く染まった桜が、ただただ四人の姿を見つめていた。