燈師について 2
西波先輩は、にゃむにゃむと口元を動かしている猫のゆずを連れて何処かへ消え、友大さんは職場からの電話で自室へと去った。
居間には彰さんと俺とほんのり湯気の立つ日本茶だけが残されている。
「まず、この台帳に書いてある事柄について、時間もあまりない。簡潔に説明するよ。」
そう言って臙脂色の和本をめくると、墨で書かれた記号のような文字を読み上げ始めた。
記号のように見えるが、1180年頃のれっきとした日本語だ。
秀嗣は歴史的仮名遣いというものが苦手だ。
授業でも習うが、ちんぷんかんぷんなのだ。
ただ、授業で習う歴史的仮名遣いは割と最近のものが多いので、授業で出来たところでこの台帳には太刀打ちできないだろう。
「燈師とは、火を燈す職にあり。
火とは闇を照らすものなり。」
台帳から顔を上げて彰さんが補足する。
「今のが表題のようなもので、次に読むのがこの表題の説明にあたる文章だよ。」
そう言って再び台帳に目を落とす。
「闇とは人々を迷わせ、人々を悪にするものなり。また人を真理に導くものなり。
光とは人々の目を眩まし、人々を撹乱するものなり。また人を幸福へと導くものなり。
しかしながら、
人は、光の中のみで生きることはできず。
人は、闇の中のみで生きることはできず。
そのどちらかで生きようとした者は、たちまち火に当てられ灰と化してしまう。
燈師とは、火を燈す者なり。
闇を広く照らし、闇を明らかにし、時に光を和らげる。
燈師としての心映え、ここに示す。」
秀嗣は、言葉の意味を咀嚼しようと、ゆっくり瞬きをする。
しかし、語られた言葉たちは秀嗣の意思を無視して心に流れ込んでくる。
勢いよく、でも決して濁らず。
その清らかな流れを止めることもできず、ただ、秀嗣はぼんやりと口を開け、円卓に置かれた和本を見るともなく見ていた。
「説明文って言ったけれど、大した説明にはなっていないだろう?
燈師っていうのは、毎年秋祭りの間の三日間だけ、莎野川市の至る所に張られている結界を解いて周り、その際に使った松明を持って城前に在わす莎潟神社にて火を燈すのが仕事だ。
あとは、祭り以外の時はこの結界を絶対に破られないよう維持するのが仕事なんだ。」
「それが、結果として闇を照らし、光を和らげることに繋がるのでしょうか?」
「さてねえ」
彰さんは、生姜牛乳を一口飲んで、にこりと微笑んだ。
「まあ蒼藤くんにも聞いてみるといいよ。その様子だと寺院業界、もとい青藍寺の御本家さんがいろいろとせっついてきてるんだろう?蒼藤くんなら、ある程度の情報は持っているはずだよ。」
「え…」
「お父さんの差し金じゃなきゃ、お弟子さんに迎えを頼んでまでこんな遠いところで遅くに話し込んだりはしないだろう?」
「…はい。そうですね」
バレていた。最近、父の蒼藤がやけに莎野川城について熱心に調べ始めたと思いきや、妙なことを言い出したのだ。
「莎野川城が見えたら、部活で一番信用のおける人にそれを打ち明けろ。
そして話をしてくれると言われたら何でもいいから情報を持って帰ってきてくれ。
もし、怪訝な顔をされたらうまく誤魔化して別の人を当たれ。」
とかなんとか。
「莎南の弓道部に居るはずなんだ。」
とかなんとか。
「青藍寺が莎野川城を探っているということがバレないように」と言われたけど、完璧に見抜かれてしまいました、父さん。
実の所、莎野川城は3日程前から見えていて、一度自分の教育係をやってくれている内田先輩に聞いたら、やけにすんなりと頷かれたのだ。
「ああ、あれねー。俺も詳しくは分かんないんだけど。保守派の家系には見えるらしいよ。」
「保守派って何の保守派ですか?」
「んー。保守派じゃなかったかもなあ。大昔の派閥の話らしいんだけど、俺バカだからわかんねんだわ。」
と華麗にスルーされてしまったので、西波先輩を頼った次第である。
嫌にスムーズに事が進むと思ったのだ。
普通、ただの後輩を突然家に連れて行ったりしないだろう。今日は金曜なのだ。明日にしたっていいわけだし。
それに、西波先輩は一度も彰さんに連絡していないのに、夕飯は秀嗣の分まで用意されていた。
大皿料理ならまだしも、鯖の塩焼きは1人につき1尾あった。
秀嗣の行動は筒抜けだったという事だろうか?
西波先輩が「忍田は莎野川城が見える」と言った時、お兄さんの友大さんは驚いたような顔をしていたけれど、彰さんは納得するように頷いていた。
ということは、燈師である彰さんには、相手の心内が見えるような、そういう力があるというのだろうか?
信じ難いけれど『燈師の心映え』に書かれている「闇を明らかに」という部分が能力として適用されているのだとしたら、有り得ないこともないのかもしれない。
もしくは、秀嗣がたまに利用する"お地蔵ネットワーク"と似たような機能が燈師の結界にもあるのかもしれない。
考え込んでいると、足元を風が通り抜けた。
ふと顔を上げる。
家の外から鈴虫やコオロギの鳴く声が聞こえ始める。
カエルの声も聞こえるようだ。
まるで夢から覚めた時のように周囲の音が鮮明に聞こえ始める。
まさか、今の今まで、この空間に結界を張っていたというのだろうか?
そういえば、家に入ってから虫の声は聞こえていない。
そう、一度も聞こえなかった。
それに食事の際、彰さんは大事なことを言っていたではないか。
秀嗣の視線が彰さんの双眸とぶつかる。
「莎野川城が見えるという話、誰にもしてはいけないよ。」
そう言って彰さんは悪戯っ子のように微笑むと、つと立ち上がり居間の扉を開ける。
「お迎えが来たようだ。」