ドールハウスと現実少女
「一目あったその日から、恋の花咲くこともある」
とは言うものの、そんなことは夢物語なのである。
その時小松香穂子は、一筋の汗を額に浮かべながら、作り笑いを浮かべることしかできなかった。
「あー、小松君。小松君?」
今日から香穂子の担任になった教師・二年三組担当の辻川がとんとんと肩を叩く。
(気づいてよ、センセー)
ギギギっとさび付いたからくり人形のような動作で香穂子が振り向くと、黒板に香穂子の名前を書き終えた辻川が、教室の生徒たちに向かって朗らかな声を上げた。
「皆、今日からこのクラスの一員になった『小松香穂子』さんだ。
小松さんはK市からお父さんのお仕事の都合で引っ越してきたんだ。
仲良くやってくれよ」
「創英高校へようこそ!」
教室の一番前に座っていた女子が声を上げると、教室内に拍手と口笛。それになんだかよく分からない嬌声が上がった。
慌てて作り笑いを上げる香穂子。
しかし、その視線はクラスの最後列に釘付けのままだ。
私立創英高校の制服は男子は学生服……いわゆる学ランである。学ランの中は白いYシャツかTシャツが規定。
女子はやはり黒をベースにしたブレザーと、灰色のチェックのミニスカート。
それに紺のハイソックスがセットでついてくる。
ちなみにここは日本なので、男であろうと、女であろうと頭髪は大方が黒っぽい。
つまり。教室の相対的な色合いというものは「黒」が占めているのである。
しかし。
その中でぽつんと一箇所、白い点がある。
窓側の一番後ろの席。
白いジャケットを羽織り、周りの騒ぎに我関せず、という感じで両足を机の上に投げ出し、椅子を反り返らせている男子生徒が一人。
赤みがかった茶色の髪。伸びるに任せた、といった体でボサボサと好き勝手な方向を向いている髪。
割と筋の通った鼻。不機嫌そうにへの字を描く薄い唇。
その長い前髪から、藪睨みの目が見える。
目つきの悪さを別にすれば、そこそこ見られる風貌である。
しかし、その男子生徒の前と横の席だけ、ぽつんと不自然に席が空いている。
まるでそこだけ切り取られているようだ。
(……不良?)
なるべく視線を合わせないように、横目でそちらを見る香穂子の視界には、眉をしかめたまま自分を睨み続けている男の姿が見えた。
急な坂を登ると、そこから街を一望することができる。
コンクリートで固められた舗道は、朝の光を浴びてなんだか白っぽい。
その脇に整然と並ぶ木は……ポプラだろうか。
緑色の葉を豊富に蓄えた枝が、風にさやさやと鳴っている。
その両端に並ぶのは、白い壁に茶色の屋根の家の群れ。
血の繋がった兄弟のようによく似たその姿。
門の形、とか窓の据え付け方とか、ほんのちょこっとだけ様子が違うところが、本当に同じ親から生まれた子供のようだ。
最近宅地造成されて、同じ建築会社がいっせいに建て売り住宅を売り出したのだろう。どの家も新しい。
なんとなく、そこらの人を捕まえて、
「すみません、普通の家はないんですか?」
とか聞きたくなるような、まるでドールハウスの出来そこないみたいな家が立ち並んでいる。
前にいた街のように、すすけて剥げかけた壁とか、瓦がかけちゃって出入りの左官屋さんに声をかけられちゃうような家とか、そういう家はないようだ。
美しく整えられた風景。
それは、この街の市政がきちんとしていると見るべきだろうか? それとも見栄っ張りのお偉いさんがいる?
左手を腰に手を当て、仁王立ちで街を見下ろしていた香穂子は、右手に持った鞄で何気なく腿を打った。
鞄の皮が足とぶつかりあってかぽん、と間抜けな音をたてる。
鞄の中身はノートと筆記用具。それから身だしなみ用品少々。財布。それだけ。
まだ教科書は入っていない。
自分の学生鞄とは思えないほど軽い感触に、香穂子は女性にしてはきりりとした眉をしかめた。
「早朝の路上で仁王立ちしている女子高生って……、なんだか不審人物ぽいよね」
ついで「はあっ」とため息をつく。
小松香穂子。16歳。高校二年生。
それが香穂子が一般的に名乗れる唯一の肩書きだ。
昨日転校したからこれからは「私立創英高校 二年三組の生徒」という肩書きもある。そのうち「部活」とか「町名」とかも名乗っても構わないかもしれない。
ただ、それだけ。
腰まで届く黒髪は唯一の見てくれの自慢だけれど、容姿は十人並み。
小学校の頃に一度『ぷろぽおず』などという洒落たことをしてくれた子はいたが、それ以来そっち方面の話題はさっぱり。
「平安時代だったら引く手数多だっただろうな、お前。
緑なす黒髪の君、とか言われて」
と笑っていったのは文科系の大学に通う兄だ。
悔しいけれど、反論できない。確かにその時代だったらそういう肩書きはあったかもしれない。
木登りが巧い、とか勘がいいとか、色々と細かい特徴はあるが、それが自分を表現することができるものとは思えなかった。
そう、少なくともこの街では。
「なーんか、調子狂うんだよねぇ」
朝の風が、香穂子の腰まで届く髪をなでる。
黒い滑らかな髪が、耳の後ろをくすぐる感触。
香穂子が以前に住んでいた街は、いわゆる「城下町」といわれる町だった。
しかも田舎の。
古きよき家屋が立ち並び、舗装された道なんて大通りだけ。
現在にしては人情やらなんやら、そういったモノが生きていた町だった。
しかし、ここはどうだろう。
敷き立てのアスファルト。
できたての並木道。
作り置きの家。
そして……出来たてほやほやの転校生。
香穂子の父親はごく普通のサラリーマンだ。
母親は専業主婦。
ごく普通の二人は、ごく普通に出会って、そして結婚。
二子をもうけて幸せに……。
「幸せに社宅に住んでいれば良かったのに……」
肩を落として歩きながら、香穂子はぶつぶつと文句を言った。
それなりに幸せになった二人は頑張って、ついこの間念願のスィートホームを購入したのである。
それは比較的若い二人には、しつらえたかのように好条件の物件だった。
仕事の出先でその掘り出し物を見つけた父は即効手付を支払い、恐ろしいことにその日のうちに商談が成立してしまったのである。
後から聞いた話によると、こういったものは「早いもの勝ち」で、戸惑ったりしていると「あっ」という間に指からすり抜けていってしまうんだそうだ。
父親の行動力には拍手を送ろう。
しかし、それが娘の幸せと正比例するかというと、それはまた別の話である。
香穂子は前の町の、ちょっと寂れたような感じが好きだった。
なんの特徴もない、つまんない高校と言われようが、苦労して入った前の学校が好きだった。
素朴で、なーんにも影のないあの学校が。
一際強い風が吹いて、髪は耳の後ろをするり、と通り抜けた。
それがまるで、前の街での自分を洗い流してしまったようで、香穂子は再び年に似合わない枯れたため息をついた。
何とはなしに髪の毛の流れる先を見る。
その先には白い建物が見える。
カタカナの「コ」の字を描く、白亜の館。
広く大きな校庭の正面には桜が、裏には銀杏が植えられている。
今は裏門が銀杏の落ち葉に彩られ、黄色い絨毯を敷き詰めたかのような輝きに満ちている。
白い壁が黄色い銀杏の落ち葉をいっそう映えさせる。
しかし、香穂子が使うのは正門である。
そして、恐らく春には裏門を使うだろう。
……この彩りに自分は似合わないから。
ひねくれた気持ちで正門をくぐる。
部活の朝練には遅い。しかし登校には早い時刻で生徒は誰もいない。
数歩歩いて香穂子は立ち止まった。
正門の横。少し離れた場所に桜の木が一本、そこに「いた」。
桜の木など、校庭をぐるり、と囲んでいる。
しかし、その木はまさに「いた」と称するに相応しい趣がある木だった。
その木だけが金網の枠で囲まれていたから、何か由緒がある木なのかもしれない。
しかし、その網はところどころ破けている。
「けっこう、杜撰かも……」
かがみこんで破けた網の目に指を引っかけながら、香穂子は桜を見上げた。
「すごい……」
秋支度の最中なのか、葉をひらひらと落とす枝は四方に伸びる。
まるで空をすべて覆い尽くそうとしているかのように。
仰ぎ見る香穂子が押しつぶされそうな迫力である。
その枝葉を、どっしりと安定感のある根が大地に支える。
大人十人が手をいっぱいに広げて、やっと囲めるほどの太い幹。
燻製にされたかのように黒ずんだ木皮は、まるで黒漆のように輝いて見えた。
呆然と桜の木を見上げていた香穂子は、そっとその幹に手を触れてみた。
秋の風にさらされた木皮のひんやりとした感触が、じんわりと手に広がる。
その冷たさが掌を這い、手の甲まで伝わったとき、弾かれたように香穂子は木を見上げた。
(よく来たね。……待っていたよ)
一瞬。物言わぬ桜が、なぜか自分に語りかけてきたような気したのだ。
「ば……、馬鹿じゃないの!」
呆けたように半開きにした口を慌てて閉めると、香穂子は鞄を振り回しながら肩をいからせ、校舎に向かってズカズカと歩きだした。
その頬がわずかに赤いのは、自分のセンチメンタルな行動に恥ずかしくなったからか?……それとも?
香穂子の行く先には白い四角い建物。
いくつもの窓が整列した、時計塔付きの校舎。
昨日から通いだした新しい学校。
瀟洒なこの街の雰囲気に、香穂子はまだついていけずにいた。
今のところは。