割れるガラスと白い手
ガッシャーン!
数個の菊の鉢をなぎ倒して、月見里が地面に倒れこんだ。
土が月見里のジャケットとズボンをうっすらと汚す。
「きゃっ!」
弾みで吹き飛ばされた破片をよけ、香穂子は飛び退った。
駆けつけた夢子が愕然とした表情で、香穂子の背中にすがりつく。
体操着姿のままの格好である彼女たちの足は当然剥き出し。
足と足が密着して、なんともこそばゆい感触だが、そんなことをにこやかに夢子と話し合える状況では、今はなかった。
騒ぎを聞きつけて集まってきたクラスメートが呆然と見守る中、月見里は倒れこんたまま手の甲でぐいっ、と口を拭った。
その甲に、一筋紅い物がついているのが見える。
殴られた時に唇を切ったらしい。
香穂子は一瞬、駆け寄ろうかと思ったが、肩にかかる夢子の手の感触にふと我に返り足を止めた。
胡乱な目つきで倒れこんだまま見上げる月見里に、数学教師・山下は唾とともに怒声を投げかけた。
「お前がやったんだろう……月見里」
眼鏡のレンズに光が反射して、山下の目を隠す。
その表情はどことなく得意気で、偏光レンズで曲げられた光のように、屈折した微笑みをしている。
「俺じゃあ……ねぇよ」
「嘘をつくな!」
床に倒れこんでいる月見里の胸倉を掴むと、山下はぐい、と引っ張り上げた。
「お前以外に誰が校長室のガラスを割るっていうんだ?
それに、これはなんだ!」
月見里のジャケットのポケットに手を突っ込むと、山下は何かを取り出した。
それを見た教室がざわつく。
赤い手のついた鋼の工具。
……ペンチだ。しかも大ぶりな工業仕様の物である。
「なんでこんな物を持って歩いているんだ? あ?」
「…………。」
月見里は沈黙したまま、鋭い目突き出山下を睨みつけた。
事件が起こったのは今日の午後。 五時限目の体育の時間だった。
香穂子たち女子は中庭の隅に設置されているテニスコートで軟式テニスを、男子は校庭でサッカーの授業。
この時間、今日までの皆勤賞をかなぐり捨て、月見里はどこかへと姿を消していた。
教師も慣れているのかそのことには特に言及はせず、授業は滞りなく進んだ。
そして授業が始まって三十分ほどたった頃。
「あれぇ?」
香穂子が力任せに振ったラケット宙を切り、そのままの勢いで中庭の奥へ転がって行く。
「ちょ……ちょっと待ってったら!」
追いつき、手にとろうとした瞬間、ボールは香穂子のつま先に当たってさらに先へと転がる。
「もー!」
相手の夢子に手で合図をすると、香穂子はボールを追って走った。
ボールは植え込みのある道を越え、舗装された小道を転げ、前からやってきた人物の足にぶつかって止まった。
「すみませーん」
ぜいぜいと前屈姿勢で肩で息をしながら香穂子が声をかけると、その人物はサッカーのリフティングの要領でポン、とボールを蹴り上げるとパシッ、と左手で受け止めた。
「すみませーん。もうこのボールがどこまでも転げちゃって……」
「……何やってんだ、お前」
「え……?」
呆れたような声に顔を上げると、そこにはポカンとした表情の月見里が立っていた。
服装は白いジャケットにズボンのまま。体操服にも着替えていない。
ふにゃふにゃとした軟式ボールを手でもてあそびながら、片眉を上げる。
「女子の体育は中庭の端でテニスだろーが。。
中庭の端からここまでボール追っかけてきたのかよ。……案外トロいのな」
「誰がトロいですって!」
香穂子の柳眉が逆立つ。
きりりとした表情がさらに険を加えてはっきりとした表情を作る。
しかし、そんな香穂子の様子に頓着せずに月見里はボールを上空に放り投げ、香穂子をからかうように片手で受け取った。
そもそもテニスラケットを持ったブルマ姿の女子高生の仁王立ちにひるむようでは、不良は勤まらないだろう。
「で、返して欲しいわけ?」
「当たり前でしょ!
まさかあんた、今時小学生でもやらないような馬鹿なマネをしようってんじゃないでしょうね!」
「するか、馬鹿。
ま、お前さんがもうちょっといい女だったら考えたかもしれねぇけどな」
「なんですってー!」
怒りに燃えた香穂子の左手が、ボールを持つ月見里の左手を掴む。
その瞬間。
ガッシャーンッ!!
耳をつんざくような音が二人の耳に飛び込んできた。
音の方向に首を向けた香穂子の頭に、ぽこん、と間抜けな音がしてボールが当たる。
「なんだ?」「校長室のほうだぞ」授業を受けていた他の教室からもザワザワと声が聞こえる。
校長室は中庭の中央に面した南の、日当たりの良い場所にある。
中庭の丁度中央。香穂子と月見里のすぐ脇だ。
無人の校長室の南向きの大窓は、ちょうど中央の部分に何かで叩き壊されたように、粉々に砕け散っていた。
呆然と手を握り合ったまま二人が固まっていたのは、時間にしてみると数秒か。
「いたっ!」
先に我に返った月見里がボールを押し付け、香穂子の身体を突き飛ばした。
「何を……」
香穂子が抗議しようとした瞬間、校舎から飛び出してきた山下が、月見里の胸倉を掴むと右手で頬を張り飛ばした。
月見里の目の前でふらふらとペンチを振って見せる山下。
「これで何をしていたんだ、工具なんぞ持って……。 立派な証拠だな、月見里。
いいか、今警察だって呼んでいるんだ。
そこで調べれば、これが凶器だってことはすぐに……」
「馬鹿じゃねぇの」
嬉しそうに悦にひたってしゃべっていた山下の言葉を遮り、月見里がせせら笑った。
「俺はやってないってんだろ。
大体、工具を持って学校にきちゃいけねぇ校則なんて、ねぇだろ。
……何持ってようと俺の勝手だ。プライバシーの侵害だぜ」
「何……!」
自分の胸倉を掴んでいた山下の手を左手で弾き飛ばすと、月見里は服についた埃を払いながら立ち上がった。
180センチほどある月見里は、小振りな山下より頭一つ分背が高い。
月見里は半眼に開かれた目を吊り上げ、山下をねめつけるように身ながら、頬に不敵な笑いを浮かべた。
「そんなに調べたきゃ、貸してやるよ。
は、せいぜい警察のとこ持っていって、恥を掻いてくるんだな。
たかが窓ガラス一枚で来るほど、警察も暇じゃねぇだろうけどよ」
「月見里、貴様!」
「キャーーーーーーッ!!」
突然、ギャラリーの女生徒から絹を引き裂くような悲鳴があがった。
「なんだ?!」
気勢をそがれて山下の視線がそちらを向く。
他の生徒もいっせいにそちらを向くと、声の主はすっかり腰を抜かしてぺたり、と尻を地につけていた。
「佐藤か、なんだというんだ」
ガクガクと震えながら、佐藤と呼ばれたお下げの女生徒は校長室の目の前に生えた銀杏の大木を指差した。
「せ……せん……先生……、あの……木の下に……」
歯の根の会わない様子の女生徒に業をにやしたのか、体操服姿の男子生徒が銀杏に近づいた。
思わず香穂子も一緒に近づく。
二人して佐藤が指差す方向にかがみこみ……そして息を呑んだ。
男子生徒が三歩ほど飛び退って叫ぶ。
「人の……人の手が生えてる!! おい!誰か埋まってるぞ!」
中庭が恐慌状態になる。
山下が膝を震わせながら校舎に走り去って行く。
ふいに肩にかかる手に香穂子が振り向くと、そこには青い顔をした月見里が眼を見開いて立っていた。
再び香穂子は銀杏の木に目をやった。
黄色い秋の絨毯につつまれた根元。そこに僅かに残る白。
ほんの僅かしか見えなかったが、それは人の手……白骨化した人の手に間違いなかった。