陽炎と城 1
「ご油断なく。」
そう言って友花は神棚に向かって正座をして、床に指をつき、上体を倒して礼をした。
県立 莎野川南高校、通称 莎南の弓道部では、天照大神を祀った神棚に独特の挨拶をする。
朝と放課後、道場に入った時は「失礼します」。
帰る際は「ご油断なく」という。
「失礼します」はまだ分かるが「ご油断なく」とは一体どういうことなのかと疑問に思い、ネットで調べたところ、どうやら北国の言葉で「お気をつけてお帰りください」という意味らしい。
しかしながらここは、南関東。気温年較差が緩く「冬は暖か、夏はそこそこクソ暑い。」
そんな土地である。
もし何かのきっかけで、遠方の北国の言葉が定着したのだとしても、人間側がそこに在わす神様に向かって
「お気をつけてお帰りください」
などと言うのは違和感がある。
だからといって言葉通りの意味で
「ご油断なく」
と忠告めいたことを言うのはさらに意味不明である。
下手したら神様怒るんじゃないか?なんて思いながら制服のスカートの皺を伸ばす。
挨拶に疑問は残るが、神棚の前で正座しながら考えたところで、理由も由来も分からないし、当の神だって教えてはくれまい。
よし、帰ろう。
正座した状態から腰を上げ、爪先を立てる。
左足を前に踏み出す。この際、左足が右膝頭より前に出ないよう気をつける。
残った右足は、左足に引き寄せるようにして立ち上がる。
これが弓道における基本の起立動作である。
といっても昇段審査以外で使う事は今のところない。
ただ、習慣化しておかないと、いざ昇段審査!という時にボロが出る。
言葉で解釈しようとするとなかなか難しい動作だが、二年生になってようやく板についてきたと自分では思っている。
薄暗い道場内で戸締りの確認をする。
矢道側のシャッターは、先程一年生が閉めてくれたので問題ない。
そのまま出入り口だけ施錠して急な階段を登りきると、これまた急な坂道をゆっくりと登る。
鍵を返却しに守衛の詰所まで行くと、ゴルフ焼けした白髪のおっちゃんが小窓を開けて顔を出した。
「今日は西波さんの日だったかあ。お疲れ様。」
友花は鍵を手渡しながら軽く会釈する。
「お疲れ様です。」
「随分、陽が短くなってきたねえ」
「そうですね。家に着く頃には真っ暗です」
鍵の貸し出しファイルに自分の名前を書いてから時計を確認し、返却時間を記入する。
18時10分。
夏の終わりらしい薄っすらと羊雲が浮いた空の向こう側は、ふんわりとしたパステルカラーに染まっている。
橙と蒼の真ん中を移ろう空の色。とても綺麗だ。
守衛のおっちゃんは「気をつけてね〜」といつものように見送ってくれた。
駐輪場で自転車に乗り、莎南弓道部が道場を借りている、ここ株式会社ヨシクラの工場の外に出ると後輩の忍田 秀嗣が夕空を見上げて突っ立っていた。
「よ!」
友花が肩を叩くと、秀嗣はびくりとして振り向いた。
「…お疲れ様です。」
「帰るぞー」
自転車を押して歩き始めると秀嗣も後ろをついて歩き始めた。
「何見てたの?」
「…あー…いや」
なんとも歯切れの悪い後輩ちゃんである。
「まーたなんか見てたんでしょ」
「先輩なら言っても大丈夫かな。」
「おう。なんでも言ってみな!」
「アレ、見えますか?」
そう言って秀嗣は右前方の森の向こうを指差す。
いつもは何もない筈のその空間には、モヤモヤと大きな陽炎のような物が漂い、その中央に真っ黒な城がどっしりと現れていた。